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2020年8月

2020年8月26日 (水)

2020年08月21日

2020年08月21日

〇08月21日(金)。

 毎日、何もしてないのと同じなのですが、時は過ぎ、日付も変わり、8月も下旬になってしまいました。まだ、猛暑日が続いています。
 朝早く妻から電話があり、今週会う約束を、来週に延ばしました。今週が、暑さのピークで、来週から幾分涼しくなると、テレビの天気予報で言っていたからです。暑い最中に、都心まで来させるのは、申し訳無いと思ったようです。私も同意しました。
 今日は、日記をブログに上げる日なのですが、種々手間取って、午前中では終らず、近くの公園に昼食を食べに行き、関戸橋を渡って、聖蹟桜が丘まで歩いて、帰りはバスで我が家に戻りました。
 キューピーの工場の横にある公園の名前が分らないのですが、公園の真ん中に浅い池があります。人工の池で水も水道水です。この水道水が、常に流れているので、水温はかなり低いのです。この池の前で、昼食にしました。昼食の間に、犬を連れた若い女性の散歩者が、やって来ました。時刻は午後1時頃だったので、一番暑い頃だったと思います。女性は先を急いでいる様子でしたが、犬の方はいきなり、池に入り身体を沈めて、とっても気持ちよさそうでした。時々、女性が綱を引くのですが、犬の方は「もう少し居たいよー」と、これ以上無いような切ない顔をして哀願するのです。この時間の犬の散歩は、人間より遥かに辛いのではないかと思います。人それぞれに事情があり、この女性も仕方なく、この時間に散歩したのでしょう。15分弱だと思いますが、犬と人との猛暑の夏のドラマを見せて貰いました。
 食後、公園から多摩川の土手に出て、関戸橋を渡り、聖蹟桜が丘に出ました。特に聖蹟ではやることが無く、京王ストアで、買い置きが無くなったレトルトのスープや、モロヘイヤなどの野菜類を買い、3時頃、我が家に戻りました。急いでシャワーを浴び、日記をブログに載せる作業をし、5時には、ブログに載せることが出来ました。ブログに載せる作業そのものは、簡単なのですが、昨日と一昨日の日記を書いていなかったのです。
 ブログの作業が終った後は、通常の野菜炒めと、ほうれん草のバター炒めを作り、何時ものように、テレビを見ながら晩酌になりました。ここまでは良かったのですが、9時頃、最後のビールを飲もうとして、サイドテーブルに置いていたグラスをとろうとしたら、グラスを取り損ね落としてしまいました。グラスは、粉々に砕け、リビング全体に散らばりました。このグラスの破片を拾い、リビングを掃除し終るのに、30分以上掛かりました。最近、このように手元が狂うことが増えてきました。年を取ったのだとつくづく感じました。また1つ年を取ると、どうなるのでしょうかねー。良い方向に向かうことだけは、無いでしょうねー。

「この夏の 猛暑に犬も 倒れそう 主人に哀願 もっと水遊び」
「我もまた 部品の劣化が 重なりて 遠くない時期 使用停止に」
 
〇08月22日(土)。

 今日、関東地方は、急に雷雨となる所があるとの天気予報でした。多摩地方も、少し雲が多いような気がしましたが、日差しもありました。
 この所歩いているのは、多摩近辺が多いので、今日は、何処を歩こうか悩むようになりました。色々考えて、国立まで裏道を歩くことにしました。
 我が家の近くのバス停、府中四谷橋北からバスに乗り、甲州街道に入った所でバスを降りました。この辺りは、多摩の豪農の屋敷が、並んで残っているのです。多摩川の崖線(河岸段丘)の上にあり、富士を遠望することが出来るので、豪農達は、崖線の上に家を建てたのでしょう。崖下の広大な土地は、用水が良く整備された田畑になっており、多摩の豪農が沢山生まれたのだと思います。
 一軒の、立派な旧家の裏庭には、江戸時代からの木であろうと思わせる大木が、何本もある鬱蒼とした森がありました。ところがその先には、戦後初期に流行った、平屋建ての木造住宅が、並んでいました。恐らく、戦後、銭が必要になった豪農が、土地を売ったのだと思います。木造住宅は、6畳と4畳半の部屋に小さな風呂と台所がついた2軒長屋でした。私の故郷の家の近くにも、このような住宅がありました。当時は、瓦屋根付の家に住めるだけでも幸せでしたねー。それにしても、豪農の家と、平屋の住宅との違いは、凄いものでした。両方揃って保存し、戦後の日本の歴史として、保存したらどうでしょう。
 南武線の踏切を渡り、昼食が食べられるような公園が無いか探しましたが、畑はあっても、公園はありませんでした。暫く歩くと、大きな団地が出て来ました。富士見台1丁目第1団地でした。この団地の西側は、南武線谷保駅から中央線国立駅を繋ぐ一直線の大通りで、桜並木が有名です。今日は、かなり東側を歩いています。団地の中を見ると、欅の森と公園があり、ベンチもありましたので、そこで弁当を食べました。
 団地とその中を行き交う人達を見ながら、自分の人生を振返りました。1968年、人生を始めた吉祥寺のアパートは、職場の寮でしたが、6畳3畳で風呂さえついていなかったのです。そこで、長男と次男を育てました。幸い近くに銭湯があり、随分世話になりました。寮に住み始めて10年後、柏富里の団地に住みました。富里の団地には、勿論、風呂は付いていましたし、8畳のリビング兼ダイニング、その他に、6畳、6畳、4.5畳の部屋があり、随分広くなり、文化的になりました。戦後の貧しさは、過去の物となりました。しかし、病気の妻の面倒を見ながら、子供3人を育てることになりました。それから20年後に住んだ府中幸町の団地も、柏と同じような広さでしたが、子供達は独立し、娘が看病の手伝いをしてくれましたが、25年病気と闘った妻が他界しました。定年後、現在住んでいる所は、マンションと言っていますが、基本的には団地が変形したものだと思います。そんな訳で、私は、18歳の時上京しましたが、それからこれまでの人生、殆どが団地暮らしでした。しかし、世界中で人口が増加している中、日本の人口も急激に増え、特別な人達を除いて、団地生活者が、社会の殆どを占めるようになりました。現在先進国では、人口減少が進んでいる国も多いようです。今後の人間生活が、どの様になって行くのか、残念ながら見届けることは出来なくなりました。団地の中で食事をしながら、色々、大変だった人生を思い出しました。
 その後、国立駅まで歩き、駅の側のスーパーで買い物を少しして、帰りはバスで我が家に戻りました。
 夜は、次男と飲めると持ったのですが、次男は別の約束があるらしく、今日は、一人の晩酌となりました。

「誰しもが 己の人生 生き抜いて その思い出が 人生の宝」

〇08月23日(日)。

 今日の午後は、かなりの確率で、雨になるのでは、と思っていました。そんな訳で、今日は、聖蹟桜が丘を往復しただけでした。私は、府中市民なのですが、府中市の中心部は、我が家から遠いので、多摩市の町ではありますが、「町へ行く」用事がある時は、聖蹟桜が丘の「町へ行く」ことになります。
 「町へ行く」という表現を、他の人も使っているのでしょうか。私が生まれた、長崎市の城山町は、長崎の中心街である、浜の町から、遠く離れた郊外の山の中にありました。浜の町は、浜屋と岡政という百貨店が二つもある、商店街で、近くには、眼鏡橋、丸山遊郭の跡等があり、ちょっと足を伸ばせば、大浦天主堂、グラバー邸、出島跡があり、江戸時代からの長崎の中心でした。子供の頃、この浜の町へ行くことを、「町へ行く」と言っていたのです。バスか路面電車に乗らないと行けませんでしたので、当時、小遣いを貰っていない子供としては、親に連れて行って貰うしかなかったのです。そんな訳で、町で行われる、「おくんち」、ランタン祭、精霊流し等の行事の時しか、町に行けませんでした。幼い頃、「町に行く」ことは、特別のことだったのです。中学生になった頃から、普通に「町に行く」事が出来るようになりました。でも、幼い頃に使っていた「町へ行く」という言葉は、幼い頃の思い出を伴って、自然と出て来るのです。
 四谷橋を渡り、聖蹟桜が丘まで、川崎街道から、1本大栗川寄りの、普段歩かない道を歩きました。最初の所は、最近宅地化された所があり、3度ほど、袋小路に悩まされましたが、その後は、すんなりと聖蹟桜が丘に着きました。昼飯時になっていたのですが、街中では弁当を食べたくなかったので、大栗川の霞が関橋の横で、昼食にしました。何処からか、逃げ出してきたのでしょう、金色の鯉が、ゆっくりと泳ぎながら、私の昼食に付き合ってくれました。
 食後、市民センターへ行き、「多摩市縄文土器展」を見ました。入場するに当たり、連絡先と病気の症状の有無について書かされ、体温を測り、手の消毒をして、会場に入りました。新型コロナは、日常の生活を大きく変えてしまいました。展示されていた縄文土器は、多摩市の開発の際、発掘された物で、4500年から5000年前の物でした。縄文土器を見ると、何時ものことですが、縄文土器は、とても芸術的であると共に、力強さを感じます。未だ農地も無く、自然の物を採集して生きていた、人間の小集団が、よくぞ、こんなに素晴らしい土器を作ったと感心します。
その後、京王アートマンへ行き、一昨日割ったグラスを買い、買い置きが無くなったボールペンの芯を買いました。京王アートマンから、京王デパートに移りました。連絡通路では、東京の雲の写真展が行われていましたが、連絡通路ですから、先程のような手続きは不要でした。
通常、デパートは歩かないのですが、暇に任せて、連絡通路から入った7階の趣味のサロンを見てみました。これまで、聖蹟では梟の人形を売っている所はないと思ったのですが、ここでは、3店で、梟の人形を売っており、ついつい買ってしまいました。
程よい時間潰しが出来たので、4時近くに、我が家に戻りました。家に戻って、スマホを見たら、昨日と一昨日、スマホで撮った写真が、残っていました。通常、スマホの写真をパソコンに移した段階で、消去するのですが、どうやら忘れて居たみたいです。仕方が無いので、パソコンに繋いで、消去しようとしたら、捜査中、パソコンの変な釦を触っていまい、スマホの写真を消去するのではなく、蓄積側のパソコンの写真を消去し始めました。驚いて中止しましたが、既に1200件ほど消去されてしまいました。最初は、復元の仕方が分らず、暗澹たる気持になりましたが、ゴミ箱に一時保存されていることが分り、なんとか復元することも、スマホの写真を消去することも出来て、ほっとしました。最近は、こうしたチョンボが多く、困ったものです。
今日の夜は、次男も参加して、楽しい晩酌となりました。今日買って来たばかりのグラスで、ビールを飲みました。このグラスは、とても薄くて、飲み心地が良いので、気に入っていたのです。これからどれくらい、割らないで済みますかねー。

「川に住む 鯉とは思えぬ 金の鯉 ユラリユラリと 我が前泳ぐ」
「金の鯉 泳ぐ姿を 目にしつつ 大栗川にて 昼餉喰うなり」

〇08月24日(月)。

 8月も終りに近づいているのですが、今朝も真夏のような空でした。長い梅雨が終り、8月になった途端、いきなり猛暑日が続く様になりました。8月に入って経験した雨は、12日郷土の森公園で、30分ほどの雷雨だけです。7月最後までの長梅雨も、8月最後まで続く猛暑日や真夏日も、初めての経験のような気がします。
 今日は、困った時の高尾山と言うことで、高尾山に行って来ました。子供の頃は、山の中で育ったようなものですから、山に行くと気持が落ち着くのです。
 12時半頃、高尾山口駅に着きました。月曜日だからでしょうか、人が少なく、ケーブルカーもガラガラでした。新型コロナ以前は、こんなことは無かったのですがねー。ケーブルカーの頂上駅に着いて、周囲に見える白雲の写真を、沢山撮りました。昨日見た、東京の雲の写真展に影響されたのです。今日高尾山に来たのも、実は、その影響があったのです。私は、他人の影響を受けやすい人間なのですかねー。今日は、頂上には登らないで、蛇滝口へ降りると決めていましたので、蛇滝口への降り口の広場にあるテーブルで、東京の街を遠望し、白雲を仰ぎながら、昼食にしました。
 食後、蛇滝口への道を下り始めました。殆ど人の居ない道でしたが、後ろから足早の歩く音が聞こえましたので、道を空けると、高校生と思われる若者が、「今日はー」と挨拶をして追い越していきました。大分歩いて、蛇滝に近づいた頃、登ってくる若者に会いました。さっき追い越して行った若者でした。「さっき会ったよねー、どうしたの、また高尾山に登るの」と聞いたら、「はい、地図を見たら滝があるというので、ちょっとだけ見に来たのです」といって、スイスイ登っていきました。今の私は、ここまで降りるだけでも、足の筋肉がプルプルしているのに、若者は凄いものです。羨んでも詮無きことではありますが、羨ましいのは事実です。
 蛇滝口へ降りて、旧甲州街道、南浅川の縁を歩きながら、また沢山雲の写真を撮りました。家に帰って写真を見てみましたが、技術はともあれ、雲そのものは、とても綺麗でした。雲の写真は、何処でも撮れますが、私としては、高尾山に来たことで、とても満足しました。緑の山、青空、白雲の織りなす風景は、心を癒やしてくれました。
 1昨年、亡くなるまでは、高尾山に来ると必ず立ち寄っていた、大学時代の職員の家に寄ってみました。奥様が、未だここに住んでいるようなのですが、呼び鈴を鳴らす勇気が出ませんでした。人生の或る舞台を共にした知人友人が、次々に無くなって行きます。
 夜は、ピザ、貝柱のアヒージョ、茸のイタリア風炒め物を作り、今夜も、次男と楽しい酒を飲みました。窓の外には、三日月が輝いていました。

