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2019年1月

2019年1月31日 (木)

2019年01月30日

2019年01月30日

 

 昨日は、北風が強く、寒い一日でしたが、今日は穏やかに晴れ、寒さも幾分和らいだ一日と成りました。

 今日は、山の仲間と谷中から根津辺りを歩くことになっていて、11時に日暮里駅で会うことになっていました。

 急いで日記を書き、9時15分には、我が家を出て、ほぼ予定通り、10時40分には、日暮里駅に着きました。今日のメンバーは、私を入れて4人でしたが、誰も来ていませんでした。11時5分前に、二人が現れ、11時丁度に、今日の案内役Oが到着しました。彼は、通常約束の時間の30分前には来るのですが、今日は、利用する小田急線が、人身事故のため、遅れたそうです。

 全員揃った所で、谷中の墓地から歩き始めました。谷中は、幼い頃のOの遊び場所だったようです。最初に出て来た天王寺の御朱印を貰っていなかったので、他の人に待って貰って、御朱印を貰いました。その後、一旦日暮里駅の方に戻り、本行寺、経王寺、延命院を参拝し、谷中銀座に入りました。谷中銀座の入口にトルコの雑貨屋があり、ステンドグラスで作られた電灯の笠が、余りに綺麗だったので、眺めていたら、トルコ人の店主が、ナツメヤシの実をご馳走してくれました。そのお礼では無いですが、トルコ製の1Lの果汁が、100円で売っていたので、Oを除いた3人が、ジュースを買いました。また谷中銀座の中心辺りで、揚げたてのフライを売る店に、行列が出来ていました。またしてもOを除いた3人が、列に並び、コロッケとか鶏の唐揚げ、鳥の照り焼きなどを買い、近くの公園で、昼食代わりに食べました。Oは、喉頭癌のため、水や固形物は、喉を通すことが出来ないのです。しかし、手術は出来ず、抗癌治療で、よくぞ此処まで良くなりました。彼の気持の強さが、免疫力に作用したのではないかと思います。

 食後、大名時計博物館を見てみようと言う事になり、博物館に行ってみたのですが、閉まっていました。諦めて帰ろうと思ったのですが、最後に呼び鈴を押してみました。すると後方の庭の奥から、女性の声が聞こえました。彼女が、博物館の管理をしているようで、開けてくれました。彼女の説明に寄れば、展示されている江戸時代の時計は、商人でもあり、陶芸家でもあった上口愚郎氏が、生涯に亘って収集したものだそうです。戦時中は、時計だけを田舎に疎開させたそうです。殆どが、国産の時計だそうで、和暦や日本の時間に併せるために、種々知恵を絞って作られたようです。

 博物館を出て、次どの様に歩くか迷っていると、80は随分昔に過ぎたと思われる爺さんが、バイクに乗る準備をしながら、ヒマラヤ杉の巨木の場所や、千代の富士の銅像のある寺を教えてくれました。爺さんの教えの通り歩きました。本当かどうか分りませんが、ヒマラヤ杉の巨木は、樹齢600年だと言っていました。千代の富士の銅像がある玉林寺でも、御朱印を貰いました。

 その後、根津神社に参拝した後、Oの食事となるプリンを買って、少し早いのですが、酒を飲むことにしました。所が、適当な酒場が見当たらず、不忍池から、上野広小路へ出て、結局、アメ横の酒場で飲むことになりました。酒を飲めないOは、マグロの刺身にプリンをまぶし、飲み込みやすくして、酒飲みに付き合いました。彼自身、奇妙な食べ方だと言っていました。白子は、そのままでも食べられるようでした。Oは、冥土から戻ってきたと思って、現世を楽しんでいるようなので、我々も遠慮無く酒を飲ませて貰いました。辺りが、暗くなるまで飲んで話して、楽しい一時を過ごしました。

 皆と別れた後、駒込の後輩の店に立ちより、また酒を飲みました。昨年は、毎年この店で行われる、忘年会が出来なかったので、後輩の顔が見たくなったのです。結局、家に帰り着いたのは、10時近くになってしまいました。

 

「酒飲めぬ 友の前にて 盃を干す 飲めない友の 望みであれば」

「日焼け色 我も及ばぬ 顔の艶 病を持ちし 人には見えず」

「散り散りの 友の集いて 町歩き 笑顔が揃い 嬉しからずや」 

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2019年1月30日 (水)

2019年01月29日

2019年01月29日

 

 1月も、そろそろ終りですが、毎日毎日良い天気です。今朝も快晴で、富士が良く見えました。

 今日テレビのニュースで、景気回復が6年2ヶ月となり、戦後最長となったと言っていました。しかし、厚生労働省の統計の取り方が、適正に行われていなかった事が、問題になっており、政府が出す数字が信じられなくなっています。今回の景気に関する数値も、自民党の安倍政権の実績を高めるために、意図的に作られた数字ではないかと疑ってしまいました。安倍総理が、数字を小手先で動かして、実態も変わったように見せかけるのが上手なので、余計、出て来た数字に信用が置けません。

 今日は、特に予定が無かったので、井の頭公園に渡り鳥を見に行って来ました。ついでに、ジブリの展示場も見てこようと思いましたが、事前調査をしていかなかったので、えらい目に遭いました。

 11時半に家を出て、吉祥寺には、12時半頃に着きました。先ずは、ジブリに行こうと思って、ローソンを探しました。以前ジブリに行った時に、ジブリでは入場券を売っておらず、ローソンで入場券を買ってくるように言われ、諦めた経験があったのです。吉祥寺という所は、ローソンが、こんなにも少ない所だとは知りませんでした。30分以上、駅を一廻りして探しましたが、ありませんでした。仕方なく、ファミリーマートに聞いた所、井の頭通りを三鷹の方に歩いた所に、1軒あると教えてくれました。半世紀前、私が住んでいた所の近くでした。変わってしまって、昔の面影はありませんでしたが、ここら辺りに棲んでいたんだと、当時を思い出しながら、感慨に耽りました。

 ローソンに入って、店員にジブリの券売機の場所を教えて貰い、買おうとしましたが、今日の日付を押しても、何の反応もありませんでした。店員に来て貰って、券売機を見て貰ったら、火曜日は、ジブリが休みだと言う事が分りました。ジブリへ行くのは、別の日にしました。この結論に至るまでに、1時間以上掛かってしまいました。

 こんなに苦労するなら、下調べをすれば良いと思われるでしょうが、私は、ハプニングが起きる方が好きなのです。仕事をしているわけではないし、自由な時間を楽しむ散歩ですから、問題が起きた方が楽しいのです。こればかりは、個人の好みの問題だと歩持っています。私は、筋書き通りに事が進むのは、好きでは無いのです。

 その後は、井の頭池を一周しました。神田川を完歩した時の、神田川の源流の場所も見ました。渡り鳥も確かめました。今年は、渡り鳥が少なく、マガモ、オナガガモは来ておらず、キンクロハジロとゴイサギだけでした。ゴイサギは、例年5羽以上いて、昼間は吉祥寺駅に近い木橋の近くで、羽を休めていたのですが、今年はその場所にいませんでした。茂みが無くなってしまったのです。1羽だけ、有料の水生園の近くの茂みにいました。井の頭公園は、だんだん木が少なくなっているような気がしました。有名になり過ぎて、人が、集まり過ぎるのかも知れません。

 帰りに、吉祥寺駅に向かう途中で、外国の雑貨を売る店に寄り、梟を8羽も飼ってしまいました。物を捨てる時期なのに、また、飾り物を買ってしまいました。習性というのは、容易には直らないものです。

 帰路の国立の駅前で、ポケットティッシュだと思って、何気なく受け取ったのが、国境無き医師団の宣伝材料でした。バスの時間が迫っているのに、食い下がられて、結局、月3000円、年間36,000円の寄付をする事になりました。バスも1台遅れてしまいました。大して収入も無いのに、良い格好をしたのですから、何かを犠牲にしなければなりません。今後は、週2回買っているロト6を、週1回にするようにしました。

 帰りのバスの中から、秀麗な富士を見ました。崖上を走る甲州街道から、崖下の野猿街道に降りる時でした。裾野まで見える、背の高い富士全体が、朱く染まっていました。友人である夕日の画家の絵を見るようでした。節分も近づき、日の落ちる場所が、大分富士の横の方に移りました。

 

「江戸時代 北斎も見た 赤富士を 平成終りに 我も見るなり」

 

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2019年1月29日 (火)

2019年01月28日

2019年01月28日

 

 今朝は、雲の多い空でした。その雲と地平の間に、富士が見えました。その富士の上に笠雲が浮かんでいました。何時もより、湿気も多かったのかも知れません。

 今日は、12時半から歯の治療だったので、11時半には家を出ました。バス停から、一本入った所に、農地が残っていますが、その農地の畔に、仏の座の花が、春から咲き続けています。ナズナも咲いているのですが、ナズナについては、春から続いていたか、記憶が定かではありません。バスを利用する時は、必ず花を確認することにしています。今日も咲いていました。私が住んでいる、府中市の四谷地域は、比較的農地が残っているのですが、毎年、何処かが宅地化されたり、工場や倉庫になっています。今私が見ている、仏の座が咲いている農地も、いずれ無くなるでしょう。

 歯科医院のある聖蹟桜が丘には、12時に着きました。早く着き過ぎたので、デパートの中を見たりして、12時20分に歯科医院に入りました。12時半から時間通り、治療が始まりました。先週の女医では無く、男性の院長が治療してくれました。男の指は太くて、その太い指で下唇を押さえつけるものですから、全く関係の無い、下唇が強烈に痛み、傷が出来るのではないかと思いました。また、治療中に唾液をまめに吸い取ってくれないので、唾を飲み込みたくなって困りました。歯の治療の仕方も手荒だったので、猛烈な痛みが何度も走りました。治療中の30分は、苦闘の連続でした。来週も治療があるようですが、医者を指定することは、出来ないのですかねー。

 1時には、治療が終わりましたが、口の中が、薬の臭いで充満していました。何も、食べる気になれませんでしたが、30分後、吉野家の牛丼を食べました。食べるのが、義務のようになってしまいました。

 食後、大栗川と多摩川の合流点まで歩き、大栗川を遡って、聖蹟桜が丘に戻りました。大栗川では、小鴨達が、冬の日溜まりを楽しんでしました。大栗川の流れに沿って並んだ家の庭には、オキザリス(大黄花方喰)、自信はありませんが、恐らくススメノエンドウ(雀の豌豆)の小さな花が咲いていました。ある家の門には、古木化した薔薇の木に、白い薔薇が1輪咲いていました。

聖蹟桜が丘の花屋で、名前が知りたかった、二つの花の名前が分りました。ハナカンザシ(花簪)と金のなる木(縁紅弁慶)でした。金のなる木の名前は、以前、山の仲間の女性から、教えて貰っていたのですが、全く忘れていたのです。この前、満開の花を付けた、金のなる木の鉢が置かれていたのですが、シャリンバイ(車輪梅)と間違ってしまいました。花は似ているのですが、葉が違いました。

 今日の晩酌は、買って来たガーリッククラブ、牛の焼き肉、生ハム、チーズとワイン似合うようにしたのですが、口の中の薬の臭いが残っており、治療した歯では噛むなと言われていたので、おっかなびっくりで味気ない晩酌になりました。

 

「早春に 咲き始めた 仏の座 年を越しても 咲き続けており」

「いつかしら 都会の川は 溝となる 良く来てくれた 小鴨さん達」

「白壁の 家に似合いの 白き門 門を飾りし 白薔薇一輪」

「花の木に 誰が名付けた 金成る木 我もこの木に あやかりたいな」

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2019年1月28日 (月)

2019年01月27日

2019年01月27日

 

 一点の曇りも無い、快晴の朝でした。此の素晴らしい天気が、一日中続き、一日中富士が見えました。

 昨日、「サヨナラだけが人生だ」と言う言葉を書きました。知っている人は多いと思いますが、この言葉は、中国の詩人、干武陵の漢詩「勧酒」を、井伏鱒二が訳した時に使った言葉です。漢詩と訳は、次の通りです。

勧君金屈巵 コノサカヅキヲ受ケテクレ

満酌不須辞 ドウゾナミナミツガシテオクレ

花発多風雨 ハナニアラシノタトヘモアルゾ

人生足別離 「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 私が、何時、何故、此の詩を知ったか、良く憶えていませんが、「サヨナラだけが人生だ」と言う言葉は、脳裏に深く焼き付きました。もともと酒が好きで、李白の酒の歌に興味を持った大学の頃、この詩に出会ったのかも知れません。酒との出会い、人との出会い、絵との出会い、詩との出会い、小説との出会い、哲学との出会い、古い町との出会い、歴史や文化との出会い、仕事との出会い、花や鳥との出会い、宇宙の深淵との出会い、家族との出会い等々、様々な出会いが、私の人生を、とても豊かなものにしてくれました。

 私は、元々の漢詩の意味は、現在の私の心境とほぼ同じだと、勝手に思っています。つまり、「(歳を取って、)何時別れが来るかも知れないので、酒を飲みながら、楽しくやろう」と思っています。それにしても、井伏鱒二は、上手く訳したものです。

 

 午前中、昨日の大阪なおみの決勝戦を、再放送してくれたので、その試合の様子を見た後、散歩に出かけました。

 11時近くに家を出て、多摩川の土手を上流に向かって歩きました。左側には、一片の雲も無い空に、真っ白い富士が、日の光を受けて輝いていました。石田大橋を渡り、万願寺交差点のスーパー「いなげや」で、握りと飲み物を買って、浅川へ出ました。浅川に架かった万願寺歩道橋、俗称「ふれあい橋」の袂で、昼食にしました。高幡不動の五重塔と浅川の奥の富士山を見ながら、握りを頬張りました。快晴の空に、小さな雲が出来たかと思ったら、直ぐに消えてしまう、手品のような光景も見ました。流石に、この時期まで、黄色い花を咲かせるアワダチソウはないだろうと思っていたら、なんとしぶとい花でしょうか、黄色い花がありました。

 昼食を終えて、高幡不動に参拝し、関東ふれあいの道を歩くことにしました。高幡不動の鎮守の森からは、境内88箇所巡りの53番の所からしか、富士が見えないと思っていたのですが、林の木を大分切ったらしく、富士が見える場所が多くなっていました。高幡不動の森から、三沢台の住宅を過ぎて、ふれあいの道へ入りました。南平公園、多摩動物公園の脇を通り、七生公園を抜けて、程久保まで、結構アップダウンの多い道を歩きました。高尾山と同じように、森に差し込む冬の日が、常緑樹の葉を宝石に変えていました。程久保の旧家では、満開の梅や南天の赤い実が、澄んだ空気の中で、燦然と輝く夕日の光を受けて、山盛りのルビーのようでした。

 今日は、午後5時から、アパートの防災委員会がある予定でしたので、程久保から、急いで多摩動物園駅に出て、聖蹟桜が丘経由で、我が家に4時半近くに帰りました。所が、5時に会議室へ行ったら、会議室は閉まっていて、誰もいませんでした。私のメモが間違っていたのでしょうか、何れにしても時間が、たっぷり出来ましたので、相撲の千秋楽を見て、全豪オープンテニスの男子の決勝戦を、次男の解説付きで見ました。

 

「富士の嶺に 見とれて歩けば 足下に 未だに花咲く 泡立草かな」

「正面に 高幡不動の 五重塔 右に富士見て 握りを喰らう」

「青空に 小さな雲の ぽっと出て ぽっと消えゆく 光の手品」

「丹沢と 多摩との境に 腰を据え 両手広げる 富士の山かな」

「程久保の 谷戸の旧家に 梅の花 梅と似合いの 蔵の白壁」

「生け垣の 南天の実の 西日受け 庭に溢れる ルビーの輝き」

 

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2019年1月27日 (日)

2019年01月26日

2019年01月26日

 

 今朝は、快晴の素晴らしい天気だったのですが、午後から黒い雲が出て来て、今にも雪が降り出しそうになりました。

 今日は、先輩の店を閉める、お別れの感謝祭が7時から予定されており、6時半には着くように行こうと思っていますので、5時には、家を出なければなりません。なんと、5時半頃から、大阪なおみの全豪オープンの決勝戦が行われるようですが、見る事が出来ません。準決勝の時は、試合が終わってから出かけられたのに、残念です。

 午後、黒い雲が空を覆い、天気が良くなかったので、テレビを見ながら、時間を潰しました。午後5時、黒い雲は、何時の間にか消えて、富士の横に日が沈むのを見終わって、家を出ました。家の中では、それ程感じなかったのですが、外は北風が強く、猛烈な寒さでした。例年、1月の終り頃が一番寒く、今日は、寒さのピークのようでした。

 6時40分には、先輩の店に着きました。まだ、来ている人は3人でしたが、感謝祭が始まる7時頃には、10人以上になり、7時半には20人を超えました。狭い店なので、座れない人も出て来ました。

 此の店は、先輩が70歳になった頃に開店した店です。推測ですが、料理好きで、人と交わっていることが好きな奥さんのために、作ったと思います。ですから、金儲けとは縁遠く、都会の喧噪の片隅で、ひっそりと立ち寄る人を待っているような、そんな店でした。一度、立ち寄った人は、冬の日溜まりのような店の雰囲気にほだされて、何度も立ち寄るようになりました。客同士が友達となり、「語ろう会」のような会も出来ました。私も、初めて先輩の友達と出会い、その人が、私の古い友達の友達だったことが、何度かありました。とても不思議な縁を掘り起こしてくれた、店でもありました。

 感謝祭は、笑いに包まれ、とても和やかに終始しました。私も、何時もよりゆっくりとして、10時半くらいまで参加しましたが、先に失礼しました。帰りに、店に飾られていた梟の置物と、感謝の印の菓子を頂きました。菓子の箱の上に張られていた、先輩と奥様からの感謝の言葉は、次の通りです。

 「皆様の、思い出のかたすみに、そっと懐かしい灯を残せたら

      それが、私達二人の贅沢な願いです。

       6年のあいだ、有難うございました。

   また、近くの、遠くの何処かで、お会いしましょう。

            アメリとケイより          」

 とても、心を打つ別れの言葉でした。「アメリ エ ケイ」が、先輩の店の名前でした。此の名前は、私の心の中に、懐かしい灯を点しました。奥様と二人でやっている感じが良く出ていました。実際は、殆ど奥様がやっていましたが、、、。私も、後輩や同期など何度も連れて行きました。今月の15日に同期会をやると決めた時は、先輩が店を閉めるとは知りませんでした。此の店に対する、思い出の一つになりました。歳を取ってから得た、とても綺麗な灯となりました。

 

「重さ増す サヨナラだけが 人生だ 別れの席で 心打つなり」

 

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2019年1月26日 (土)

2019年01月25日

2019年01月25日

 

 今日は、久し振りに雲の多い朝でした。北の方は、青空だったのですが、少しずつ雲が広がり、時々日差しがある程度の曇り空でした。

 今朝は、尿意のため、5時頃起きたのですが、それから7時頃まで、約30分置きにトイレに通う様になりました。何故急に、こんなに頻尿になったのか、さっぱり訳が分りませんでした。明らかに、何かが異常でした。心臓も動悸が速くなった様な気がしました。私も、死ぬとしたら、心筋梗塞か大動脈解離で死ぬのではないかと思ってしまいました。取り敢えず、医者に行ってみようと思ったのですが、この2,3日、運動もしないで酒ばかり飲んでいたので、先ずは、自分の身体の回復力を信じ、少し長めの散歩をしてみて、それでも体調が変わらないのであれば、医者に行くことにしました。