「ビル街を 遠望しつつ 昼餉食う 天下睥睨 気分最高」
「刻々と 姿を変える 白雲と 語らいながら 食う飯旨し」

〇08月25日(火)。

 今日は、妻と一緒に夕食を食べることにしていましたので、3時過ぎには、家を出る必要がありました。そんな訳で、昼間の散歩には行かず、昼食は、我が家の前の「よつやさくら公園」で食べました。
 午後3時過ぎに家を出て、飯田橋の駅に4時半頃に着きました。途中で、妻から頼まれた物を買い、5時頃、妻の家に着きました。新型コロナと猛暑のせいで、妻と会うのも一月振りくらいで、都心に出たのも一月振りでした。
 直ぐに馴染みの中華料理店に、夕食に出かけました。この中華料理店の中国人の主人とは、仲良しですから、食べる所がすんなり決まらないと、何時もこの店で食べることになります。湖南料理も美味しいのです。基本的には、辛い料理なので、辛さに弱い人は、辛さを弱めにするように、頼む必要があります。我々の、好みについては、既に承知してくれています。
 食事が始まると、先ずは、新型コロナと熱中症予防のための、外出自粛要請による、体調管理の話になりました。私は、妻は私に較べて年を取らないと思っていたのですが、話を聞くと、矢張り、種々体調を崩しているようです。妻は、外出自粛をできる限り守っているようで、運動は、室内での体操や、家事をこまめにやることを心がけているそうです。それでも、運動不足は否めず、食欲が無くなり、食べる量も大分少なくなったようです。そして、身体の色んな所が、居たくなったり、思うように動かなかったり、自律神経失調症のような症状を感じるそうです。最近、私が経験していること、感じていることを、妻も経験しているようで、少し吃驚しました。元気そうな妻も、確実に年を取っているのだと感じました。
 一通り、身体の状態や近況を話して、妻は、出て来る料理を次々に食べ、「さっき話したことは本当なの」と思うくらいでした。何だか顔付きまで変わりました。本人も、「久し振りに、沢山食べられて、身体がすっきりした」と、とても嬉しそうでした。矢張り、人間の生活の基本は、自宅に籠もる事では無く、人と会い、話をし、社会の中で暮らすことなのでしょう。私も、妻に助けられましたが、妻も私に助けられた所があるようで、今日、都心まで出てきた甲斐があったというものです。
 料理屋の主人も入れて、新型コロナ以降の飲食業の難しさについて話したりしましたので、7時40分頃まで、店に居ました。その間、約2時間半、客は我々だけでした。この店は、神楽坂でも結構人気店で、新型コロナ以前は、満員のことが多く、予約無しでは入れないこともあったほどでした。みんな家に居ろとの要請なのですから、本当に飲食業は、大変だと思いました。
 中華料理屋を出て、何時ものように、コーヒーの飲めるバーで、もう一時を過ごし、8時40分頃に、妻と別れました。
飯田橋の駅へ着いて、ホームに降りると、突然マイクから大きな声が聞こえました。次に来るはずの電車が、秋葉原で人身事故を起し、これから新宿方面へ行く電車は、運転を見合わせるとのことでした。最初は、千葉方面行きに乗って、お茶の水で快速電車に乗換えようと思いましたが、こちらの方面の電車も影響を受け、動きませんでしたので、地下鉄南北線に乗換え、四谷で快速に乗換えることにしました。これはスムーズに行きましたが、最初の予定よりは大分遅れて、聖蹟桜が丘からの最終バスにギリギリ間に合って、家に着いたのは、10時半くらいでした。外へ出ると、色んな事が起きるものです。

「人と会い 飲んで話して 良く食べて それが楽しい 人生なりき」

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2020年8月21日 (金)

2020年08月16日

20年2008月16日

〇08月16日(日)。

 この所、東京は猛暑日が続いていて、熱中症アラートなるものが、出されています。梅雨時は、青空が恋しかったのに、暑さが続くと、青空が恨めしくなったりします。人間は、勝手なものです。
 現在は、どんなに暑くても、クーラーを付ければ、涼しさを得ることが出来ます。寒い時には暖房にもなります。車や電車、飛行機で世界中を旅することも出来ます。お尻を洗ってくれるトイレも出来ました。レトルトや冷凍食品も、電子レンジで簡単に食べられるようになりました。この1世紀の、人間社会の発展は、驚異的です。しかし、これを支えているのは、電気であり、電気を作るために、この1世紀の間に、どれだけの化石燃料を燃やしたのでしょうか。人為的地球温暖化が起きている事は、認めざるを得ないような気がします。早く、地球自身が本来持っている、太陽光、地球の自転で生まれるエネルギー等、再生可能なエネルギーでの発電に、切り替えて欲しいと思います。
 今日は、日記をブログに上げた後、熱中症アラートが出ている中、墓参りに行ってきました。今日は、お盆の最後の日で、送り火をする習慣があります。お盆に、家に連れ帰った霊を、墓に連れ帰る事から始まった、仏教行事だと思います。昨日も書いたように、私は、宗教が嫌いなので、当然、宗教行事も嫌いです。しかし、宗教の行事は、日本文化にもなっていますので、知識だけは、少しあります。今日は、散歩の行く先を決めるのに、送り火の習慣を利用させて貰いました。
 最初の妻が死んだ時、私が建立した墓は、第2高尾霊園にあります。この時、私は既に宗教が嫌いでしたので、墓を作る気は無かったのですが、現実の世の中というものは、観念的思考だけでは、やっていけません。子供や親族から、無言の圧力を感じました。
 第2高尾霊園は、高尾山口駅から、30分ほど歩いた旧甲州街道の途中にあります。近くに、料亭「うかい竹亭」「うかい鳥山」があり、高尾山と南高尾の山に囲まれた、「梅の木平」と呼ばれる緑の濃い場所の、高尾山側にあります。この緑の中で、今日も昼の弁当を、美味しく食べました。散歩と言うより、小旅行を楽しんでいる感じです。ほぼ毎日出かけるので、近くて、お金の掛からない所が良いですねー。
 昼食後、墓掃除をして、高尾山口に戻り、聖蹟桜が丘で、今晩の摘まみを少し買って、4時過ぎに、我が家に戻りました。今日も、夜は、昨日から休みの次男と一緒に、テレビを見ながら、晩酌となりました。週に3日は、こうした時間が持てる私は、幸せ者だと思います。

「子供等を 共に育てた 思い出を 妻と一緒に 墓での昼餉」
「女郎花 屁糞葛の 巻き付いて まだまだ譲らぬ 主役の座かな」
「苔生した 石垣に咲く 韮の花 白と緑の 似合いの構図」
「藪の中 白く可愛い 君は誰 高尾名物 姫薮蘭かな」

〇08月17日(月)。

 今朝も、溜息が出るような熱さでした。まだ、ミンミン蝉が元気良く鳴いています。
 今日は、何故か吉祥寺の井の頭公園に行ってみたくなり、行って来ました。吉祥寺には、結婚して就職し、長男が誕生してから5年程、井の頭公園の直ぐ近くに住んでいました。年のせいもあり、思い出を辿るのが、生甲斐のようになっています。
 12時半頃に、吉祥寺駅に着きました。月曜日だというのに、吉祥寺は、人出が多いように思えました。古さと新しさが共存しているからでしょうか、人気の街だそうです。駅から出て、真っ直ぐに、井の頭公園に行き、メタセコイアの林を見ながら、昼食にしました。
 メタセコイアと言えば、絶滅したと思われていたのですが、終戦の年、昭和20年に、中国四川省で発見され、昭和24年、中国より、挿し木と種子を譲り受け、日本全国の公園などに植えられたそうですから、一番古い木でも、70歳くらいですね。目の前のメタセコイアが何歳か知りませんが、背が高く立派に育っています。
 先週書きましたが、メタセコイアの化石を、八王子市の浅川で見る事が出来ます。150万年~200万年前の、比較的新しい化石で、完全に石化していません。化石の中の年輪が見えますし、年輪に沿って化石を剥ぐことも出来るのです。しかし、この剥いだ化石は、川に投げ入れると、沈んでしまうそうなので、ある程度の石化は、進んでいるようです。化石のある地域は、扇状地で泥流がメタセコイアを埋め、現在見られるような地層を作ったようです。私は、石炭の層を直接見たことがないのですが、浅川のメタセコイアの化石は、石炭になる一歩手前のような気がしました。
この化石は、昨年の台風19号までは、木の幹や、地層の先端が少しだけ見えていたそうですが、19号によって引き起こされた激流によって、泥岩が削られ、木の幹全体が露出して仕舞ったとのことでした。あと一回、同じような台風被害に遭うと、幹の化石全てが、流されてしまう恐れもあるそうですが、今のところ、特別な保管をする気は、無いようです。それはそれで、仕方が無いと思いました。地球の自然を人間が守ろうとすると、富士山を大型ドームに入れて、守ろうとする、馬鹿げたことを平気でやろうとする人間は多いですからねー。
 食後、吉祥寺駅の下の商店街を歩きました。私が上京した昭和38年頃は、吉祥寺は、まだ、高架されておらず、吉祥寺駅も、大正時代を思わせる木造の駅舎でした。吉祥寺には、成蹊大学があり、そこで我が校との野球の試合を応援するため、何度も吉祥寺に、足を運びました。それが、5年後、私が吉祥寺に住み始めた頃には、高架が完成し、駅の下にロンロンという商店街が出来ました。今日行くと、駅下の1階は、生鮮商品を売る、ロンロン市場になっていました。昔は、高架下の商店街には、生鮮市場は、無かったと思います。記憶違いかも知れません。しかし、ロンロンという名前が残っただけでも、嬉しいです。当時、吉祥寺が、近代的になったと言う気がしたのです。その頃、中野から北は、田舎だとのイメージがありましたから、、、。
 吉祥寺から、我が家に4時近くに戻りました。今晩も、次男と一緒に、美味しい夕食となりました。

「井の頭 メタセコイアの 森見つつ 思いでおかずに 昼餉食うなり」
「カルガモの 雛も子供と なりにけり 水鳥達も 夏は暑いか」

〇08月18日(火)。

 今日は、午後から晴れ間が出るという予報だったので、洗濯をどうしようかと悩みましたが、雨は降らないようなので、洗濯をしました。ところが、午前中、9時前から日差しが出て来て、良い洗濯日和になりました。
 朝7時半頃に、妻から電話がありました。矢張り、この熱さには参っているようです。でも、色々生活に苦労がある時に、私に電話をかけようという気になってくれるのは、嬉しいことです。今週中に、会うことにしました。
 今日は、我が家の正面に見える、浅川と多摩川の合流点から、高幡不動まで浅川の河原伝いに歩く積もりで出かけました。上流のメタセコイアの化石が、見つかるかも知れないと思ったのです。
 先ず、合流点まで行って、正面に我がアパートを見ながら、昼食にしました。今日は、軽く北風が吹いて、日陰に入ると、33度を超える気温なのに、涼しい感じがしました。我がアパートは、この辺では大きいので、目立った存在です。背中の方は、以前は仙人の花畑でした。4年前だったか5年前だったか、紀伊半島にも多くの被害をもたらした、台風の被害を受け、この花畑は砂に埋もれてしまいました。その後、仙人は花畑の世話をしなくなりました。メタセコイアの化石の層も、この花畑を埋めた泥流と、同じような泥流によって、出来たのだろうと実感しました。
 食後、河原を歩いて、メタセコイアの化石を探しましたが、全く見つかりませんでした。良く良く考えると、メタセコイアの化石は、普通の石に較べると軽いので、濁流に乗って多摩川に入り、更に下流へ流れていったはずだと気がつきました。そこで、化石探しは諦め、浅川の土手の道を、花や草木を楽しみながら歩き、新井橋、石田大橋を越えて我が家の戻る、標準的なコースを歩きました。夏の暑さをものともしない、ニラ(韮)、イヌゴマ(犬胡麻)、イヌタデ(犬蓼)、クズ(クズ)、センニンソウ(仙人草)、サルスベリ(百日紅)、フヨウ(芙蓉)達が、熱中症にもならず花を咲かせていました。
途中、SVマーケットで、以前から欲しかった、大きめの梟博士人形を買って、我が家に戻りました。梟博士は、大きいので部屋には飾らず、玄関先において、お客を出迎えて貰うことにしました。
 夕方は、SVマーケットに行くと、必ず買うことにしている、2種類の鶏の軟骨を、踝の方は唐揚げにし、胸肉の方は、塩もみにして、明日まで1日干しにしました。また、このSVマーケットでは、老人1人分のおかずも売っていますので、酒の摘まみとして、牡蠣フライ、タコ焼き、鰺の大葉フライを買いました。夜は、踝の唐揚げ、ツブ貝、貝柱、海老のアヒージョ、牡蠣フライ等で、今日から金曜日まで、次男が仕事なので、一人ではありますが、美味しい酒が飲めました。