 午前10時半に家を出て、先ず、東京薬科大学まで、公共の乗り物で行き、そこから歩くことにしました。薬科大学の「たにしヶ池」は、半分以上凍っていて、水鳥は全くいなくて、ハクセキレイが、氷の上を跳ねていました。何時も、色々な花を楽しませてくれる薬草園は、一輪の花も見当たりませんでした。色があったのは、烏瓜だけでした。これが、冬の風景なのですねー。

 薬科大から平山城址公園の展望デッキに上がって、三頭山、大岳、御前山、川海苔山等、一度は登った奥多摩の峰々を見ながら昼食にしました。晴れていると富士も見えるのですが、残念ながら、今日は雲の後ろでした。平山城址公園に入ってから、出会った人は、散歩の爺さん只一人でした。

 森の湿地から、雑木林を抜けて、山田の続く谷戸に出ました。この一帯は、堀之内寺沢公園になっています。昔道を歩いていると、龍生寺阿弥陀堂宝篋印塔がありました。江戸時代の寛政年間に建立されたようです。直ぐ近くに、公園の事務所と立派なトイレがありました。

 そこから、多摩ニュータウンの東山住宅に登りました。4,5年前に来た時は、造成されたばかりの宅地に、電信柱だけが立っていました。新規の造成地ならば、電線は地下に埋めたらどうだと、腹を立てたことを思い出しました。現在は、かなりの家が建っていました。東山住宅地の中の「もりみの公園」から見晴台へ出ました。直ぐ目の前に、帝京大学、明星大学、中央大学が見えました。遠くには、多摩センターや南大沢の街が見え、その後ろに丹沢の山が寝地蔵のように横たわっていました。直ぐ近くに愛宕神社があり、見晴台を含めて、この一帯を堀之内沖の谷戸公園と言うのだそうです。今日初めて歩きました。

 愛宕神社の参道を降りて、野猿街道に出ました。近くに、引切(ひっきり)という珍しい名のバス停があり、そこから聖蹟桜が丘の一之宮までバスで戻り、一之宮からは、歩いて四谷橋を渡り、我が家に戻りました。3時近くになっていました。

 引切について、

   
 

堀之内の旧小字。古くからの集落がありま した。野猿街道にバス停・引切があります。この引切には次 のような昔話があります。
 
”大昔よ、由木の松木と越野の境に流れてるよ、大栗川に でかい竹がはえててよ、その大竹を切っただと、そした ら竹の先が東中野まであるほどの竹だそうだ。その竹を   片付けようとしたが、でかすぎた。そこで堀之内で切っ たそうだ。そこを引切という。そして、越野と堀之内の 境でかついだので、そこを片所(かたそ)というそうだ”

 

 約、14、000歩の散歩になりました。散歩に出てから、家に帰るまで、1回しかトイレに寄りませんでした。朝方の頻尿感は、影を潜めました。また、心臓の動悸も収まり、体調に違和感が無くなりました。矢張り、運動は万能薬、私の身体が、きちんと対応してくれたようでした。医者には行かないことに決めました。

 夜は、冷蔵庫の中を片付ける為、レンコンのきんぴら、野菜炒めを作って、白ワインを楽しみました。

 

「薬科大 たにしヶ池に 氷張り 餌も無いのに 踊るハクセキレイ」

「冬木立 土を晒した 薬草園 色があるのは 烏瓜のみ」

「葉の先に 蕾固まる 沈丁花 君咲く季節 間近なりけり」

「奥多摩の 墨絵の如き 峰見つつ 握り頬張る 見晴らしデッキ」

「ニュータウン ビルの背中に 寝釈迦かな 丹沢連山 青霞けり」

「立ち並ぶ 新興住宅 多摩の丘 小さな社に 昔の里見る」 

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2019年1月25日 (金)

2019年01月24日

2019年01月24日

 

 今朝も良い天気でした。しかし、弱いながらも北風が吹いて、日差しはあっても、寒く感じました。

 今日も、夕方6時から、浜町で飲み会が、セットされていました。昔、ローマで一緒だった人達です。その内の一人、博多に住んでいる人が、上京してきたので、関係の深い人で会うことにしたのです。通常のローマ会では会えない人達なので、会うのは五,六年振りだと思います。

 4時過ぎに家を出れば良いので、午後どうしようかと思っていたら、2時頃から、全豪オープンテニスでの、大阪なおみの準決勝の試合が放映されました。中々見応えの或る試合で、丁度、4時5分くらいに、大阪なおみがフルセットの末勝利を手にしました。勝利のインタビューまで見て、4時15分に家を出ました。

 浜町は、京王線に乗り入れている、都営新宿線が使えるので、浜町までは、すんなり行けて、6時10分前には着きました。事前にある程度調べていたのが、変な思い込みになり、どうも逆方向に歩いたらしく、迷ってしまいました。結局、幹事に迎えに来て貰い、会場のイタリアレストランに行って、皆と会うことが出来ました。

 久しぶりに会い、皆それぞれ年を取りましたが、とても元気そうでした。所が、話を聞いてみると、九州からきたYA氏は、心筋梗塞で、あわや死ぬところだったそうです。また、埼玉に住んでいるYU氏は、胃癌で胃を全摘したそうで、体重が30キロほど痩せてしまったそうです。幹事の奥さんは、膀胱癌になり、矢張り一命を取留めたそうです。また幹事は、現在、肝硬変と胆嚢炎の疑いがあり、一番の酒飲みが、酒が飲めなくなっていました。かく言う私も、胃をほぼ全摘しましたので、皆、死に損ないの集まりでした。しかし、最初見た印象の通り、誰もが病を克服し、今は元気で余生を楽しんでいるそうです。皆、しぶといですねー。

 今日集まった連中は、誰も一癖も二癖も或る人間なので、話そのものは、とても面白く、あっという間に、10時近くになってしまいました。幹事夫婦と、YA氏は、もう1軒梯子をするとのことでしたが、私とYU氏は、付き合うと何時家に着くか分らないので、一次会で帰る事にしました。今度、また会うことが出来るのか、「神のみぞ知る」事なのでしょう。本当に、皆、歳を取ってしまいました。

 

「出会いの日 四半世紀も 前のこと 時は移れど 絆変わらじ」

「誰も皆 生死の境 乗り越えて 短き余生を 必死に生きてる」

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2019年1月24日 (木)

2019年01月23日

2019年01月23日

 

 今朝も快晴の空でしたが、富士山の方の地平だけに雲が有り、富士が見えませんでした。しかし、何時しか雲が切れ、富士が顔を出しました。群馬県北部の山には、雪が降っているようですから、東京の水は大丈夫なのでしょうが、異常な日照りが続いています。

 昨日、妻とも話題になりましたが、天皇の譲位の関係で、今後の天皇のあり方が、話題になっています。人間社会の問題は、数学や物理化学の問題を解く様に、論理的道筋が有るわけでも無く、当然ながら、論理的正解があるわけでもありません。また、天皇のあり方については、憲法に規定されていますので、その規定から外れた天皇のあり方を求める場合は、憲法を改正する必要があります。しかし、天皇の地位を、戦前に近い物にしたいというグループが依然としてありますが、現在の象徴天皇を定めた憲法を改正する様な、国論の高まりは起きないと思っています。象徴天皇せいの中で育った、今上天皇の戦争への反省、災害を受けた国民に対する寄り添いは、戦前には無かった天皇像を作り上げてきました。権力も財産も持たない天皇の身の処し方としては、理想的だった様に思います。特に、靖国神社に参拝したがる政治家が多い中で、天皇が靖国神社に参拝されないのは、大いに評価が出来ます。天皇が、神話や宗教色から遠ざかることは、俗世間の特殊なグループから遠ざかることを意味します。終戦前の軍国主義に戻らないためにも、良いことだと思います。

私は、若干左翼的な考え方をする人間ですから、生まれた時から地位や財産が保証される特別な階層の存在は、好きではありません。しかし、人間社会は生き物ですし、国家の存立や、国民の暮らしの保証は、その時々の、国際情勢や社会情勢に大きく左右されます。この時、国民に範を垂れ、国民の気持の拠り所になるのは、政界等を見渡しても、人格者は見当たらず、天皇しかいないのではないかと、現在は思っています。新天皇も、今上天皇の身の処し方を、引き継いで欲しいと思います。

 

今日は、恵比寿の先輩の店が、1月中に店仕舞いをするので、最後の「語ろう会」が、7時から先輩の店で行われることになっていました。「語ろう会」は、店の客の一人である、或る人が提唱した、「テレビを消して語ろうよ」と言う趣旨に賛同した人達が、自発的に集まった会です。性別も、年齢も、職場もそれぞれ違った人達の集まりで、とても面白い会でした。色々な話もしましたし、毎回変わる先輩の奥さんの料理も楽しみでした。

今日は、「語ろう会」の最後の日であることもあり、先輩夫婦も入れて、14名が集まりました。僅か1年少々でしたが、会の思い出話をしたり、最近結婚した人がいたので、それぞれの結婚観についても、経験や希望や考えが披露されました。私の結婚感は、基本は世代を繋ぐ動物の本能に、人間社会の慣習が少々付加されたもので、種の保存のための行動だと思っていました。所が、多くの人は、本能的な部分はさておいて、格差社会、男女同権、社会のAI化等、複雑化する社会の中で、結婚が素直に良いこととして受け入れられないようです。変な言い方ですが、結婚そのものを否定する結婚観を、かなり多くの人が持っている様です。同性結婚が認められる国もあるようですし、時代と共に、結婚観も大きく変わった様な気がしました。我々の頃は、古い結婚の慣習を破り、結婚は好きになった男女が行うもので、家や慣習は関係ないという考えが、結構ありました。結婚式もジミ婚といって、坊主も神父も家族もいなくて、単に友達の前で、婚姻届に署名するだけという結婚式が流行りました。