「緑濃き 土手に真白き 花の道 暑さ忘れる 韮の花かな」
「梅雨の時期 背伸びしすぎた 草達が 夏の暑さに 首項垂れる」
「金網は 心地良きかな 我が住家 窓1杯の 屁糞葛よ」
「浅川の 最後の河原に 緑増え 犬蓼畑が 出来ているなり」
「君の名を 漸く覚えた 犬胡麻さん 大汗かいた 君との出会い」
「夏雲が 下りて来たのか 川岸に 木を埋め尽くす 仙人草かな」
「憎たらし 何処にも蔓延る 葛の蔓 猛暑に負けず 昇り藤の花」
「白雲に 届けとばかり 花咲かす 猛暑気にせず 百日紅の花」
「君もまた 暑さに負けぬ 芙蓉かな 花木に満載 大輪の花」

〇08月19日(水)。

 午前中、9時頃、メキシコで世話になり、現在もゴルフを一緒にやっている先輩から電話がありました。今年、2月のゴルフを断ったことと、5月に心臓の手術をしたことを漏れ聞いて、まだ、生きているのか確認したかったようです。私が、電話に出て元気に応対したので、拍子抜けしたような声を出していました。お互い元気なのが確認出来たので、早くゴルフが出来るようになる事を願って、電話を切りました。
昨日だったか、テレ朝の天気予報で、昭和記念公園の向日葵を紹介していました。2週間ほど前に、昭和記念公園に行った時には、まだ咲いて居なかったので、今日は、向日葵を見に、昭和記念公園に行きました。
12時半くらいに、昭和記念公園に着き、場所は分っていたので、一直線に向日葵畑に向かいました。東京都内では、これ程広い向日葵畑を作れるのは、昭和記念公園だけでしょう。向日葵は、普段花を見る時に期待する、可憐さや華麗さでは無く、力強さを強さを期待します。向日葵は、期待を裏切らず、真夏の太陽に向かって、雄々しく咲いていました。
欧州のイタリア、スペイン、ハンガリー、そして南米のパラグアイで見た、広大な向日葵畑を思い出しました。これらの国々では、主要な食用油がオリーブオイルとヒマワリ油らしく、広大な向日葵畑がありました。南米のパラグアイでは、日本から来た協力隊の女の子を7人くらい、私のトラックに乗せて、パラナ川の流域の波状丘陵地帯の向日葵畑を案内して、得意顔だった自分を思い出します。50代も最後の頃でしたねー。
向日葵を堪能して、トンボの池の前のベンチで、昼食にしました。トンボの数は少なく、蝉時雨が五月蠅いほどでした。食事中、お婆さんの二人組が現れて、「道が三本に分かれていますが、どの道を行けば良いですか」と聞いてきました。私は、知ったか振りをして、「左側は、桜の杜を通って「みんなの広場」へ、真ん中は小川の側を通って渓流広場へ、右側は森を抜ければ直ぐ公園周回道路に出ます、どの道を通っても大体同じような所に出ますよ」と教えました。お婆さん達は、「ありがとう、良い所で美味しそうな弁当ですね」と言って歩いていきました。
昼食後、日本庭園の横で、棒を持って、ヒマラヤ杉の実をとろうとしていたら、公園の係の人に怒られてしまいました。ヒマラヤ杉の実は諦めて、日本庭園には寄らず、森の道を通って、「こもれびの丘」へ向かいました。道脇にキツネノマゴ(狐の孫)が沢山咲いていましたが、その中に白花の狐の孫が一株だけありました。色抜けしたのかも知れませんが、若し白花だったら、初めての出会いだと思います。「こもれびの丘」は、花の入れ替え中で、禿げた丘のようでしたので、砂川口の池に行ってみました。その池で、銀ヤンマの番を、間近に見る事が出来、写真にもばっちり撮れました。
帰り道、向日葵畑と反対側の「みんなの広場」ヘ出たら、今度は、キバナコスモス(黄花秋桜)の大きな畑がありました。この花は、咲いて居る時期が長く、毎年見ているような気がします。今が一番見頃のようでした。
昭和記念公園は広いので、あちこち歩いて疲れてしまいました。結局、3時過ぎに公園を出て、4時過ぎに我が家に戻りました。今日は、色んなプレゼントを貰ったようで、満足しました。
夜は、晩酌をしながら、昨日録画した「アンネ・フランク」を見ました。若い頃、「アンネの日記」を読んだ時の、恐怖と怒りを思い出しました。今回の特集は、アンネの同年代の人で、戦争を生き延びた人達の話でしたので、収容所内の悲惨な光景は、少なく抑えられていました。しかし、ユダヤ人が経験した想像を絶する拷問等の、映像は何度も見たことがあり、未だに自分の身体に震えが出て来ます。そして、「人間が生きるということは、何なのか」、深く考えて行くと、強い者や豊かな者が、それを守るために、組織と強制を利用して、民族の優越という共同意識を作り出し、戦争を民族が他民族(移民国家では国家)より、優位に生きるためには、必要なのだと言う結論に、反対することが出来なくなってしまうようです。現在アメリカに、自国が一番という大統領が出現しました。少し間違えば、悲惨な戦争が起きるかも知れません。平等、公正、博愛などは、自国に有利で無ければ、不要なものなのでしょう。

「太陽の 子等が1杯 花咲かせ 猛暑の中で 押しくら饅頭」
「蜻蛉池 オタマジャクシが 泳いでる 君との出会い 久し振りだね」
「蒲の穂と 蝉時雨を 浴びながら トンボの池で 昼餉食うなり」
「森の道 可愛い狐の お孫さん これは珍し 白狐の孫」
「銀ヤンマ 命を繋ぐ 君等見て 謝りたくなる 蜻蛉捕りかな」

〇08月20日(木)。

 今日は、永山駅に行って来ました。駅前にある「さえずりの森」にまだ行ったことがなかったからです。
 11時半くらいに家を出て、12時近くに聖蹟桜が丘の、バス停に着きました。永山行きのバス停で待っていると、5分くらいで、永山駅行きのバスが来ました。ところが、このバス連光寺経由でした。私が通常乗るのは、聖ヶ丘経由か、鎌倉街道経由ですが、永山駅に行けばそれで良いと思い、連光寺経由のバスに乗りました。なんとこのバスに乗るのは初めてでした。私は、良く「よこやまの道」の「みはらしの丘」に出かけるのですが、なんとそこを通るバスでした。「みはらしの丘」でバス停の時刻表を見たことがあるのですが、1日に2本しかバスが来ませんでした。なんとそのバスに乗ったのです。その後、バスは稲城側におり、色々廻り通常のバスより倍の時間掛かって、永山駅に着きました。通常のバスは、190円程度なのですが、今日は330円くらいかかりました。時間は掛かるし、高いし、今後このバスに乗ることは無いでしょう。
 永山駅のバス停の目の前が、「さえずりの森」です。ところが、簡単には行けず、駅の方から橋を渡り、丘の上から降りる形になりました。小さい森ながら、鬱蒼としていて、都市開発が行われる以前の、武蔵野の森が残っているようでした。殆ど人が入らないらしく、小道も藪化していました。その藪の中に、ヤマジノホトトギス(山路の杜鵑草)の花が、木漏れ日を受けて、1輪だけ咲いていました。人が通らないせいで、小道や森の中の至る所に、蜘蛛の網が張られていて、体中が、蜘蛛の糸だらけになりました。
 「さえずりの森」は、ベンチ等が全く無く、昼食が食べられませんでしたので、森を出て、永山公園に行くことにしました。永山公園は、永山駅の商店街の上の方から行けるようになっているのですが、今日は、商店街が休みで、エスカレーターが全部止まっていて、乗れないようにロープを張っていました。やっと使えるエレベーターを探したのですが、何階で降りれば良いか分りません。2回失敗して、4階で降りれば良いことが分りました。今日は、本当についていなくて、永山公園で弁当を食べ始めた時は、1時半を過ぎていました。食後は何もせず、家に戻ることにしました。
 家には3時過ぎに着き、その後は何時ものように、一休みして、5時頃からニュースを見て、6時半頃から晩酌を始め、7時頃から、題名はうろ覚えですが、「池上彰が戦争を語る」というテレビを見ました。水木しげるの戦争体験や、八重山群島における、軍による住民の強制疎開の事などが話されました。マラリアの無い所から、マラリアのある森に移動させられ、多くの人がマラリアで死んだそうです。軍は、疎開地にマラリアがあることを、知っていたそうです。昨日も、戦争の話になりましたが、信じられないような酷い話ばかりです。特に、日本の軍隊は、国家や民族を守ると言いながら、兵士はもとより、兵隊で無い住民までも、死に追いやったのです。このような事が、再び起こらないと言う保証は無いのです。

「武蔵野の 面影残る 深き森 多摩ニュータウン さえずりの森」
「暗き藪 出でて光りを 求めてる 森に一輪 山路の杜鵑草」
「蜘蛛達が 領地荒らされ 怒り顔 虫等の聖地 さえずりの森」
「木の上に 蝉の抜け殻 仰ぎつつ 永山公園 昼餉の森」

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2020年8月16日 (日)

2020年08月11日

2020年08月11日

〇08月11日(火)。

 今朝、ベランダから素晴らしい富士が見えました。白い雪が全て無くなった青山でした。急いで、アパートの10階に登って、富士の晴れ姿の写真を撮りました。夏に、こんなに綺麗な富士を見るのは、珍しいことです。我が家のアパートは、東棟、南棟、西棟の3棟から出来ていますが、西棟だけは9階建てで、10階の廊下から、富士、奥多摩方面を一望出来るのです。夏に、これ程綺麗な富士が見えるのは珍しいことです。
 綺麗な富士が見えると、直ぐ外を歩きたくなるのですが、今日は、先ず、孫達が使った、シーツやタオルなどの大洗濯をしました。更に今日は、日記をブログに上げる日なので、昨日と一昨日の日記を書いて、ブログに上げたら11時半を過ぎてしまいました。通常、富士が良く見える日は、高幡不動に向かって歩くのですが、1歩外に出たら、焼け付くような熱さでした。これでは長く外を歩けないと思い、急遽、聖蹟桜が丘へバスで行きました。コンビニでお握りや飲み物を買い、郵便局や病院の共同の待合広場で、昼食にしましたが、野外ではないし、歩いてもいないので、美味しくありませんでした。
 散歩の代わりに、冷房の効いた、京王デパート、京王アートマン、通りを挟んだオーパ等を彷徨きました。デパートを除き、客は比較的多かったと思います。デパートは、高級な服飾店が多く、新型コロナで外出自粛の環境では、商売が難しそうです。実は、新型コロナ以前から、服飾等、高級品を嗜好する人が減少していて、デパートは衰亡の道を歩いていたのですが、新型コロナが追い打ちをかけました。
 散歩とは言えないような散歩をして、我が家には4時近くに帰り、夕方は、ニュース番組を見ながら過ごしました。群馬と埼玉に40度を超える所があったそうです。矢張り、地球温暖化は、進んでいると思わざるを得ませんでした。中国、ネパール、韓国、日本など、洪水のニュースがかなり増えていますが、これも温暖化の影響なのだと思います。
 夕方は、昼間一時的に雲の隠れていた富士が顔を出し、久し振りに、富士を見ながら、晩酌をしました。

「川向こう 七生が丘の その上に 青き富士の嶺 多摩を見ており」 

〇08月12日(水)。

 今日は、良く晴れているのに霞がかかった、夏らしい朝でした。天気予報では、午後、雷雨になると言っていましたので、外へ出るのは、控えた方が良いのでしょうが、外へ出たい気持の方が強く、郷土の森公園へ行ってきました。
 公園に着いたのは、12時半くらいでしたが、何処を見ても、背の高い入道雲が、公園を取り囲んでいるような気がしました。公園内の森で、弁当を食べていると、妻から電話がありました。妻も、新型コロナと熱中症の為、自宅での一人の生活に気が滅入っているのではと思いましたが、生活を色々工夫し、外に出回らなくても、普通に生活が出来ているようです。こんな所は、女性というか妻の強さを感じます。外に出ないと、気分が滅入って、体調まで悪くなる私とは、大きな違いです。
 弁当を食べ終わると同時に、森の中の木漏れ日が、すっと消えて雷鳴が近くに聞こえてきました。今朝の天気予報の通りになりそうでしたので、取り敢えず博物館に避難することにしました。博物館に入って暫くすると、急激に雨が降り始め、木の葉や地面を叩く雨の音が強くなると共に、大きな雷鳴が、何度も聞こえました。しかし、ものの30分ほどで雨は止み、博物館の前の石の広場から湯気が立ち上りました。自然の劇に参加させて貰ったようで、気分が晴れ晴れしました。
 また晴れ間が出て来たので、公園内をゆっくりと散歩しました。出来たばかりの雨の雫、白百合に花、恋が成就した妻黒豹紋蝶等々、おまけも貰いました。矢張り、私に取っては、外が一番です。
 満足して、チュウバスで家に戻ると、バスを降りる時に、激しい雨が、また降ってきました。傘は持ってきたので、何の問題もありませんでしたが、2度も驟雨に遭うとは思いませんでした。3時半頃家に着き、急いで洗濯物を入れようと思ったら、全部取り込んでありました。次男が、雷の音で雨を予知して取り込んでくれたようです。
 夕方のニュースを見ていると、埼玉や栃木などでは、駅前に水が溜まったり、道路に水が溜まり、車が動けなくなったり、かなり激しい雨が降ったようです。多摩地方は、西の方から晴れ間が出て来て、雲の切れ間の夕焼け空に、富士が顔を出しました。良い演出でしたねー。
 夜は、「お母さんの木」という1969年に発表された大川悦夫作を、2015年戦後70周年に、鈴木京香主演で、作られた映画を見ました。男の子ばかり、7人の子供を産み、全員戦争にとられ、五男を除いて戦死し、復員した五男と会えないまま死んでしまった、母親の物語でした。戦争の狂気を民主主義の時代になって見るのは、本当に辛い物です。この前、娘が孫達には、まだ戦争映画やテレビ番組を見せていないと言っていました。良い考えかも知れません。最近私は、戦争映画を見るのを止めようと思っています。

「猛暑日の 蝉時雨の 森の中 薮蘭見つつ 昼餉食うなり」
「木漏れ日の すっと消えゆく 森の道 雷鳴近づく 郷土の森かな」
「恋仲の 妻黒豹紋 葉の陰に 雨の気配を 察した模様」
「暗き森 一陣の風 吹き抜けて あっという間に 土砂降りの雨」
「夏の雨 全速力で 通り過ぎ 熱き地面に 湯気の立つなり」
「雷も 急ぎ足にて 空を駈け 耳に優しい 遠雷の音」
「猛暑日に 喘ぎつ咲いてた 白百合も 一息ついた 驟雨の恵み」
「蓮池に 入道雲が 戻りたり 上にも下にも 夏真っ盛り」

〇08月13日(木)。

 今朝も、幽かながら富士が見えました。新型コロナと熱中症のお陰で、外へ出るのに、それなりの決断をしなければならなくなりました。この2つが無ければ、屋外の散歩は、健康維持のためにも、推奨されていました。事態はどうであれ、今日は、八王子の恩方の方へ行って来ました。昨年の台風19号で、この地域の北浅川が、かなりの被害に遭ったと聞いていたからです。この辺りには、雉が多く住んでいましたが、どうやら、我が家の近くに引っ越したようなのです。去年の秋以降、我が家の近くで、良く雉を見かけるようになりました。実は、この雉達は、以前、多摩川の河川工事の影響で、この恩方の方へ引っ越したと私は思っているので、里帰りですね。恩方を通って流れる浅川は、我が家の前で、多摩川と合流するので、雉の引っ越しも、あり得ないことではないと思っています。
 高尾駅から、陣馬高原下行きのバスに乗り、河原宿大橋で降り、そこから、北浅川の右岸を、下流に向かって歩きました。台風被害は、想像していたより酷いとは思いませんでしたが、何カ所も川岸の土手が抉られ、修復の最中でした。川岸には、我が家の前の砂利河原と同じく、大豚草が繁茂し、以前雉の住家だった所も大豚草の占領されていました。この大豚草の名前を思い出せなく、悩んでいたのですが、今日漸く思い出すことが出来ました。川の流れが、少し緩やかになった所に、人が渡る小さな木橋があったのですが、流されて閉まって、その代わりに鉄板が渡されていました。今年の天候も台風も、どうなるか予想が出来ない状況です。去年より、酷いことにならないことを祈ります。
暫く歩いて1時半を過ぎましたので、河津桜並木のある運動公園で、昼食にしました。今日は孫達が来た時のピザの残りを半分持ってきました。食べ切れるか心配でしたが、歩いた後だったので、むしゃむしゃと言う感じで食べられました。家では、4分の1しか食べられないのにです。他に、ベーコン、食後のバナナも食べました。
 食後、更に下流に向かって歩きました。エンジェルコートと呼ばれる介護施設の横から、浅川は、100M位、深山の急流を思わせる渓谷が続きます。川岸に降りる道があったので、降りてみると、激しく水の流れる、正しく渓谷でした。なんとその中で、何人もの若者が遊んでいました。流されて、今日のニュースにならなければ良いのですが、、、。でも渓谷は短いので、仮に流されても
大丈夫でしょう。
 私も、直ぐに土手の道へ戻れば良かったのですが、崖上の道無き道を、渓谷が終るまで、藪漕ぎをしました。お陰で、右手を切ってしまいました。まだ自分に、こんな力が残っているとは思いませんでした。渓谷が終ったので、土手の道へ戻り、歩きを続けました。出来れば、孫と化石を見た所まで歩きたかったのですが、相当歩いて疲れたので、今日は止めることにしました。水も無くなっていたのです。
 高尾街道に出た所で、ローソンが見えましたので、アイスキャンデー、スポーツドリンク、缶コーヒーを買い、先ずアイスキャンデーにかぶりつきました。食べ物を、こんなに旨いと思って食べたのは、本当に久し振りでした。身体が欲するものが旨く思える事を、身を持って経験しました。感激しました。スポーツドリンクもがぶ飲みしました。
 一段落して、周囲を見るとバス停があり、京王八王子まで行くバスも止まることが分かり、そこから、バスで京王八王子に出て、我が家に戻りました。なんと5時過ぎていました。久し振りの散歩らしい散歩になりました。

「幽かなる 富士の嶺仰ぎ 深呼吸 君の強さを 我にもおくれ」
「竹のよに 大豚草の 生い茂り 雉の館は 跡形も無し」
「笹竹を 掻き分け踏みしめ 藪歩き 北浅川の 短き渓谷」

〇08月14日(金)。

 今朝、目を凝らして必死に見ていると、漸く富士の存在を確認出来ました。そんな富士でも、1日に始まりに見る事が出来ると、元気を貰います。
 今日は、北浅川の化石に関する史料館に、行ってみたいと思いました。史料館があるかどうかも分りませんでしたので、八王子市役所に電話をして聞いてみました。すると、「化石を集めて展示しているか分りませんが、コニカミノルタ・サイエンスドームに聞いてみて下さい」とのことでした。そこで、直ぐにサイエンスドームに電話すると、「確かに、サイエンスドームで研究していますので、化石そのものの展示はしていませんが、ご来館下さい。質問があれば、担当の者がお答えします」とのことでしたので、行くことに決めました。
 先ず、聖蹟桜が丘から京王八王子に行き、そこからバスで、八王子市役所に行きました。野外で昼食を食べたかったからです。孫と化石のある場所に行った時、市役所が見えたような気がしたのです。これは正解でした。市役所の横の鶴巻橋の上流に化石の場所があったのです。今日は、鶴巻橋の近くの土手のベンチで、化石の場所を見ながら、昼食にしました。
 昼食が終ったのは、1時半頃で、一旦、京王八王子に戻り、別のバスで、サイエンスドームに行きました。サイエンスドームというバス停で下りたのですが、それらしき建物が見つかりません。サイエンスドームに電話して、場所を確かめたところ、「直ぐ近くです。浅川方向と反対に歩き、最初の道路を右折すれば、直ぐにドームが見えます」と教えてくれました。その通りに、歩いた積もりでしたが、また見つかりませんでした。電話するのも悔しいので、コンビニで聞いたら、店員が道まで出て来て、スマホの地図を見ながら、「あの角を曲がって下さい」と教えてくれました。
 サイエンスドームについたのは、3時頃となり、割と年配の担当者が、対応してくれました。先ず、恥ずかしながら、メタセコイアは北アメリカ原産で、日本には存在しないと思っていたので、その事を質問すると、「メタセコイアは、2500万年前から生きていた木で、北半球の各地で化石が発見されています。しかし、既に絶滅したと考えられていました。所が、昭和20年中国四川省で、原木が発見され、現在日本にあるメタセコイアは、その子孫です」と言われました。「どうしてメタセコイアの森は、倒れてしまったのか」、「メタセコイアが閉じ込められた地層は、どの様にして出来たのか、それは何時頃か」、「地層を形成したのは、火山灰だったのか、泥流だったのか」「メタセコイアは、まだ石化していないようだけど、これでも化石なのか」等、他にも多くを質問しました。どの質問にも、丁寧な説明を受けましたが、長くなりますので、何れ別の機会に書きたいと思います。
3時半頃には、サイエンスドームを出ました。近くにあった、福禅寺と極楽寺を参拝しました。八王子には、沢山の寺があるようです。少しバスに乗っているだけでも、幾つもの寺を見ました。しかし、新型コロナの感染が落ち着くまで、御朱印は貰わないことにしています。
その後、バスで京王八王子に戻り、聖蹟桜が丘経由、5時近くに、家に戻りました。今日も汗だくになりましたが、熱中症の心配は無いようです。

「孫と共 化石探した 浅川を 遠目に見ながら 昼餉食うなり」

〇08月15日(土)。

 朝早く、妻から電話がありました。流石に自宅に閉じこもってばかりいたのでは辛いので、近所に買い物に出かけたり、外食も偶にはするようにしたそうです。その方が、人間らしい気がします。
昨日、市内バスで八王子の町を2往復しました。そのバスから見た八王子の街が、古い店が残っている所もあって、魅力的だったので、今日は、八王子の街歩きをしてみることにしました。八王子には、何度も来ているし、色々な場所を歩いているのですが、知らない所も、まだ沢山あるようです。
 昨日と同じように、京王八王子からバスで市役所に行きました。昼食を食べる場所が思いつかなかったので、昨日と同じ場所で、食べることにしたのです。今日も美味しく、弁当を食べました。自分の身体の事ながら、家での昼食には、身体が拒否反応を示し、少しでも歩いた後の外気の中では、拒否反応も無く美味しく食べられるのか、自分の身体のことが良く分りません。
 食後、乗ってきたバスで、八日町一丁目まで戻り、焼き物屋で梟の焼き物を買い、八王子夢美術館で絵を鑑賞し、八王子の繁華街を抜けて、JR八王子駅北口へ出ました。これで、今日の八王子散歩は終りです。京王八王子まで、10分弱歩いて、聖蹟桜が丘経由、我が家に戻りました。我が家に着いたのは、3時過ぎでした。
 一段落して、夕方のニュースを見ると、映画俳優の渡哲也が亡くなったそうです。ある時代を代表する俳優でしたので、様々な、過去の映像が流されていました。彼は、10日に亡くなったそうですが、人を呼んでの葬儀も、お別れ会もしないように、家族に頼んだようです。そんな訳で、彼の仲間の俳優達も、ニュースが出るまで、彼の死を知らなかったそうです。
死者は、何処にも存在しないし、何も感じません。死者に対する様々な行事は、生きている人の都合であり、問題です。私は、宗教が嫌いですから、死後の世界を神と絡めた形の行事は、やりたくないので、渡哲也の願いは良いことだと思います。しかし、最近年を取ると、世の中には様々な考えがあり、どの考えが良くて、どの考えが悪いと決められなくなりました。ただ、宗教を絡めた、日々の生活文化は、民族文化となり、民族文化は、他の民族文化を排斥する傾向があり、戦争に繋がった事が、実際にあったことを、忘れないで欲しいと思います。 
 今日は、日本の終戦記念日です。戦没者慰霊祭に、令和天皇夫妻が、参列されました。新型コロナの影響で、久し振りの公的行事への参加ではないかと思います。平成、令和の天皇は、これまでの天皇観を覆す、平和嗜好の強い方ですから、それが、今後も続いて欲しいと思います。しかし、天皇や日本文化と深く関係が有り、戦争を鼓舞する役目を担った神社に、終戦記念日になると参拝する閣僚が、存在するのですから、宗教と民族文化と戦争は、完全に縁を切るのは難しいようです。