先輩の店は、1月寿命が延びたようです。その為、「語ろう会」は、来月、もう1回行われることになりました。今日の会は、まだ、話が続いていましたが、私は遠方に住んでいるので、10時に、一足先に帰りました。

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2019年1月23日 (水)

2019年01月22日

2019年01月22日

 

 毎日、同じような事を書いていますが、今朝も素晴らしい天気でした。富士も見えていましたが、その内に、富士だけが雲に覆われました。

 秋篠宮の長女、佳子様と婚約の話がある小室家の金銭問題が、大きなニュースになっていました。昨年末、秋篠宮が、金銭トラブルが解決しなければ、婚約は難しいだろうとの発言に対する、小室家の対応が問題になっているようです。金銭問題は別にして、以前から、秋篠宮を見る度に、長いこと精神的鬱屈を押し込めてきたような表情をしています。目つきに素直さが無い様に感じます。皇室の中での自分のあり方に対する疑問が、心の何処かに宿っていたのではないかと思います。自由を制限された皇室の中で生きるのは、難しいと思いますが、もう少し、晴れやかな気持で、皇室内部から、皇室改革をして貰いたいと思っています。

 11時半に家を出て、聖蹟桜が丘に行きました。先ず、郵便局に行って、抽選に当たった祈念シートを2枚貰って、書き損じの年賀状を通常の葉書に変えてくれる様に頼みました。すると、今年は、新元号が入った切手シートが当たるダブルチャンスがあるので、年賀葉書の交換は、その後にした方が良いと言われ、素直に従いました。

 12時20分には、歯医者に行って、12時半から、歯の治療を始めました。先週、歯を見てくれた女医さんが、治療をしてくれました。神経が既に機能していない様なので、麻酔無しで始めると言われました。少し、緊張しましたが、確かに痛みは、殆ど無く、今日の治療は、歯の上部の真ん中に穴を開け、歯の根に溜まった膿を取りだし、清掃消毒をして終わりました。上部の穴は、粘土で仮に埋めるだけでした。僅か、30分で済みました。来週も治療があるそうです。治療後の食事制限は全く無いそうで、酒も多量には飲まないでと、言われただけでした。

 この事を、妻に電話で報告すると、では夕食を一緒にしようと言う事になりました。夕食までに時間があるので、関戸橋を渡り、土手から1つ奥の道を歩いて、我が家に戻りました。この時期でも、小春日和と言うのでしょうか、着ぶくれている状態では、汗ばむ様な暖かさでした。

 4時に再度家を出て、5時10分くらいに飯田橋駅に着きました。牛込橋から見た夕焼けは、一味違った夕焼けでした。自然の営みとは無縁の様な、都会の空も、地平の光の坩堝から、朱赤、赤、赤紫、薄紫、青紫と変わっていく様は、多摩と同じでした。違うのは、沢山の街の灯が輝き、此処は都会だと主張していることです。それが、一味違った夕焼けを作り出していました。

 5時半近くに、毘沙門天の側で妻と出会い、行きつけの小父さんの中華料理屋に行きました。私達が、1番目の客でした。小父さんに新年の挨拶をして、食事が始まりました。妻は、お腹が空いていたらしく、珍しくスピード感のある食べ方をして、次々に料理を食べていきました。私も、胃がある頃は、負けることは無かったのですが、最近は、スピードにはついて行けなくなりました。

前にも書きましたが、妻が、以前より随分優しくなりました。以前は、男なんかに負けられないという気持が強く、男に甘えるなどもっての外だという態度が、表に出ていました。所が最近は、私の様な無骨な男に対しても、ちょっと甘えたり、手助けを求めたりするのです。記憶が確かではありませんが、高村光太郎の詩の中に、「女が年を取り、女を一つ捨てる毎に、綺麗になっていく、、、」と言った様な詩が。あった様な気がします。詩の状況とは違うとは思いますが、妻も年を取って、笑顔が綺麗になりました。何時の間にか、夫婦の期間が、15年を過ぎてしまいました。

 

「我妻の 我を諭せる その口調 母の優しさ 滲み出ており」

「鎧をば 一枚一枚 取り去りて 助け求める 妻の可愛さ」

「15年 夫婦で過ごした 思い出は 我等二人の 宝箱なり」

「宝箱 ぎっしり詰まった 思い出を 出しては磨く 老いの道行き」

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2019年1月22日 (火)

2019年01月21日

2019年01月21日

 

 こんなに良い天気が続いて良いのでしょうか、今朝も快晴でした。1月15日に、お湿りにもならない程度の雨が降った以外は、暮れからずっと良い天気が続いています。水撒きをして貰えない草木は、大丈夫なのでしょうか、心配になります。野生の草木はしぶといですし、先に葉を落とし、冬枯れて、最小限の水分で生きていけるようにしているのでしょう。

 昨日、お年玉年賀葉書の抽選会があったようなので、我が家に来た年賀状の番号を調べました。結果は、何時もの年と同じように、70枚近くの年賀状の内、三等の記念切手シートが2枚当たっただけでした。元々籤運は悪いので、記念切手シートが当たっただけで、良しとしましょう。

 今朝早く、妻から電話があり、明日、大洗の方にアンコウを食べに行かないかと誘いがありました。とっても嬉しい誘いだったのですが、明日は、歯の治療をする事になっていて、断わらざるを得ませんでした。その代わり、次の機会の約束をしました。前から分っていると、色々予定を入れないで済みます。

 今日は、渡り鳥の季節には、最低一度は行くことにしている、石神井公園に行って来ました。色んな種類の渡り鳥が来るのです。

 午後12時半に家を出て、2時には石神井公園に着きました。毎年のことですが、マガモ、オナガガモ、ハシビロガモ、バン、キンクロハジロ、カイツブリ、ゴイサギ、ホシゴイの姿を見る事が出来ました。勿論常連の、カルガモ、アオサギ、カワウ、カラス、キジバト、ヒヨドリ、ツグミもいて、石神井池と三宝寺池は、野鳥の楽園でした。今日驚いたのは、アオサギの多さでした。三宝寺池の中之島の木々に、30羽を超すアオサギが止まっていました。アオサギは身体が大きいので、島が占拠された状態でした。アオサギの勢いに押されて、ゴイサギとホシゴイは、岸辺に茂みの中で、ひっそりと身体を休めていました。確か、ゴイサギは夜行性だったと思います。

 冬の石神井公園で、もう一つみたい物は、葉を落とした落羽松です。石神井公園の落羽松は、練馬区の名木だそうです。葉を落とした落羽松の枝は、ほぼ真横に、いかにも頑固そうに張り出して、梢まで続いています。下から仰ぎ見ると、空へ続く階段のようでもあります。地面には、筍のような根が突き出ていて、見慣れない物も見せてくれます。

 3時40分頃、石神井公園を出て、4時半頃に国立の駅に着きました。駅のホームから、ダイヤモンド富士を見ようと思ったのですが、残念ながら、国立の駅のダイヤモンド富士は、既に終わっており、富士から大分離れたところに、日が落ちました。それでも、充分に綺麗な日没でした。5時半頃、家に帰りましたが、満月が輝いていました。後で知りましたが、今日は、スーパームーンとかで、何時もより月が大きく見えたのだそうです。

 今朝、妻に歯の治療のことを話したら、2,3日は、酒も飲めないし、まともな食事も出来ないと脅かされましたので、アサリバターと鮭のカルパッチョを作り、少し怖かったのですが、干し鹿肉を焼いて、飲み溜め喰い溜めをしました。鹿肉は、干し肉にして更に焼いたので、今度は食中毒になることはありませんでした。

 

「真っ直ぐに 空へと伸びる 落羽松 誰でもおいでと 階段用意」

「冬来れば 渡り鳥等で 大賑わい 人も集まる 石神井公園」

 

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2019年1月21日 (月)

2019年01月20日

2019年01月20日

 

 今朝は、雲の多い空でした。干し肉のためには、困った空でしたが、早くから雲が切れ始め、9時過ぎには、ほぼ快晴の空になりました。昨晩から漬け込んでおいた鹿肉を、干し網に入れました。この所空気も乾燥しているので、良い干し肉になると思います。

 朝の仕事を片付け、日記を書いている時に、娘から多摩動物園に行かないかと誘いがありました。チーターとサーバルに子供が生まれ、一般公開が始まったので、家族で見に行くとのことでした。今日は、午後6時からアパートの理事会がありますが、それ以外に予定はないので、一緒に行くことにしました。12時過ぎに、多摩動物園で落合うことにしました。

 日記を書くのに手間取り、11時50分頃に家を出ることになりました。多摩動物園への行き方を考えましたが、多摩モノレールの万願寺駅まで歩くことにしました。一番早いだろうと思ったのですが、結局、多摩動物園に着いたのは、午後1時近くになってしまいました。娘に電話すると、昆虫館で時間潰しをしているとのことでしたので、直ぐに昆虫館に行きました。

 「昆虫館のどこら辺りにいるのかなー」と思いながら歩いていると、上の孫が私の前を通り過ぎました。「おーい〇〇じゃないか」と声をかけると、直ぐ振り向いて嬉しそうな顔をしました。どうやら、私を探していたようです。上の孫の案内で、娘の亭主と孫達がいる蝶々の温室に行きました。娘は、昆虫館の前で、私を待っていたそうですが、出会いませんでした。