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2020年8月11日 (火)

2020年08月06日

2020年08月06日

〇08月06日(木)。

 梅雨が終ってから、天気は良いのに、遠くの景色が見えないほど、霞の強い日が続いています。天気予報の説明に拠れば、太平洋高気圧の張り出し加減で、西之島の火山灰が、日本列島まで飛来し、この霞を作っているとのことでした。
 今日は、広島の原爆記念日なので、朝から祈念式典の様子が放映されました。このような式典は、人が自然と集まってくるのが、式典を盛り上げるのですが、新型コロナの影響で、人数は制限されるし、間を開けて座ることなど、世界に平和の尊さを訴える重要な式典が、極めて形式的なものに見えました。阿部総理の演説は、例年も決まり切ったものを述べるだけで、集まった人達に訴える力がありません。今年は、それが更に顕著でした。阿部総理は、我々の少し後の世代の、ノンポリの典型のように見えます。現在、私もノンポリになってしまいましたので、阿部総理が、何かを真剣にやる気が無いことが、分ってしまいます。
今朝の天気予報の解説者が、昭和記念公園の、小型の向日葵畑を紹介していましたので、今日は、昭和記念公園に行くことにしました。新型コロナの感染が広がり始めた2月の3連休の時に、この公園に孫達と行きましたが、その時の混雑振りは、年に4度か5度は、この公園を訪れる私に取っても、初めての経験でした。皆が、感染の恐れが少ない広い公園を、子供を遊ばせる所に、選んだような気がします。それが逆に、凄い密を生みました。
 今日は、普通の日ですし、新型コロナと共に生きることに、誰もが慣れてきたことや、真夏の暑さが強烈だった事もあり、広い公園としては、寂しいほどの人出でした。先ずは、大きな池の端のベンチで、昼食にしました。大きな木が日陰を作り、池からの風は、スムーズに通り抜ける絶好の場所でした。お陰で、弁当が、とても美味しく食べられて、私の健康の源となっています。
 昼食後は、何時ものように、向日葵畑、蜻蛉の湿地、日本庭園、こもれびの里、みんなの原っぱを歩いて、西立川口の方へ歩きました。結構な歩きとなりました。色んな所に花がありましたが、エンジュ(槐)、向日葵、禊萩、遅咲きの蓮の花、鷺草以外は、花屋の店頭から持ってきたような花が、沢山植えられていました。明後日から、鷺草祭が始まるそうです。弁当を食べた横に湿地では、川蜻蛉のような、蝶蜻蛉のような、珍しい蜻蛉が、枯れた蘆に止まろうと必死でしたが、風がそれを邪魔しました。何度も渡来して、漸く止まれた時には、心の中で、拍手を送りました。日本庭園では、カイツブリの番が泳いでいましたし、銀ヤンマ、コシアキ(腰空)蜻蛉、シオカラ(塩辛)蜻蛉達が、子孫繁栄のための追いかけっこをしていました。何しろ暑かったので、途中で、ソフトクリームを食べたり、スポーツドリンクを買って飲んだり、熱中症対策をしました。
 今日は、ゆっくり歩いたので、西友で買い物をして帰ると、5時を過ぎていました。シャワーを浴びて一休みしたら、晩酌の時間になりました。昨晩の残り物に、アサリバターとウィンナーを加えて、一人の晩酌となりました。

「池の端 肌を撫で行く 風と共 喰らう昼餉は 王のブランチ」
「枯れ葦の 先に止まらん 川蜻蛉 頑張れ頑張れ 君には出来る」
「花終えて 枝に可愛い 実がつきぬ この木何の木 白雲木なり」
「山法師 苺のような 実をつける 花しか愛でぬ 情けなき我」
「白鷺の 空舞う姿 何時も見て 真似ているのや 鷺草の花」
「公園の エンジュの花が 満開に 真夏の雲を 見ているようだ」
「夏来れば 君を見ずして 日は過ぎぬ 向日葵コロナ 悪さはしない」

〇08月07日(金)。

 今日は、東京も猛暑日になると天気予報で言っていました。熱中症アラートも出て、出来るだけ外出しないように、要請されました。特に、年よりは、この要請にしたがって欲しいと念を押されました。社会が豊になり、老人が家に居ても生きていける時代になりました。有難い事ですが、私は、家に閉じこもっては居られない性分です。今日は、野川公園へ行ってきました。
 老人には、時間があるので、チュウバスを乗り継いで行くことにしました。我が家の近くから府中駅まで約50分、府中駅から野川公園の側の多磨町まで、約40分掛かります。乗り継ぎが上手く行けば良かったのですが、四谷からのチュウバスが府中駅に着いた時に、多磨町行きのチュウバスが出てしまいました。次のバスまで30分あります。
 この時間に、妻に電話しました。朝妻から電話があったのに、チュウバスに乗るまで気がつかなかったのです。朝、の電話は、特別の用事があったわけでは無く、昨夜、新型コロナに関する良い解説番組があったが、その番組を見たかどうかを確かめたかったようです。妻も、政府や政府の息の掛かった専門家の言うことには、何か釈然としないと感じているようです。それが、昨夜の解説が良かったので、私も見ていれば、話がしたかったようです。
 結局、野川公園には、1時半近くに着きました。今年は、新型コロナの影響で、まだ学校が続いているようです。公園には、殆ど人が無く、深閑としていました。木の上から聞こえる蝉の声も、子供の声には勝てません。明日からの3連休には、多くの子供達の笑い声が聞けるでしょう。広い公園で、蝉の声を聞きながらの昼食となりました。
 2時には、昼食を終え、野川自然観察園に行きました。観察園の前の看板に、タコノアシ(蛸の足)、イヌゴマ(犬胡麻)、カライトソウ(唐糸草)等、私の知らない花の写真が張ってありました。期待して観察園の中を歩きましたが、ヤブラン(薮蘭)、ヤブミョウガ(藪茗荷)、センニンソウ(仙人草)ばかりが目立って、イヌゴマの他は見つけることが出来ませんでした。時期が終っていたのかも知れません。
 今日は、往復に時間が掛かるので、散歩はここで切り上げて、多磨町バス停に戻りました。すると、チューバスの横で、何かの撮影が行われていました。チューバスが、出発するぎりぎりまで撮影が行われ、発車した後も、カメラマンがチュウバスを追っていました。運転手に何を撮影していたのですかと聞くと、「どうも新型コロナに関するニュースのようですよ、チューバスの利用者が減ったことと外出自粛を関係づけているようでした」とのことでした。私に何か質問してくれれば、喜んで答えたのですがねー。
 今夜は、軽く野菜炒めを作り、後は、買い置きの生ハム、等を肴に、随分昔の映画「スタンドバイミー」を見ながら晩酌にしました。最近、私の時代の古い物を見たり聞いたりすると、感動というか、辛いというか、胸が締め付けられるような感じがします。私の中にしかない、私の人生は、もうすぐ終りを迎えるのだなーと思ってしまうのです。これが、年を取ることなのでしょうねー。

「飯と共 腹に染み入る 蝉の声 心に栄養 身体も元気」
「今盛り 観察園を 占拠する 茗荷と蘭の 藪藪コンビ」

〇08月08日(土)。

 今日は、結構雲が多く、午前中は、矢鱈と蒸し暑かったのですが、私が散歩に出る頃は、日差しが出て来て、本当の暑さになりました。
 今日は、夕方孫達が遊びに来るので、近場の百草園駅までを、歩いて往復しました。四谷さくら公園で、準備体操をして四谷橋を渡り、程久保川に入った所で昼食にしました。程久保川の八重桜は、この時期になると皆な虫食い葉となって、空が透かして見えるようになります。何故、ここの八重桜だけ、虫喰い葉になるのか、分りません。虫が食ったのではなく、落葉の前の、自然の出来事なのかも知れません。これ程の葉を食べる虫を見たことが無いのです。良く良く見ると自然は不思議なことが多いです。何れにしても、私は、この虫が喰ったような網の葉が大好きです。
 昼食後、落合交流センターを廻って、百草園駅に出て、用水脇の昔道を歩きました。早くも萩が咲き始めていましたし、ヘクソカズラ(屁糞葛)は至る所で咲いていました。この草の葉や茎を傷つけると悪臭を放つ事から、この名前が付いたそうですが、別名は、サオトメバナ(早乙女花)呼ばれるそうです。しかし、別名で呼ばれることは、無いのではないでしょうか、、、。
 百草園駅から少し入った所に、マジオドライビングスクール多摩がありました。ここの車が、野猿街道を走っているのはよく見かけますので、何処に自動車学校があるのだろうと思っていたのですが、こんな住宅街にあるとは思いませんでした。更に少し歩くと、電車から見える神社に出ました。神明社と呼ばれる神社でした。神社そのものは小さいのですが、一本だけある大きな欅が、瘤だらけでした。近所迷惑にならないように、毎年、枝を払っているようです。更に歩くと、新興の住宅地の中に、旧家が並んでいる所がありました。ちょっと脇道に入っただけで、色んな出会いがあるものです。
 四谷橋を渡って、我が家の前の土手に出ると、次男と擦れ違いました。今晩の孫達のための買い物に行ってくれたのです。次男は3時過ぎに帰ってきて、それから、次男と私で一品ずつ料理を作り、孫達を待ちました。私は、細いパスタ油で揚げ、皿うどんの麺とした、メキシコでの我が家の定番だった、皿うどんを作りました。次男は、肉豆腐を作ってくれました。孫達は、5時半頃に着くと思っていたのですが、1時間遅れの6時半頃に着きました。
 直ぐに、乾杯をして、楽しい夕食が始まりました。少し密ではありますが、誰も新型コロナに感染していないようですから、大丈夫でしょう。今晩は、私が作った皿うどん、次男が作った鶏肉炒めの他に、刺身、野菜サラダなどでした。とっても美味しそうに食べてくれました。
新型コロナの影響で、あれも駄目これも駄目と言われる今日、今夜のジイジの家での花火は、新型コロナ下の夏休みの、思いで作りのようでした。1時間足らずで、孫達の食事は終り、外も暗くなってきましたので、我が家の目の前の、水門の広場で花火をする事にしました。しかし、毎年やっている左側の広場には、先客が居ましたので、今年は、右側の広場でやることにしました。持って行ったライターが、家を出る時確かめたのに、広場では火がつかず、別のライターを取りに戻るなどのトラブルはありましたが、無事花火は始まりました。一番末の孫の喜びようは、大変なものでした。この素直な喜びが、他の皆も楽しくさせます。孫娘は、自分も楽しむけど、末の孫が楽しんでいるか、何時も気にかけてくれる、面倒見の良さが、花火の間中続きました。中学生になった上の孫は、打ち上げ花火など、難しい花火を見せてあげる大人の側に入って来ました。私に取っても、楽しく思い出深い日となりました。
 なんだかんだと、9時近く迄花火を楽しみ、我が家に戻りました。その後孫達は、風呂に入った後、珍しくゲームをやらずに、チェスやトランプで遊び、夜食を食べて12時過ぎに、眠りにつきました。孫達にとっても、新型コロナの難しくい夏休みの、良い思い出になると思います。

「八重桜 青空透ける 網の葉の 虫が食ったか 落葉前か」
「網の葉を 透かして空を 眺めつつ 喰らう昼餉に 元気を貰う」
「見守れば 屁糞の臭い しはしない 臭いしなくば 早乙女花よ」
「孫達の 喜ぶ顔が 闇に浮く 家族揃って 花火大会」

〇08月09日(日)。

 孫達は、昨晩、12時過ぎまで起きていたので、朝8時になっても、白河夜船のようでした。起すわけにもいかないので、8時過ぎから、近くの河原を散歩しました。今年に始めは、草一本生えていないような、砂利河原だったのですが、歩くのが難しいように、草が生い茂っていました。その中に、何故かベビートマトがあって、ちゃんと実を付けていました。現在の砂利河原で、一番勢力のある、背の高い大きな葉っぱの草の名前が分りません。
 9時過ぎに家に戻ると、娘が起きていました。そろそろ孫達も起きてくるだろうと、何時ものように、ご飯を炊き、味噌汁を作り、朝食の仕度をしました。9時半頃には、孫達も起きて来て、10時半頃から、朝食になりました。今日は、長崎の原爆記念日なので、原爆祈念式典の様子を、孫達と一緒に見ました。そして、原爆が投下された11時2分には、一緒に黙祷をしましたが、その後は、えらい人の話ばかりで、孫達には分らないので、テレビを消し、普通の会話に戻りました。11時半には、朝食が終りましたが、その頃に次男が起きて来て、一人で食事をしました。
 一休みしてから、我が家の定番のゲームである、UNOをやりました。娘の家族で新しく作られた、「7を出した人は好きな人とカード交換が出来る、0が出た場合は左回りに全員がカード交換する」というルールで、遊びました。勝つための計画が出来ないので、泥仕合の感があるのです。それでも、時間は掛かりますが、ちゃんと上がることが出来るのです。
 ゲームを楽しんで、2時頃から、上の孫の希望で、八王子の浅川に化石採集に向かいました。所が、途中娘が、少しお腹が空いたと言って、「スシロー」に寄ることにしました。末の孫が、「スシロー」「スシロー」と口癖のように言うらしいので、望みを叶えてやったのでしょう。八王子の「スシロー」入りましたが、その店が、娘の高校時代からの友人の家の近くだったので、食事の最後の頃に、友人が会いに来てくれました。実は、私も良く知っていて、色々話が弾みました。
 結局、化石採集をする場所に、5時頃に着きました。末の孫と孫娘は、暑い中での化石採集には、熱中症の危険があるので、娘と一緒に、別の所で待つことになり、上の孫と孫の父親、次男、私の4人で行きました。北も南も浅川は全て踏破したのですが、化石の場所は、初めてでした。メタセコイアの森の化石でした。私が想像していた化石とは違って、木の根元が森林火災の跡の様になって、泥岩から何本も突き出していました。それが石化していないのです。倒木となったメタセコイアの地層も見られました。でも何となく、何千万年前の化石とは思えませんでした。詳しいことは、後で調べたいと思います。上の孫は、木の樹脂が作る化石(琥珀)を必死で探し、掘り起こしていました。小さい物だと、色んな所にあるのですが、親指くらいの大きさになると、そう簡単には見つからないのです。それでも、必死で頑張り続けました。将来は、学者になるかも知れません。
 6時近くになって、化石採集を止め、娘が待っている車に行って、我が家に戻ることにしました。途中スーパーで、摘まみを買い足し、7時頃に我が家に戻りました。それから私は、ピザを焼き、次男は炒め鶏とパリパリのチョリソーを作りました。孫娘が好きな、ローストビーフを加えて、7時半過ぎから夕食となりました。何時もとは違った、濃い一日となりました。

「夏の午後 化石に挑む 上の孫 取り組む姿勢 未来は博士」

〇08月10日(月)。

 昨晩、夕食は、9時近くに終り、孫達はそれからゲームに熱中し、大人は、昔話に熱中して、寝たのは1時頃でした。そんな訳で、今日の朝食は、11時頃から始まり、終ったのは、12時過ぎでした。昼食から1日が始まったようなものです。
 2時近く迄、思い思いに休んで、2時半頃から、大人は麻雀、孫達は3人で遊べるゲームを楽しみました。4時過ぎ、大人の麻雀が終わった所で、全員でもう一度UNOをやり、孫達の短い夏休みの中の、爺の家での合宿は終りました。末の孫と孫娘は、最後の最後に、次男に手荒な「ぶん回し」をして貰い、皆満足して、5時半頃には、帰って行きました。
実は、我が家に娘家族が2泊したのは、初めての事なのです。新型コロナが無かった時期、娘家族は、連休ならば車で何処かへ出かけていましたので、我が家には、土日の一泊二日だったのです。年寄りが、動きの速い孫達と3日間一緒に暮らすのは、結構疲れる事を知りました。

「孫達の 動きに付き合う 余力無し 見ているだけで 充分満足」
「来るも良し 帰るもまた良し 孫達の 成長振りは 何時も嬉しい」

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2020年8月 6日 (木)

2020年08月01日

2020年08月01日

〇08月01日。

 昨晩、妻と一緒に、一一夜の月が、都会の明かりに負けないくらい輝いているのを見ました。夜、月が出ることを忘れるくらい、曇り空が続きました。今朝は、雲は多いものの、青空も見える朝でした。7月が終り、8月に突入しました。どうやら関東地方も、梅雨明けになったようです。それしても、長い梅雨でした。
 妻と一緒に、コンビニのサンドイッチやお握りなどで朝食にしました。話をしながら食べるのであれば、外でなくとも、美味しく食べられました。朝食の後暫くして、妻の買い物に付き合い、12時過ぎには、妻と別れて家路につきました。
 しかし、今日は、どうしても原宿の「ふくろうの里」に行ってみたいと思いました。先日、テレビで、新型コロナの影響で、この「ふくろうの里」に殆ど客が来なくなったとのニュースが流れました。以前、代々木公園で、梟を連れて「ふくろうの里」を宣伝している、二人の若い女性に会ったことがあり、何時かは行ってみようと思っていたのです。
 取り敢えず、原宿に行ったら、原宿駅明治神宮側の駅舎が、様変わりしていました。便利で見栄えも良くなりました。東京では、今年に予定されていたオリンピックを目標に、多くの工事が実施され、それが完成を迎えているようです。最近、私が経験しただけでも、東京駅と新宿駅の東西自由通路、千駄ヶ谷駅、飯田橋駅、原宿駅の駅のホームと駅舎です。都心の方には、妻と会う時くらいしか出て来ないのですが、矢張り都心は、変化が多いです。
 代々木公園で昼食を食べ、竹下通りへ行ってみました。うろ覚えですが、その辺りに、「ふくろうの里」があると思っていました。所が簡単に見つからないので、通りで、動物と触れ合いの出来る場所を宣伝している若者が居たので、「ふくろうの里」の場所を聞いてみました。すると若者は、この直ぐ先に「ふくろうの森」がありますよと教えてくれました。森では無く里だったよなーと思いつつ暫く歩くと、「ふくろうの森」がありました。矢張り、テレビのニュースになった「ふくろうの里」ではありませんでした。しかし、ビルの地下に、小さな森らしきものを作り、多くのふくろうが木に止まっていました。その梟達を見て、写真を撮るだけで、入場料が700円で、カフェでも何でもありませんでしたが、大いに満足し、出口に置いてあった梟の置物を、5個ほど買いました。そこをでる時、係員に、「この近くに「ふくろうの里」ありませんか」と聞いたら、「原宿通りを新宿方向へ歩き、坂下の原宿駅を超えたら、右に入ればありますよ」と教えてくれました。
 教わった通りに歩いたつもりでしたが、中々見つからず、先に東郷神社を見つけてしまいました。こんな所に、神社があるとは思ってもいませんでした。参拝をして、一通り境内を歩いて、原宿通りへ戻りました。直ぐ近くですが、どうしても見つからないので、スマホを持ちながら歩いている若者に、「ふくろうの里」を聞いてみたら、若者は直ぐにスマホの地図を出して、あっという間に場所を教えてくれました。何度もお礼を言いましたが、若者は表情も変えず、去って行きました。最近の若者は、本当に上手にスマホを使います。私も早くこのアプリの使い方を覚えたいと思いました。
それにしても、「ふくろうの里」は、ビルの4階にあり、入口の看板も小さく、これでは分らないはずです。客を呼ぶ気があるのか、疑ってしまいました。店は、カフェバーで、カウンター席が4席、10畳程度の畳の部屋だけでした。梟達は、ベランダの小さなスペースに作られた、丸木の棒に10羽程が、繋がれていました。繋がれるのは、「ふくろうの森」でも同じですが、作り物の森の中ではありますが、少し距離が置かれていて、繋がれているのではなく、木の枝に止まっている感じでした。所が、「ふくろうの里」では、数珠繋ぎに繋がれ、囚人に似ていると感じました。今後、「ふくろうの里」には、来ることは無いでしょう。
原宿から、新宿へ出て、聖蹟桜が丘に戻りました。我が家の方へ向かうバスに乗ると、急に雨が降り始めした。かなり強い雨でした。所が、バスが四谷橋に近づくと、雨は止み、道路も乾いていました。一握りの雲がもたらした雨のようでした。
今日の夜は、次男との酒になりました。酒の肴は、一昨日の残り物でしたが、美味しく楽しく飲むことが出来ました。

「梟の 置物好む 我なれど 生きた見世物 好みにあらず」

〇08月02日(日)。

今朝は、空に青空が広がり、本当に梅雨が明けたのだと思いました。お陰で、陰鬱な気分にならずに、1日が始まるようになりました。
今日は、壊れてしまったカメラの本体を買う決断をしました。先ず、四谷橋の袂で、多摩川の流れを見ながら、昼食を食べ、聖蹟桜が丘に行きました。修理を依頼した、ビッグカメラで買うことにしたのです。以前に下見をしていたので、買うカメラは、ほぼ決まっていたのですが、店員に色々質問をして、自分の考えに間違いが無いか確かめました。どうやら、大きな間違いが無かったので、予定したカメラを買いました。
 家に持ち帰って、電池を充電するなど下準備をした後、説明書を見ながら、カメラを使えるようにしようとしました。所が、最初から躓きました。なんと、スマホに指定されたアプリをダウンロードし、それをカメラに取り込み、スマホとカメラをペアリングさせると書いてありました。私は、何故こんなことをしなければならないのか、理解が出来ませんでしたし、そもそも、アプリをどうやってダウンロードするのかが分らないのです。電池を入れて、メモリーカードを入れれば、取り敢えず写真は撮れると思っていたのですが、間違いでした。明日、ビッグカメラに行って、取り敢えず撮せるようにして貰おうと思いました。
 カメラの基礎的なセッティングに、午後中掛かって奮闘しましたが、結局失敗し、夜は、次男と一緒に酒を飲みながら、クリントイースト・ウッドの「運び屋」という、年寄りの生き方のような映画を見ました。彼自身、この映画を撮った時、90歳くらいではないかと思われます。映画は、老いの生き方をテーマにしたものでしたが、彼自身、長生きし過ぎたと思っているような節が見えました。

〇08月03日(月)。

 空全体が、青空というわけではありませんでしたが、梅雨とは違った夏の朝でした。
 今日は、先ず聖蹟桜が丘のビッグカメラに行きました。折角、大きな決断をしてカメラを買ったのですから、使えるようにならないと意味がありません。ビッグカメラの相談コーナーに行って、順番を待ちました。5分程度で、順番が来て、若い男子店員が、対応してくれました。取扱説明書を見せて、スマホにアプリをインストールする事が出来ないというと、説明書を見た店員は、「今スマホをお持ちですか」というので、スマホを渡しました。すると、いとも簡単に、アプリをインストールし、カメラとのペアリングが出来るようになり、シャッターボタンが押せるようになりました。写真が撮れるようになったのです。私が、喜んでいる様子を見て、店員もとても嬉しそうでした。最後に、店員に何故こんなことをする必要があるのか聞いてみたら、「写真を撮った時間と場所が、カメラも分るようになるのです」と教えてくれました。時代は、進み続けているんですねー。
 新しい写真機を持って、近くの桜が丘公園に行きました。散歩と言うより、カメラの試し撮りのようなものでした。公園内で、昼食を食べ、早めに自宅にもどることにしました。西友で買い物をしても、2時過ぎに自宅に着きました。
 自宅に戻って、今日撮った写真を、パソコンに写そうとしたら、今までのUSBコードが使えないことが分りました。明日またビッグカメラに行って、新しいカメラに合うUSBコードを買わなければならなくなりました。
 今日は、大学のOB会のオンライン会議が行われる日でした。ここでもまた、問題がありました。オンライン会議で使う、ZOOMと言うアプリを、スマホにはインストールして貰ったのですが、大学のOB会からは、オンライン会議の場所への入り方を示したURLが、パソコンに送られてきたのです。このURLをスマホに転送するか、パソコンにZOOMをインストールするか、何れかをやらなければ、オンライン会議に参加出来ません。結局、パソコンの画面の方が大きいので、パソコンにZOOMをインストールする事にしました。
 このインストールは、比較的簡単にできました。OB会から送られてきたURLを開くと、「ZOOMをインストールしていない方は、インストールを選択して下さい」と指示がありあり、指示通りインストールを実行しました。その後、会議に参加するを選択すると、パスワード入力が要求され、入力すると、画面に私の顔が映りました。まだ、会議は始まっていませんでしたが、会議に参加出来ることは、分りました。
 オンライン会議は、午後6時半からだったので、5分前にZOOMを立ち上げ、会議に参加すると、私が一番乗りでした。画面の顔に参加した順に番号が付くようでした。会議は時間丁度に始まり、参加者は、29人でした。OB会長の司会で会議が始まりました。何時もの常任委員会と変わらない感じで、会議は進行し、OB会長の最後の挨拶で、8時半近くに会議は終了しました。本来ならば、OB会長の御苦労様会が、盛大に行われるはずですが、新型コロナの影響で、開催は出来ませんでした。それが今一つ残念でした。私が生きてきた時代では、区切り区切りで、全て酒宴がありました。新型コロナの影響で、様々な変化が起こり、私も色んな変化を経験する事になりました。
 約2時間、パソコンの前に座り続けていました。座り続けるのも疲れます。リビングに移ると、次男が既に晩酌を始めていました。今日は、私の方が遅れて参加し、今日1日のことを話しながらの酒となりました。寝る前にベランダに出ると、14夜の月が、煌々と輝いていました。