 孫娘の先導で、一緒に温室を回り始め、蝶の写真を撮ろうとしましたが、どうしてもシャッターが切れませんでした。良く良く見ると、温室に入った途端、レンズが曇ってしまって、ピントが合わなくなっていたのです。丁寧に曇りを取って、漸く写真が撮れるようになりました。蝶々の温室は、花が1杯で、色々な種類の蝶が沢山飛んでいました。何度も多摩動物園に来て、蝶々の温室にも、何度も入りましたが、何時も花が咲き、蝶が舞っていました。常時このような状態を保つのは、本当に大変だと思いました。飼育員の苦労の大きさが、分ったような気がしました。

 昆虫館を出て、娘と合流し、主目的のチーターとサーバルの赤ちゃんを見るために、アフリカ園に向かいました。残念ながら、チーターの赤ちゃんの公開時間は過ぎていました。そして、サーバルの檻の前は、人だかりがしていて、行列も出来ていました。1時45分から、公開が開始されるようでした。仕方なく、列の後ろに並びました。直ぐに係員が来て、見学は、交代制では無いので、並ばず空いている時を見つけて、見学して下さいと言われました。見学時間は、4時15分まででした。

 一旦、サーバルの檻を離れ、昼食を先にしました。食堂へ行く途中の檻の無い池で、飼育員がペリカンに餌を投げ入れていました。そこに何羽も、野生の青鷺が集まり、ペリカンの餌を横取りしていました。多摩川では、仙人のように身動ぎもせず、川岸に立っていることが多い青鷺の、別の一面を見ました。

新しく出来た食堂は、大変な混みようでした。2時頃になって、漸く食事にありつきました。ちゃんと生ビールもありました。上の孫が、食事が終わったところで、この前買って置いた、化石採集のための、タガネとハンマーをプレゼントしました。最近上の孫は、石に嵌まっているようです。凄く嬉しそうで、「もう動物は、どうでもいいや」といった顔付きになりました。

 昼食後、サーバルの赤ちゃんを見ました。それは良かったのですが、孫娘はバッグの飾りを失くしてベソをかくし、末の孫は転んで膝を痛め、大声で泣き出すし、色々大変でした。それでも、アナグマ、カワウソ、モグラなどを見て、最後に鳥のケージの入ったところ、我々を待っていたかのように、クジャクが羽を広げ、手が届くところまで近づいて、右に左に動いて一廻りするなど、まるで舞台の上で踊りを披露しているようでした。此のお陰で、孫娘も末の孫も機嫌を直し、めでたしめでたしとなりました。閉園時間の5時丁度に動物園を出て、門の前で記念撮影をして、孫達と別れました。

 多摩動物園から、高幡不動、聖蹟桜が丘、我が家へのバス、全ての乗り継ぎが、待ち時間無く進んだので、我が家に5時40分に着きました。楽々、理事会に間に合いました。

 

「冬最中 蝶の乱舞を 目の当たり 常春の里 多摩の蝶々館」

「多摩川で 仙人紛いの 青鷺が ペリカンの餌 横取りするなり」

「此処ならば 餌の魚は 直ぐ捕れる 多摩動物園に 住着く青鷺」

「私見て お客を前に 媚を売る 羽を広げた 孔雀の熱演」

 

 

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2019年1月20日 (日)

2019年01月19日

2019年01月19日

 

 今日は、市川で学園の理事会があるので、遅くとも7時半には、家を出なければなりませんでした。日記を書いてから出かけようと、5時に目覚ましをかけておいたのですが、4時45分には起きてしまいました。日記をブログに上げて、朝食を食べ、7時少し前に家を出ました。丁度、朝日が昇る頃で、東の空が朱く染まっていました。昨日見た、日没の時の色と、ほぼ同じ色でした。今日も快晴でした。

国立駅に着いたのは、7時20分頃でした。急いで駅のホームに上がり、ホームの端から富士を見ました。朝日を受けた富士が、武蔵野を抱きかかえているようでした。天気の良い日の国立駅は、富士を見るのが楽しみです。

国立駅から中央線に乗り、お茶の水で総武線に乗換え、本八幡駅に着いたのは、8時半に着いてしまいました。本八幡から学園までは、30分足らずで行くことが出来ます。時間が沢山出来たので、本八幡の街を散歩していたら、葛飾八幡宮がありました。なかなか立派な神社でした。随神門は、市指定の重要文化財でした。境内の公孫樹も見事でした。更に境内には、幾つもの小さな神社がありましたので、宝籤に当たるようお願いしておきました。市川市の北部にある、本八幡町の名前の由来は、此の葛飾八幡宮に違いないと思い、後で調べたら、正にその通りでした。

丁度良い時間になりましたので、学園に行き、9時40分には学園に着きました。9時45分には、先月、大動脈解離の手術を受けた理事長が、姿を現しました。少し痩せましたが、頭はしっかりしており、以前と同じように議事を進行させました。大晦日に退院したとは聞いていたのですが、少なからず驚きました。後で、本人が「冥土から戻ってきましたよ」と言っていました。それにしても、医学の進歩は、凄い物だと改めて思いました。

理事会は、11時半には終り、雑談しながら昼食を食べ、12時には学園を出ました。月に一度、普段は足を伸ばさないところに来たので、江戸川まで歩くことにしました。市川駅から江戸川までの間に、観音寺がありましたので、お参りしてきました。御朱印帳を持って来なかったので、御朱印は、貰いませんでした。観音寺から、ものの5分もしないで、江戸川の土手に出ました。市川橋を渡り、反対側の土手へ出ました。こちら側の土手の上流は、映画で寅さんが寝転がって、野球を見たりたりする所です。此処でも、土手の下の河原は、野球場になっていて、小学生と思われる子供達が野球の試合をやっていました。野球場の脇を通って、川岸に行くと、ヒドリガモの群れが泳いでいました。

土手から、千葉街道に戻り、小岩を目指しました。中央分離帯に、沢山の君が代蘭が植えられていましたが、3本ほど背の高い白い花が残っていました。小岩駅は、思ったより遠かったのですが、1時過ぎには、着きました。小岩駅で、総武線に乗り、両国駅で降りました。本場所が行われている時の、両国国技館辺りを見たことが無かったので、見てみたくなったのです。両国駅を出て、長い行列と人混みに驚きました。此の行列は、何故出来ているのでしょうか、座席の入れ替えがあるのでしょうか、無知を曝け出すようで、質問することが出来ませんでした。70年以上生きてきて、相撲の本場所を一度も見たことがありません。相撲を見たのは、小学生の頃に、長崎巡業を父と見に行ったことを憶えています。これが、最初で最後でした。

国技館の前から、隅田川のテラスに移り、しばし隅田川の風景を楽しんだ後、両国橋を渡り、柳橋へ行きました。此処は、神田川の河口で、江戸時代から戦前まで、東京を代表する花街として有名で、私でさえ、柳橋芸者の名を聞いたことがあります。戦後は一度復興されたものの、神田川の護岸工事や区画整理等により、花街の雰囲気が亡くなり、廃れてしまったそうです。今は、屋形船と釣り船の係留地になっていました。学生時代に隅田川に来た時は、臭気漂うどぶ川でしたが、今は遊覧船が行き交う川に戻りました。

柳橋から1つ上流の浅草橋を渡り、浅草見附跡過ぎて、浅草橋駅の東口の方へ出ました。吉徳とか久月とか、大手の人形展が見えました。高架に沿って、西口の方へ歩くと、何となく戦後の面影が残っていました。浅草橋は、東京で私が住んだ最初の町です。経緯は省きますが、10日間ほど、帽子の卸問屋の社長宅に、お世話になりました。当時の浅草橋には、繊維関係の問屋が集まっていて、小さな裁縫工場が並んでいました。退職後、何度か来ましたが、とても懐かしいところです。

浅草橋で、今日の下町散歩を終了し、総武線から新宿で京王線に乗換え、4時には、我が家に戻りました。今日も、我が家の近くで、ダイヤモンド富士を見ることにしました。着替えて、多摩川の土手に出ると、私が予定していた、富士山が裾野近く迄見えて、送電線が邪魔にならない場所に、既に4人の同好の士が集まっていました。4時半頃から、太陽が富士に接近し、4時40分には、太陽の下辺が、富士の真ん中に接しました。そこから、右へ少しずつ移動しながら、沈んでいきました。最後の一欠片は、富士の頂上から滑り落ちるようにして、富士の背後に隠れました。西の空が、残照に輝く中、東の方には、月が輝きを増していました。今日も、素晴らしい天体ショウを見せて貰いました。

少し、買い物をして戻ると、次男がいました。今日も休んだようです。次男に話して、此の3日間ほど我々を苦しめた鹿の肉を、3分の一は、干し肉にし、残りは、冷凍することにしました。次男は、冷凍を担当し、私は、干し肉を担当しました。先ず、ブロックの肉を適当な大きさの薄切りにし、日本酒でアルコール消毒をしました。その後、出汁醤油とユズポンを合わせて味付けし、ユズ胡椒で、風味付けをし、外の寒気で一晩寝かせることにしました。朝から夜まで、やることの多い、実り多き1日でした。

 

「朝ぼらけ 始まる前に 起き出して 朝飯前の 一仕事かな」

「昨夕は 富士の高嶺に 君を見た 今日の日の出は 多摩川の先」

「本八幡 名前の由来の 大神宮 発展見て来た 葛飾八幡」

「我が友の 冥土の国から 帰還せり 笑顔がくれる 帰還の土産」

「河川敷 子等の歓声 聞きながら 江戸川の土手 寅さん歩き」

「水玉の 光転がる 江戸川に 武蔵でも見た ヒドリガモの群れ」

「神田川 流れの最後 柳橋 昔の花街 鴎が遊ぶ」

「西の果て 故郷離れ 上京し 初めて住みし 浅草橋よ」

「三角の 燭台の上 灯が点る 世界を照らす 日輪なりき」   

 