「森陰に 木漏れ日浴びた 薮蘭を 狙って一枚 新型カメラ」
「草の上 塩辛蜻蛉も 試し撮り 上出来上出来 新型カメラ」
「一四夜 輝く月も 試し撮り これは難し 光る被写体」

〇08月04日(火)。

 朝から、良い天気でした。つい最近まで続いていた梅雨の朝が、どんなだったかを忘れてしまいました。
 午前中の仕事を終えて、午前11時頃には家を出て、聖蹟桜が丘に行き、3日連続ビッグカメラに行きました。店は比較的空いていたので、カメラ売り場にいた女性店員に、このカメラのUSBコードが欲しいと伝えました。彼女は、私に商品名を教えようとしたのでしょう、私のカメラの名前で、スマホで検索しました。すると彼女が言うには、カメラ会社は、既にこのUSBコードは、製作していないとのことでした。えーと暗澹たる気持になりました。所が、女店員は、USBコードを専門に作る会社があり、コードそのものは、この店にも沢山ありますとのことでした。そこで、「このカメラのUSBコードの端子は、こんな感じなんですけど」と端子の口を彼女に見せると、彼女は、「お客さん、その端子は、テレビに繋ぐ時の端子で、パソコンに繋ぐ時は、こちらの端子です」と教えてくれました。その端子を見たら、どうも、現在使っているスマホ用のUSBコードが使えそうでした。またしても、私の好い加減な思い込みで、余計な時間を使ってしまいました。
 今日は、神代植物公園に行くと決めていました。先ず、植物多様性センターに行き、栃の木の下で昼食にしました。3ヶ月近く前にも、ここで食事をしたと思います。栃の実が随分大きくなっていました。今日、ここで初めて、小さな水草、ガガブタ(鏡蓋)の花を見ました。花は小さなカラスウリ(烏瓜)のような花でした。それにしても、なんと変な名前でしょうか、名前の由来が分りません。
 植物多様性センターから、神代植物園に移りました。入口近くの池に、本来温室で育てられている、オオオニバス(大鬼蓮)が、数株浮かんでいました。1つの株には、花が咲いていました。多分ブラジルが原産の蓮だと思いますが、大和国の桜の木の下で、大きなたらいのような葉を、幾つも浮かべていました。植物園は、今、花が少ない時期で、木槿も終りが近く、レンゲショウマ(蓮華升麻)が少し、ヤブミョウガ(藪茗荷)が、森の所々で咲いていました。
 植物園から、深大寺に入り、最後に水生園に行きました。現在見られる花は、ミソハギ(禊萩)だけでしたが、恋が成就し、番となった銀ヤンマを見る事が出来ました。子供の頃、必死の思いで銀ヤンマの雌を捕まえ、棒の先に糸で結び、それを大きく回すと、雄が何匹も寄ってきて、何時も10匹以上の銀ヤンマの雄を捕まえたものです。捕まえたからといって、何するわけでもなく、何匹も重ねて糸で吊し、縁側に吊しました。こうした少年の頃を、思い出させて貰って、今日は、満足でした。人は、何故、何十年も前のことを、憶えていられるのでしょうか、何処に、どの様に蓄えているのでしょうか、何もかもが不思議です。
 深大寺から、京王線「つつじヶ丘駅」に出て、我が家に4時過ぎに戻りました。直ぐに、スマホから写真をパソコンに移す時に使ったUSBコードを、カメラに繋ぐと、問題なく繋がり、カメラの写真をパソコンに移すことが出来ました。写真も問題なく撮れていました。この3日間のカメラ騒動が、一段落しました。このカメラには、5年間の保証も付けましたので、5年間の保証が切れる頃には、私の命も終る頃でしょう。老いを一緒に暮らす、友達カメラとなりました。
 今日は、一五夜満月でしたので、寝る前に空を見ました。薄い雲があって、昨夜ほどの輝きはありませんでしたが、綺麗な月でした。

「水槽に 空から落ちた 星のよう 地上で輝く 鏡蓋の花」
「桜木の 下の池面に 浮かびたる 外国渡来 大鬼蓮」
「木漏れ日が スポットライトの 藪茗荷 暗き森陰 舞台に変わる」
「禊萩の 取り巻く池に 銀ヤンマ 恋は実りて 番で飛び行く」 

〇08月05日(水)。

 向ヶ丘の七生丘陵が霞んでいて、晴れているのか曇っているのか分らないような朝でした。しかし、8時くらいになると青空が見えるようになり、夏空に変わりました。
 今日も、聖蹟桜が丘に行くことになりました。実は、ロト6の数字4つが当たり、賞金8400円が貰えることになったのです。数字4つが当たるのは、過去にも3回ほど経験していますが、今回約3年振りくらいで、久し振りで嬉しかったので、直ぐに賞金を貰いに行くことにしたのです。中河原経由、関戸橋を渡って、聖蹟桜が丘まで歩いたのですが、猛烈な暑さでした。
 賞金を貰った宝籤売り場で、サマージャンボ10枚3000円、次のロト6のため1000円を使いました。また数独の本が終りそうだったので、1冊買いました。770円でした。次に、我が家の近くのショッピングモールのノジマで、プリンターのインクを買い、それが1900円でした。最後に、カット専門の散髪屋で散髪し、1100円を使いました。結局、7700円を使い、700円が残りました。頭は夏向きにすっきりしましたし、もうプリンターを使うのは止めようかと思っていたのですが、暫く使うことにしました。賞金のお陰で、少し変わった刺激を貰って、楽しい一日となりました。
 夜は、ほうれん草のバター炒め、エリンギ炒め、トマトサラダを作り、買い置きのチーズなどを摘まみに、ワインを飲みながら、黒澤明監督の「八月の狂詩曲」を見ました。長崎の原爆の映画でした。長崎で原爆を経験した祖母と、原爆のことを何も知らない孫達との一夏の話でした。私は、長崎に原爆が落ちた時、まだ一歳にならない子供でしたので、原爆が投下された時の事は、何も憶えていません。しかし、8日後の8月17日に、爆心地から2キロ程度の、祖母の実家で、父の実家でもある城山町の家に戻りました。それから、祖母が亡くなるまで、一緒に暮らしました。映画は、私が祖母と暮らした時を彷彿させました。祖母は、戦後になっても、飛行機の音が聞こえると、慌てて電気を消し、布団の中から外を窺っていました。戦時中、城山にも焼夷弾の雨が降ったそうで、何度も山や畑が焼かれたそうです。父から聞いた話ですが、祖母には、9人の子供がいたそうですが、幼年で1人病死し、1人は事故で、2人は戦場で、3人は原爆で死に、父と末の妹2人だけが生き残ったそうです。
8月になると、毎年、原爆に関連する映画が、テレビで放映されます。今年は、私の年と同じ、戦後75周年の節目の年なので、何時もの年より多くなるかも知れません。私の原点、少年時代を思い出しました。

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2020年8月 1日 (土)

2020年07月26日

2020年07月26日

〇07月26日(日)。

 嘘は書けませんから、「今日も朝から雨でした」と書かざるを得ません。朝起きて、ベランダから外を見ると、溜息が出る日が続いています。所が、午前11時頃になると、急に雲が切れ始め、青空が見えるようになりました。そこで、昨日諦めた、友人が八重洲の地下街でやっている陶器展に行くことにしました。
 11時半に家を出て、国立に12時近くに着きました。今年の桜の季節の前だったと思いますが、現在の国立駅前に、国立駅の旧駅舎が完成しました。国立へ来る度に、この駅舎を見るのですが、三角形の屋根が、私の故郷、長崎の旧駅舎にそっくりなのです。周囲の雰囲気は、全く違うのですが、何となく郷愁を感じます。長崎の旧駅舎は、既に新しい物に変わり、私の思い出の中だけに存在します。
 国立を出ると、東京駅まで1本で行きます。今日は日曜日なので、JR中央線の普通の快速が、特別快速と同じような感じで走ります。食事をする時間が無いので、列車の中で、バナナ、野菜ジュース、チョコ菓子「たけのこの里」で軽い昼食にしました。
 東京駅には、午後1時頃に着きました。陶器展の会場ギャラリー八重洲は、かなり奥まった所にあるのですが、何の問題も無く着きました。まだ記憶は、確かなようです。会場には、客は2人だけでした。友人の奥さんが、直ぐに私を見つけてやって来ました。その後、一時、新型コロナの話になりました。彼も、かなり影響はあるそうですが、実家の側の窯で、一人で焼いているので、借料とか給与の問題が発生せず、大きな被害は受けていないとのことでした。また、山形の米沢市が、上杉鷹山の記念祭を計画しており、その関連で、日本酒用の大亀を四つ焼くことになったそうです。それ程大きな備前焼の甕を焼けるのは、彼と彼の師匠の窯だけだそうです。
 話の途中で、彼が、「頼まれていた梟、焼きましたよ」と言って、展示している場所教えてくれました。昨年、私が、梟を焼いてくれるように頼んだのです。可愛い梟5個と、大きめの箸置き梟が、5個ずつ並んでいましたので、両方3個ずつ頂きました。来客者も、何人か買っていったそうです。私の望みを叶えてくれて、本当に有難い事です。出来れば、備前焼の特徴が出るように、上手にデフォルメして、売れ筋の作品になれば、更に嬉しいです。
 2時頃に陶器展の会場を出て、地上に出て、東京八重洲口の広場に出ました。すると、目の前に、私がこの4ヶ月ほど、必死で名前を思い出そうとした木が、名札着きで植えられていました。トネリコでした。一瞬、胸も身体も軽くなったような気がしました。植物多様性センターに行って聞けば、直ぐ分ると思うのですが、新型コロナの影響で、なかなか行く気がしなかったのです。
 八重洲口から、日本橋の方へ歩き、長崎県の特産物を売る長崎館へ行き、アゴ天、長崎竹輪、粒雲丹など、酒の肴になるような物を買いました。次男と一緒の晩酌の摘まみにしようと思いました。
 我が家には、4時半頃につきました。次男が迎えてくれ、リビングには、沢山の洗濯物が部屋干しされていました。私が出かける時、青空が見えたので、急いで洗濯したらしいのですが、直ぐに雨になり、ずっと降り続いていたそうです。なんと不思議なことに、私がバス停と我が家を往復する時だけ、青空が見えたようです。
 今夜の晩酌には、次男が最初から付き合ってくれました。摘まみは、今日買って来たものではなく、昨晩の残り物を始末することにしました。酒が入ると、自然と新型コロナの話になります。次男は、辛口の方なので、「政府がやっていることは、ちぐはぐで、何をどの様にやろうとしているのか分らない。感染を治めることも、経済を回すことも、何れも旨く行っていない。このままだと、欧州よりも酷い状況になるのでは無いか」と怒っていました。私も納得しますし、国民の大半の意見では無いでしょうか。