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2019年1月19日 (土)

2019年01月18日

2019年01月18日

 

 今朝は、快晴でした。湿度も極めて低かったので、くっきりとした富士が見えました。

昨晩は、1度起きたきりで、今朝7時まで熟睡し、一昨日の晩の寝不足を解消しました。朝1度トイレに行ったきりで、その後1回も便意を催しませんでした。平常の生活に戻ったと思います。

今日は、湿度が低いので、午後になっても、雲が湧き出て富士を隠すことはないと思いましたので、高尾山に登ってきました。体力の回復も目的の1つでした。昨日、少しの距離でも、歩く気を無くした自分を見て、5年後の自分を見たような気がしました。5年後は、当然歳を5年重ねるわけですから、体力が弱まるのは当然ですが、年の割には、元気だと言われたいし、花鳥風月を楽しむ生活を、出来るだけ長く続けたいので、弱気を振り払う意味で、高尾山を選びました。

10時半には家を出て、聖蹟桜が丘で、コンビニ弁当、ビール、エネルギー補給のためのゼリーを買いました。上手く高尾山口行きの特急に乗れたので、11時半には、高尾山口へ着きました。登りは、ケーブルカーにしました。登りまで挑戦する気にはなりませんでした。ケーブルカーの高尾山駅から、山頂まで登るのも、今の私には、大変なことだと思いました。今までよりも倍くらいの時間をかけて、高尾山頂に着きました。結構人はいましたが、土日の混雑に較べれば、5分の1程度だったと思います。

山頂からの富士は、ほんの少し雲が棚引いているだけで、雪の煌めきが分るようでした。予想通りに私を迎えてくれました。富士と丹沢連山を見、ビールを飲みながら、コンビニの田舎弁等を完食しました。お腹の調子も問題なかったので、気持が浮き浮きしてきました。

昼食後、霜柱を見に行きました。普通に見られる霜柱では無く、シモバシラという植物が作り出す、薔薇や水芭蕉のような、花の形になる霜柱なのです。此処5,6年見なくなりました。私が、霜柱の出来る日に高尾山に登らなかったのか、シモバシラの植物が山から消えたのか、気候が温暖になったのか、何が原因なのか分りません。紅葉台の下の、霜柱が良く見られた場所に行ってみましたが、残念ながら今日も、花の霜柱を、見る事が出来ませんでした。

諦めて、紅葉台に登り、もう一度富士を堪能して、薬王院への車道へ出て、薬王院の庫裏の近くにある、穴弁天に挨拶しました。薬王院から、ケーブルカーの駅近くまで歩き、琵琶滝へ降りる道を歩いて降りました。元々、下りが苦手な私には、非常に緊張する道でしたが、問題なく降りる事が出来ました。途中の森では、落葉樹が葉を落とし、常緑樹の固い葉に冬の日が当たり、まるで川面の水玉が森に移ってきたような、光のショウの中を歩いているようでした。宝石箱の中を歩いているようでもありましたので、何枚も写真を撮りましたが、どれ1つとして、感動を再現出来るような写真は、撮れていませんでした。私の目が、少しボケているので、きっちり焦点の合った写真は味家がないのかも知れません。また、葉の動きが作る煌めきは、動画で無ければ、表現できないのかも知れません。

帰りも、上手いこと特急に乗れたので、4時半には、我が家に着きました。丁度日没が、始まるところでした。なんと、我が家のベランダから、ダイヤモンド富士が見えました。半信半疑ではありましたが、そろそろかなとの予感はあったのです。良い一日の締めくくりでした。

昨日、ワインを飲んで失敗したので、今日は、ほうれん草のソテー、トマトとセロリのサラダ、次男が作ってくれた豚肉の煮物を肴にして、ビールを飲むという、私としては寂しい晩酌になりましたが、気分は上々でした。

 

「青空に ドデンと座る 富士を見る 頼りがいある 我の父親」

「青霞む 丹沢山塊 連なりて 富士の白嶺の 露払いかな」

「目の前に 丹沢連山 富士の山 ビール飲みつつ 飯を食うかな」

「葉の落ちた 森に残れる 緑葉に 冬日差し込み 玉となりけり」

「森の中 キラキラキラと 輝きぬ 宝石箱に 居るかの如し」

「夕焼けの 富士の高嶺に 日の落ちる 我が家から見る ダイヤモンド富士」

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2019年1月18日 (金)

2019年01月17日

2019年01月17日

 

 今朝も、素晴らしい朝でした。富士も見えました。所が、気分は最悪でした。昨晩食べた、鹿肉の刺身で食中毒になり、猛烈な下痢に襲われました。一晩に、6、7回は、トイレに要ったと思います。最後の頃は、何もかも出尽くして、おならくらいしか出ないのですが、それでも便意があり、殆ど眠れませんでした。明け方、少しだけ眠って、朝起きた時は、便意は治まっていましたが、頭がボーッとしていました。一緒に食べた次男も同じ症状だったようです。矢張り、野生の動物の肉を、刺身で食べるのは、無理があるようです。

 パンとスープと果物の軽い朝食を食べて、午前中、日記を書いたり、米国の税務庁に出す書類を作成して、午後には、2時に予約しておいた、聖蹟桜が丘の歯医者に行きました。右上の奥歯の脇の歯茎が腫れて痛くなっていたのです。不思議なもので、予約した時には、激しい痛みがあったのですが、病院に行く頃には、大分治まっていました。

 米国への手紙を出して、歯医者に行くと、女性の歯科医が患部を検査してくれました。その歯科医の見立てでは、歯周病菌が、歯根の奥の方でも活動しているようだと言っていました。従って、次の22日に、右下の奥歯を治療した時と同じように、歯の上部を切り取り、歯根部分を洗浄し、詰め物をした上で、歯の上部を、義歯を使って接合することになりました。

 薬局で薬を貰う時間を入れても、2時半には終わりましたので、近くの郷土の森に行くことにしました。聖蹟桜が丘から、関戸橋を渡ったところで、息切れはするし、足がスムースに動かなくなりました。昨晩の下痢で、食べた物を全部出したので、エネルギー不足と脱水症状も引き起こしたのでは無いかと思われました。歩いて郷土の森へ行く気が、全く無くなってしまいました。近くの中河原駅まで歩き、コンビニでパンとジュースを買って、チュウバスで郷土の森公園に行きました。

 蝋梅は早や満開で、西日を受けて輝く、蝋梅の花を見ながら、遅めの昼食にしました。その後、閉園の時間になるまで、はち切れそうになっている蕾や、ちらほら咲き始めた梅を見ながら過ごしました。満開の梅よりも、この時期の梅園が好きです。この時は、便意も無く、食中毒は治まったと思っていました。

 その後またチューバスに乗って、5時半頃我が家に戻りました。6時半頃から、何時もの通り、チーズ、生ハム、トマトサラダ、キムチで、ワインを飲みました。ちょっと食中毒を甘く見たようです。9時近く、グラスのワインを一気に飲み干した頃から、また便意に襲われました。恐らく、内臓が相当に弱っていて、上手く対応できなかったのではないかと思いました。それから4回ほどトイレに行き、下痢止めの薬を飲んで、普段よりは、1時間以上も早く、11時前には床に入りました。

 

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2019年1月17日 (木)

2019年01月16日

2019年01月16日

 

 今朝は良く晴れて、富士も見える良い天気でした。その良い天気が、1日中続きました。

 1月も、15日を過ぎてしまいました。年末に活けた日本間の花と、仏壇の花を片付けました。ベランダのブライダルベールは、まだ蕾を持っていましたが、花を咲かせそうに無いので、根元からカットして、春に備えました。これで、正月気分から、通常モードに切り替わりました。

 今日は、米国の銀行に対する書類作成のために、税務署と市役所に行く必要がありましたので、税務署のある分倍河原までを歩きました。

 実は、昨年、米国の銀行に預けていた預金を、昨年解約し、全部日本に移しました。所が、解約後、米国の内国歳入庁に、外国税ステータスの必要書類に記入すると共に、書庫書類を出さなければならず、これまで2度提出したのですが、必要条件を満たさず、3度目の書類請求が来ました。不足書類は、納税者番号と、日本国籍証明でした。国籍に関しては、旅券をコピーしましたが、納税者番号が私にあるのか、税務署に確認に行ったのです。

 分倍河原の府中税務署に行き、事情を説明して、納税者番号について聞いたところ、税務署に拠れば、日本には固有の納税者番号は無く、マイナンバーを個人識別の番号として利用することもあるとのことでした。市役所に行けば、マイナンバー付きの住民票の写しを発行してくれるとのことでした。

実は、マイナンバーのお知らせという書類が、2年前に届いたのですが、その書類には、マイナンバーが記載されておらず、私自身は、マイナンバーを知らないのです。知らせの中に入っていた種類で、個人番号(マイナンバー)カード交付申請をする必要があったようです。私の誤解でしたが、私は個人番号制度には疑問を持っていたので、意識的に交付申請をしなかったのです。申請さえしなければ、私には、マイナンバーが付与されないと思っていました。所が、今日初めて、強制的にマイナンバーが付与されていることが分りました。しかし、これまでの間、マイナンバーが必要になったことも1度もありません。そして、マイナンバーが、米国が要求している納税者番号なのかも分りません。取り敢えず、私の識別番号は、マイナンバーしかありませんので、納税者番号として出してみようと思います。

府中駅から、市役所に行って、マイナンバー付きの住民票の写しを発行して貰いました。初めて、マイナンバーと対面しました。12桁の長い番号でした。此の番号の提出と旅券のコピーによって、書類が整い、米国との縁が、完全に切れることを願っています。

今日は、次男が休みのようなので、府中の魚屋で、刺身を買って帰りました。1杯飲もうと思ったのです。家に帰って、酒の準備をしていると、次男も参加して、友人から貰ったという、鹿肉の刺身を作ってくれました。3日前に捕ったものだそうです。それがとても美味しくて、日本酒が何時もより進むと共に、かなり食べ過ぎてしまいました。普段に無い、贅沢な晩酌となりました。

 

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2019年1月16日 (水)

2019年01月15日

2019年01月15日

 

 今朝は、雨か雪かという空模様でしたが、都心の方で、軽い雨が降りました。

 今日は、午後1時から、大学のクラブの同期の新年会、午後6時半からは、大学の同窓会の会議と新年会がありました。

 クラブの同期会の新年会は、目黒の先輩の店でやることになったので、事情によって遅れることが分っている一人を除いて、4人が目黒駅で待ち合わせをしました。大学のクラブのモットーの1つが時間厳守だったので、待ち合わせの時間、12時半の10分前には、全員集まりました。そんな訳で、先輩の店には、12時40分には着いてしまいました。遅れると言っていた一人も、1時半にはやって来て、楽しい同期会が始まりました。

 集まったのは、今年で全員後期高齢者になる老人ばかりなので、病気の話から、なかなか先へ進みませんでした。特に、最近耳を悪くした先輩と、10年以上、難聴と戦ってきたメンバーの女性(M女子)の話は、お互いが良く聞き取れないので、1つのことを伝えるのに、普通の何倍も時間が掛かりました。実はM女子が、良い耳鼻咽喉科を教えていたのですが、筆談の方がずっと早かったと思いました。

 暫くして、先輩は席を離れ、同期だけになりました。M女子は、隣の友達の女性(S女子)の襟の所に、マイクを付けて、皆の話の内容を、時々要約して補聴器に送信して貰っていました。M女子もS女子も、旦那の面倒を見ることに、かなり精神的に疲れているので、同期会は、ちょっとした息抜きになっています。私の定年以後、10年近く同期会を続けていますし、歳も取りましたので、自慢話も苦労話も、何でも話せる会になりました。人生をどう生きるのが良いか、結論はありませんが、自分にとって良かったことを数えることは出来ます。青春時代の訳の分らない時期に、友を得て、これだけ年を取っても、兄妹のように話せるのは、私にとって良いことの上位に数えることが出来ます。今日も約5時間、何の屈託も無く話が出来ました。また先輩の奥さんが、何種類もの料理を作ってくれました。その料理が、どれも美味しくて、ワインも美味しく飲むことが出来ました。良い時間を過ごせました。

 同期会の後、私は大学の同窓会の会議、同期の一人はスペイン語の公開講座に参加するために、大学に向かいました。6時10過ぎ頃に大学に着き、それぞれの場所に向かいました。

 私が、やっている会議も、少しずつ結果を出す時期が近づいて来て、議論も白熱するようになりました。遅くとも秋までには、結論を出す必要があり、会議毎に結論に近づけるようスケジュール感をもって、議事を進めて行くことになりました。

8時半近くに会議が終り、新年会を何処にするか迷っていると、隣の会議室で行われていた別の会議も終了し、合同で新年会をやることになりました。別の会議も同窓会の会議で、皆、顔見知りなのです。新年会は、近くの中華料理屋でやりました。1つの会議でやるよりも、ずっと楽しい新年会になりました。同窓会の仕事は、全てボランティアなのですが、誰しも真剣そのものです。母校愛が強いのでしょうか、昔を知っている仲間と会えるのが楽しいのでしょうか、どちらも大事だと思います。帰りも、同じ方向に帰る人が二人もいて、退屈することも無く、寝過ごすことも無く、家に帰ることが出来ました。

 

「年取れば 苦労したこと 良きことに 過去の思い出 良きこと増える」

「年取りて 苦労が増える 人もいる 友が手助け 出来れば良いが」

「老い先が 短くなりし 人生に 過去の思い出 宝石箱に」

「思い出を 宝石箱から 取り出して 話せる友の 一人は欲しい」

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2019年1月15日 (火)

2019年01月14日

2019年01月14日

 

 我が家で、何かをやる時は、娘家族は必ず1泊します。娘も娘婿も酒が好きで、我が家の集まりに酒は付きものですから、車の運転が出来なくなるのです。一旦、車で移動することに慣れると、公共の交通機関を利用しての移動は、とても面倒なようです。娘家族は、リビングの近くの日本間で寝ていますので、起きて来るまで、リビングのカーテンを開けないことにしています。今日、孫達が起きて来たのは、10時過ぎで、既に日は高く、穏やかな良い天気でした。

 大急ぎで、ご飯を炊き、味噌汁とサラダを作り、鮭の焼ハラスを温めました。娘から言われて、昨晩の残りの薄切りのこんにゃくを、砂糖と醤油とごま油で炒めました。これが、孫達、特に末の孫に大受けしました。午前11時過ぎから朝食にして、朝食を食べ終わると、孫達は帰って行きました。病気の父親が、一人で待っているからです。

 孫達が帰って、リビングとキッチンを片付けて平常に戻し、午後1時半くらいから、矢川緑地から一橋大学を歩きました。風も無く、穏やかな天気でしたので、冬だというのに汗を掻いてしまいました。

 先ずは、多摩川の土手を上流の立川根川との合流点まで歩きました。昨日は、泡立草の花が珍しいと思ったのですが、土手には、沢山の泡立草の花が、咲いていました。多摩川では、川面で煌めく光の玉の中を、鷭達が泳いでいました。鷭達も、光の玉を作っていました。

 矢川緑地の半分は湿地帯ですが、冬になって殆ど雨が降っていないので、干上がっていました。このような日照りの状態でも、矢川の源流である湧水は、水涸れの気配も無く、渾々と湧き出て矢川の流れを維持していました。此処は、毎年、真鴨が来るのですが、今日は姿が見えませんでした。

 矢川緑地から、何時もは歩かない住宅地の中を歩きました。国立第2章学校の校庭には、鈴生りの熟し柿が、夕日に朱く染まっていました。その中に黒い物も沢山混じっていると思ったら、椋鳥の群れでした。唐楓の並木がありましたが、今が紅葉のシーズンでした。剪定の後に、多くの葉が芽吹いたようです。剪定の時期が良くなかったのかも知れません。迷い道をしながら、一橋大学に着きました。午後4時近くとなり、日没が近づいて来ました。キャンパス内の、公孫樹や松の大木と赤煉瓦の校舎が、夕日を受けて、絵のような風景を作り出していました。グランドの横の雑木林に囲まれた池には、真鴨が7組泳いでいました。既にカップリングが済んだようです。この池にも、真鴨が毎年やって来ます。期待していた物を見る事が出来て、安堵しました。途中の畑でも、大学の校庭でも、紅梅が咲いていました。矢張り、梅の時期は既に始まったのですね。

 4時半くらいになったので、国立駅から富士山が見える道路に行き、ビルの谷間の日没を見ました。富士の近くに日が落ちているようなのですが、雲が邪魔をして、富士の姿を見る事は出来ませんでした。年末から今日まで、日没時の太陽を、しつこく追っているような気がします。

 家に戻ったのは、5時半くらいで、シャワーを浴びて、6時からインターフォン竣工検査に立ち会いました。私が住んでいるアパートは、191世帯の大型なので、色んな人が居るようです。4世帯が、インターフォンの交換に応じてくれなかったようです。家の中に入られることそのものを拒んでいるようだとの事でした。そんな訳で、完全に終了したとは言えないのですが、中央の制御機器は、正常に動いていることを確認して、取り敢えずの竣工検査を終えました。

 

「冬に入り 日照り続きの 武蔵野に 湧水枯れぬ 矢川の源流」

「蜘蛛の糸 落ち葉の暖簾 下げている 冬の最中の 店開きかな」

「落ち葉吊る 銀に輝く 蜘蛛の糸 獲物捕らえる 糸には見えず」

「細き枝 花の化石を 留めたり 夕日を浴びて 往事の華やぎ」

「刈り込まれ 秋に芽吹いた 唐楓 真冬に紅葉 盛りなりけり」

「冬空を 背にして赤き 熟し柿 中に黒点 椋鳥の群れ」

「夕日背に 影絵となりし 木々達と 夕日に赤き 煉瓦の校舎」

「時来れば ビルの谷間に 日の落ちる 何の不思議も 無きと知れども」 

 

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2019年1月14日 (月)

2019年01月13日

2019年01月13日

 

 今日も、雲の多い朝でした。所が、天気予報の通り、青空がどんどん広がって、10時過ぎには、雲1つ無いような、素晴らしい天気になりました。今の若い人にとっては、天気予報が当たるのは、当然のようですが、私は、まだ、天気予報が見事に当たると、驚いてしまいます。

 今日は、孫娘の誕生日なので、遠くまで散歩に出かける事は止めて、軽く近場を歩きました。

 11時頃に家を出て、四谷文化センターへ行きました。今日は、どんど焼が行われる日だったのです。しかし、どんど焼きは既に終わっていて、焼いた後の煙が燻っていました。そこから、昔道を歩くと、泡立ち草の花が、1箇所だけ咲いていました。最近は、冬の真っ盛りに咲いている、遅咲きの花と早咲きの花に、感動しています。バス停から、少し入った所に、昨年の春から、仏の座が咲き続けています。バスで出かける時は、必ず立ち寄って、花が咲いているか確かめています。

 今日の、孫娘の誕生会は、中止の危険もありました。一昨日、孫娘がインフルエンザに罹ってしまったのです。薬のお陰と気力で、孫娘は一応回復したので、中止にかなりませんでしたが、孫娘の父親が、昨晩、インフルエンザに罹ったらしく参加できなくなりました。また、長男の嫁と孫は、試験の準備のために、参加が出来なくなりました。結局、3人減って、8人での誕生会になりました。