「我が意受け 友が焼きたる 梟の 備前の焼き色 友情上塗り」
「長きこと 君の名忘れし 辛き日の 八重洲で消えし その名トネリコ」 

〇07月27日(月)。

 関東の梅雨は、8月に入らないと明けないようです。今朝もどんよりとした曇り空でした。
 今日は、やることが無いので、久し振りに、稲城の方を歩くことにしました。バスで谷保駅に行き、南武線で南多摩駅、多摩城山公園、向陽台、稲城中央公園、多摩カントリー、東京ヴェルディー練習場、若葉台公園、多摩大学と歩いて、後はバスで聖蹟桜が丘に出ました。
 城山公園で、森の香りを嗅ぎながら、昼食にしました。散歩に目的の半分が、外で昼食を食べることなのです。時季外れの玉簾の花もありましたが、垣根になっているアベリアは満開でした。後ろの森は、夕暮れのような暗さでした。
 昼食後、向陽台の住宅地を歩いて、稲城中央公園に出ました。以前にも書いたことがあると思いますが、向陽台には、電柱や電線が無いのです。何時歩いても、気持ち良く歩くことが出来ます。稲城中央公園は、とても広い公園で、陸上競技場、野球場、サッカーコート、子供公園、体育館等の施設があります。稲城中央公園の方から、多摩カントリーが見えます。長い梅雨のせいでしょうか、フェアウェイの芝生の緑が、とても鮮やかでした。稲城中央公園から、尾根幹線戦道路を歩いて、多摩カントリーの入口を過ぎ、暫く歩くと、サッカーの東京ヴェルディーの練習コートがあります。今日は、寄らないで、真っ直ぐ歩いて若葉台公園に入りました。若葉台公園も結構広い公園です。公園そのものは稲城市に属しますが、その直ぐ近くにある、京王相模原線の若葉台駅は、川崎市です。そして、若葉台公園から、尾根幹線道路を歩いて、尾根を1つ越えると、多摩市になります。多摩市に入って、最初に出て来るのが多摩大学です。最近にしては、良く歩きました。
 多摩大学から聖蹟桜が丘に出て、そのまま我が家に戻りました。我が家に着いたのは、4時過ぎでした。
 今夜は、昨日買った、壱岐の粒雲丹、アゴ天、アゴの蒲鉾、長崎竹輪、揚げ出し豆腐を肴にして、次男と日本酒で晩酌をしました。矢張り、長崎の海産物は一味違い、美味しいです。次男も満足していました。満足出来ないのは、日本の新型コロナ対策です。今日も、その話になりました。

「木の香り 何故か昼餉を 旨くする 小雨降る日の 城山公園」
「玉簾 梅雨の間も 咲き続け 我を迎える 城山公園」
「何時の間に 垣根の王者と なりにけり 大和の夏に アベリアの花」

〇07月28日(火)。

 今朝も曇り空でしたが、目の前の多摩川に朝霧が横たわっていました。6時頃に起きたのですが、直ぐに多摩川を見に出かけました。川面に張り付いたような低い霧でしたが、流れそのものが、綿菓子の流れのようでした。川岸の木々達も、押し黙って霧の流れを見ていました。地球が作り出す、素晴らしい景色に感動しました。
 家の近くの四谷下堰緑地を廻って、7時頃に、家に戻ったその時に、妻から電話がありました。何やかやと1時間以上話しました。その為、今日の朝食は、少し遅めになりました。
 朝の、仕事を終えて、小雨が降っていましたが、立川根川公園まで歩くことにしました。
土手を上流に向かって歩いていくと、石田大橋の手前に、府中用水の取り入れ口の1つがあり、土手から水門の開閉をする所まで、幅1m長さ3m程の 小さな橋があります。昨年の台風19号の影響で、河原の仙人の庵が全部流出しました。その為、この橋の下に、一人の仙人が引っ越してきたのです。テントも張れず、料理用の危惧も置けない、雨風も完全には避けられず、仙人の庵が作れない所で、一人の仙人が暮らしています。橋の入口には、仙人の物と思われる自転車が1台置いてあります。この自転車は、夜、別の家に帰るための物か、食料を調達する時に使う物なのか、分りません。いずれにせよ、この老人を見る度に、現代人間社会の歪み、生命力の不思議さ、地球の存在の不思議さ等々を考えさせられます。
立川の陸上競技場の側の根川では、翡翠が餌を捕った瞬間を見ました。小魚を嘴にくわえて、「これ、今僕が獲ったんだ」といわんばかりに、振り回して見せました。この様子を、大きなカメラを持った爺さん二人が、何枚も写真を撮っていました。その後直ぐに、翡翠は小魚を飲み込み、他の場所に飛んでいきました。
その少し上流に、俗に「翡翠の池」と呼ばれ、翡翠が良く来る池があります。今日は、翡翠は居ませんでしたが、池の小魚に餌やりをしている爺さんが居ました。此の土地で生まれ育った人らしく、現在に至るまでの話を、沢山聞きました。30分以上話を聞いたと思います。昔は、多摩川の鯉を食べさせる店があり、鯉寿司を食べたことがあると言っていました。
更に、上流へ行き、根川のせせらぎの横で、昼食にしました。立川根川は、人工の川ですが、小魚が沢山いて、カルガモ、青鷺、白鷺等の鳥達の餌場にもなっています。私は、小魚は食べず、持ってきた弁当を美味しく食べました。
食後は、2時過ぎになっていましたので、モノレールで高幡不動に出て、京王線で聖蹟桜が丘に出て、我が家には、3時半くらいに帰りました。
次男は、土、日、月が休みなので、今日から4日間は、私一人の夕食になります。昨日の長崎の蒲鉾などで、日本酒の晩酌にしました。

「静かなる 能の舞台を 思わせる 霧の河辺に 佇む木立」
「霧と雲 間の人里 ビルの街 霧を跨いで 電車が走る」
「欄干の 雨の雫に 雲宿る 人里宿る 雫が撮りたい」
「昨晩は 眠らず月の出 待ちたるや 開いたままの 月見草の花」
「長梅雨に 切株茸の 繁殖地 切株毎に 異なる茸」
「梅雨草の 青さ広がる 四谷堰 消えゆく前の 老野甘草」
「仙人の 隠れ家暮し 盗み撮り スマホの画面 見ながら昼寝」
「何時見ても 君は心を 和ませる 翡翠の衣で 餌獲る翡翠」

〇07月29日(水)。

 今日は、一日中、小雨が降り続きました。傘をさして、散歩する気にもなれず、一日中、家で過ごしました。
午前中は、昨日の日記を書いた後、頑張って、「ウィルスは生きている」の序章と第1章を読みました。1時間近く掛かりましたが、非常に疲れました。内容は、まだ細菌学の発展の過程と、ウィルスが見つかった所まででした。昼は、散歩用に作っていた弁当を、我が家で食べました。食べ終えるのに、必死でした。
昼食後は、妻に電話したり、本棚の整理などをしたりしましたが、中々時間が潰れず、私が中学生の頃、映画館でやっていた「情婦」という映画を見ました。白黒映画でした。何時の時点かテレビで放映した物を録画した物でした。実際に映画を見て、中学時代も、テレビで放映された時も、見ていなかったようです。ストーリーも配役も、初めて見る物でした。中学時代の映画館に、「映画を見た人は、絶対に結末を見てない人に話さないように」という警告の張り紙がしてあったことを思い出しました。正しく、結末を楽しむ映画でした。
映画を見終わると、漸く夕方のニュースの時間になりました。なんと、新型コロナが、大坂で200人越え、愛知で150人越え、そして、今まで1人も居なかった岩手県にも感染者が出ました。これまで、東京だけが飛び抜けて感染者が多いように、思えたのですが、全国レベルに、感染が拡大しました。これが、感染防止対策を、国民の意識のみに委ねる、国家政策の行き着く先なのでしょう。
テレビを見ながら、珍しく料理をしました。作ったのは、野菜炒め、ステーキ、茸のアヒージョ、アボガドサラダです。これも時間潰しの1つでした。ステイホームは、結構苦しい物です。

「老い先の 短き日々を 引きこもり 救いの神は 花鳥風月」

〇07月30日(木)。
 
 今朝も、曇り空でした。目の前の電信柱と電線が無ければ、多摩川と七生が丘が、もっと魅力的に見える筈なんですけどねー。令夫人が、破れたジーパンをはいているようなものです。
 今日は、午前10時頃から、雨の切れ間が出来ましたので、近場の谷保天神、谷保城山公園を歩きました。
 11時頃に、我が家を出て、我が家の前の「三屋通り」を、真っ直ぐ北に歩くと、谷保天神の崖下(はけした)の道に突き当たります。そこから谷保天神の梅園に登り、崖上(はけうえ)の道を歩いて、谷保天神の本殿の後ろにある、崖下の厳島神社に出ました。この厳島神社は、崖下湧水の池の中にある小さな神社です。この池は、湧水の池なので、水の存在を感じさせないほど透明な池で、緋鯉や真鯉達が沢山泳いでいます。昨年でしたか、この池の上に、何本もの糸が張られました。鳥から鯉を守るためのものだそうです。仕方が無いのでしょうが、池を楽しむ気分になれなくなりました。とは言いつつ、今日はこの池で、可愛らしい光景を見ました。池の中の木の切株で、甲羅干しをしている黒い亀に、金色の亀が泳ぎより、切株によじ登って、手を伸ばしたり首を伸ばしたりしながら、「僕も、甲羅干しがしたいよう、少し場所を空けて、駄目だったら背中に乗せて」と頼み込んでいるようでした。しかし、黒い亀は、その求めに応じず、知らんぷりを決め込んでいたら、金色の亀にお尻を押され、危なく切株から落ちそうになりました。仕方なく、黑い亀は、場所を少し空け、金色の亀は、少し変な格好でしたが、甲羅が干せるようになりました。めでたしめでたしです。
 谷保天神から、用水脇の昔道を通って、谷保城山に入りました。谷保城山は、キツネノカミソリ(狐の剃刀)と二輪草の名所です。今日は、キツネノカミソリが沢山咲いていました。咲き始めの時期は知っていますが、今日は、全く予期していなかったので、とても感動しました。午後の1時近くになっていましたが、キツネノカミソリを遠目に見ながら、昼食にしました。
 昼食後、SVマーケットに行って、何時も買う鶏の軟骨を買い、多摩川の土手の道を歩いて、我が家に向かいました。途中、アゲハ蝶が、道の横たわっており、身体の一部分が押しつぶされていました。どうして、どんな事故に遭ったのでしょうか、自然死では無いはずです。私の想像では、猛スピードの自転車を避けきれず、地面に落ちた所を引かれたのではないかと思いました。
 3時近くに、我が家に戻りました。家を出ると、小さな事ですが、色んな事に出会います。昔、花鳥風月を愛するのは、浮き世の不条理に疲れた世捨て人だといわれていました。私は現在、花鳥風月が好きですが、世捨て人ではありません。ただ、浮き世を卒業した老人です。共に浮き世を過ごした友人達と、浮き世の楽しかった思い出を語りたいと思っています。私のような老人に、世捨て人と同じような生活を強いる、新型コロナが本当に憎いです。なんとかならない物ですかねー。毎日、同じ願いを繰り返し叫んでいます。それなのに、感染は、拡大する一方です。今日も東京は、過去最高の感染者を出しました。新型コロナも梅雨の長さも、今年は歴史に刻まれる年になりました。

「池の中 たった一匹 金の亀 突然変異か 人の悪戯」
「甲羅干し 僕もしたいと よじ登る 金亀黑亀 陣取り合戦」
「梅雨時の 暗き森陰 明るくす 狐の剃刀 朱き花かな」
「翅広げ 自由に飛べる アゲハ蝶 君傷つけし そは何者ぞ」

〇07月31日(金)。

 7月も最後となりました。所が、関東地方は、まだ梅雨明けしていません。今日も、曇り空の朝でした。午前中、妻より電話があり、今日は、妻一緒に夕食を食べることになりました。
 そんな訳で、今日は散歩はせずに、四谷さくら公園で昼食を食べ、西友で軽く買い物をして、2時半には家を出ることにしました。予定通り、4時過ぎには神楽坂に着き、妻の家に寄り、妻から頼まれていた糠漬け用のタッパーウェアーを届け、暫く新型コロナの話をしました。なんと東京の今日の感染者は、450人を超えたようです。妻も、東京都知事の発言や、政府の対応に関し、お怒りのようでした。
 今日の夕食は、竹橋にある赤坂飯店でする事にしました。5時半過ぎに家を出て、6時半近くに赤坂はんてんに付きました。矢張り、新型コロナの影響で、大きな打撃を受けているようで、広い店に、お客はまばらでした。我々にアテンドしてくれた年配のボーイ長のような方は、30年以上この店で働き、この先もこの店で働き続けると言っていました。経験もあり、物腰も穏やかで、我々の注文を、二人で無理しないような量にしてくれ、とても良い感じでした。中でも、小籠包は、この店でしか作りたての物が食べられず、作り手の職人は全中国で優勝したことがあり、絶対のお勧めだと行っていました。味にうるさい妻も、とても美味しいと満足していました。
 料理も美味しく頂き、その後は、久し振りに妻と一夜を過ごしました。

「老いたるを 互いに認める 我と妻 共に生きよう 新たな未来を」

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