 午後5時には、全員が我が家に到着しました。娘から電話があり、どうしたのかと思ったら、末の孫が眠ってしまったので、抱いて家に連れて行って欲しいとのことでした。末の孫は、大人しく抱かれていたのですが、玄関の所で、抱いているのが私だと分って、急に機嫌が悪くなりました。母親に抱いて欲しかったようです。末の孫の機嫌は治らないまま、何時ものように、孫娘の誕生日に、ビールで乾杯して、誕生会が始まりました。

 今日の食事は、しゃぶしゃぶにしました。料理する必要の無い、手抜きでした。所が、孫達は、初めての経験だったらしく、今日の主役の孫娘が、とても喜んでくれましたので、私も嬉しくなりました。末の孫は、箸でしゃぶしゃぶが出来ないので、トングでしゃぶしゃぶをやり、漸く機嫌が直りました。8時には、ハッピーバースデーを皆で歌って、誕生日プレゼントを渡しました。この時の、孫娘の、喜びに溢れた顔を見られるのが、大人にとっても最高の喜びです。人生の生甲斐とかなんとか、種々難しい話もありますが、子供が居て孫が居る、これに勝る物は、何も無いと思います。

 期せずして兄妹だけが集まったので、大人達は、自分達の子供時代の思い出話に花が咲きました。あっという間に時間が過ぎて、10時には長男が帰りましたが、残った3人で、午前1時過ぎまで、飲んで話しました。孫達は、大人は酒を飲んだら、自分達には構ってくれないと分っていますから、ゲームをしながら孫達だけで楽しんでいました。孫達も、1時過ぎまで付き合いました。

 

「此の土地の 人等が歩いた 昔道 冬の日の中 泡立草の花」

「病癒え 今日の主役の 孫娘 喜色満面 蝋燭吹き消す」

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2019年1月13日 (日)

2019年01月12日

2019年01月12日

 

 この所珍しい、曇空の朝でした。冬の曇り空は、身体も心も冷えてしまいそうです。

 日が出ないと、草木も輝きを失い、散歩する気も失せてしまいそうでした。しかし、散歩をしないと、テレビの前に座ってテレビを見るか、パソコンの前に座るかしかやることが無く、尻に苔が生えそうですから、矢張り散歩に出ました。目が悪くなって、本が読めないのが、今、一番残念なことです。

 午後3時に、我が家を出ました。我が家の近くの1軒屋に、毎年桜草を山ほど咲かせる婆さんの家があるのですが、その家では、元旦から桜草が咲いていました。だんだんと花の数が増えてきました。

その後、多摩川の左岸の土手に出て、関戸橋経由、聖蹟桜が丘まで歩きました。河原は、夏の間あれほど蔓延っていた、荻も、葛も、荒れ地瓜も枯れてしまい、正しく冬の光景でした。

 現在、古い方の関戸橋は、架け替え工事が始まりました。これと並行して、川底や護岸工事のためのコンクリートブロックの製造が、多摩川の砂利を利用して、河原で行われています。四谷橋から関戸橋までの河原は、無残な工事現場になってしまいました。川の生き物は、大丈夫なのでしょうか、心配になってきました。地球上で、人間が必要以上に増えてしまって、自然と共生することが難しくなってきました。今後は、自然を人間の生活に会わせて改造する必要性が、どんどん増えてきて、改造を拒む自然との闘いも増えていくでしょう。

 関戸橋を渡った大河原公園で、私の背丈を遥かに超えた、大きな梅の木が、5分咲き程度まで、花を咲かせていました。季節は真冬でも、年が明ければ新春と言いますが、本当に春は始まっているのですねー。梅の木の近くに、緑色の鳥がいましたので、目白かと思ったのですが、ジョウビタキ(常鶲のメスでした。久しぶりの対面でした。河原の工事の影響で、彼等が、折角渡って来ても、住む場所が無くなったのではないかと、これも気になりました。それでも、良いことばかりではありませんが、家から外に出れば、何か出会いが待っています。

 公園から、川崎街道に出て、聖蹟桜が丘駅への道を歩きました。この道の両側は、栃の木並木になっていますが、無残なまでに剪定されて、切られた枝の跡が至る所に残った姿で、並んでいました。剪定の後に出て来た葉が、枯れ葉にもならず気に残っているのが、健気でもあり、痛々しくもありました。

 聖蹟桜が丘で、明日の誕生会のための買い物をして、6時近くに我が家に戻りました。

 

「公園の 梅の大木 5分咲きに 梅の香伴い 春を告げおり」

「梅の香を 近くで楽しむ ジョウビタキ 梅の開花は 帰りを急かすや」

「都会にも 緑もたらす 栃並木 大きくさせない 人の我が儘」

 

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2019年1月12日 (土)

2019年01月11日

2019年01月11日

 

 今日も、富士が見える良い天気でした。空気の冷たさも、幾分弱まった気がしました。

 昨日から、日記をブログに上げるようにしましたが、今年の天皇陛下の退位と期を同じくして、日記をブログに上げるのを止めることにしました。日記そのものは、気が向いた時に書こうと思っています。日記をブログに掲載するようにしたのは、退職後のボケ防止と、家族や親戚に、私の現状を知らせるためでした。その点では、充分役にたったと思います。しかし、毎日書くことが、だんだん負担になってきました。それと、以前から、纏まった本を書きたいと思っていました。

 昨日、担当医からは、胃癌手術後の経過は良好で、安心度が確実に高まっていると言われました。しかし、私自身としては、体力と思考力の衰えを顕著に感じています。自分が、きちんとした何かを出来るのは、後、5,6年が限度だと思っています。そこで、老いての初心と言いますか、自分の考えを纏めて、本にする仕事を始めることにしたのです。終活といっても良いし、生涯仕事を続けると言っても良いと思っています。一般に言われている終活については、文書で残さなければならない物は別として、基本的には、娘に口頭で伝えたいと思っています。妻とは、以前から種々了解が出来ています。

 5年間で書きたいものは、「親父の時代」、「メキシコ領事日記」、「何言っているんですか先輩(右翼と左翼の考え、良識とは)」、「神無き人の世(宗教を無くせないか)」の4つです。どれも大きなテーマで、1つとして完成しないかも知れません。この年ですから、完成しない確率の方が、非常に高いと思いますが、一応努力をしてみたいと思っています。

 

今日は、年末から昨日までの日記をブログに出すとか、年末年始に作った和歌擬きを、手書きでノートに写す作業に手間取って、3時過ぎまで掛かってしまいました。

3時半頃から、聖蹟桜が丘に行って、孫娘の誕生日プレゼントを買いに行きました。娘に地球儀を買って欲しいと頼まれていたのです。しかし、文房具専門店に行ってみると、色々な種類の地球儀があって、どれにするか決めかねました。娘に電話して聞いたところ、「国が何処にあるかが良く分って、出来れば国に関する基本情報を答えてくれるような物が良い」とのことでした。店の人にそのことを伝えると、そのような地球儀がある場所に案内してくれて、使い方を説明してくれました。地球儀の下に、幾つか選択する情報の釦があり、例えば、人口のボタンを押して、タッチペンで地球儀の中国に触れると、地球儀が音声で、中国の人口を答えてくれるのです。孫娘は、小学3年生ですが、殆どの国の国旗と首都を諳んじています。娘が言う通り、孫娘には良い贈り物だと思いましたので、その地球儀を買いました。実は、1のスリーカード、今日が孫娘の誕生日なのですが、誕生会は、明後日我が家でやることになっています。また、家族全員が、我が家に集まります。

6時近くに、我が家に戻り、京王ストアで買ってきた、生牡蠣、生海鼠、焼鰺と海産物を中心にして、久し振りに日本酒で晩酌をしました。子供の頃は、生牡蠣も生海鼠も、自分では食べませんでしたが、何度も自分で取りに行きました。海鼠は、見た感じも手触りも気持ち悪かったのを憶えています。大人になり、酒を飲むようになってから、美味しさが分るようになりました。

夜は、聖蹟桜が丘を舞台としたスタジオジブリのアニメ「耳をすませば」を見ました。京王線や聖蹟桜が丘駅の周辺、桜が丘1丁目付近が、実に良く描かれていました。そして、5階建ての狭い団地の生活が、写実的に描かれていて、実に懐かしく感じました。私も、前菜と子供3人の5人で、団地生活をしたことがあります。病気の前妻を抱えた当時を思い出し、涙が出そうになりました。

 

「若き日の 我等の時代と 様変わり 便利が過ぎる 孫等の時代」

「便利さが 幸せ感を 生むならば 孫等の未来 夢多けれど」

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2019年1月11日 (金)

2019年01月10日

2019年01月10日

 

 朝は、快晴の空だったのですが、直ぐに西の空から雲が流れてきて、9時頃には空を覆って仕舞いました。それが、午後3時頃、西の空から青空が広がり始め、午後4時には、ほぼ快晴の空に戻りました。雲の流れの激しい1日でした。

 今日は、昨年末に行った血液検査と、CT検査に基づいて、担当の医師から所見を聞く日でした。

 午前9時近くに家を出て、9時40分に病院に着きました。医師の診療は10時からでした。何時もは、かなり待たされるのですが、今日は時間通りでした。血液検査も、CT検査も異常は何も検出されなかったそうです。酒を毎日飲んでいますので、心配していたのですが、芯からほっとしました。次の検査は6月で、今回と同じく血液検査とCT検査の他に、胃カメラ、大腸検査もすることになり、6月は検査漬になりそうです。医師の所見から、支払いまでの全てが、10時20分には、完了しました。こんなにスムースに事が進んだのは、初めてでした。

 時間が沢山出来たので、武蔵国分寺公園から、武蔵国分寺、小鷹の道、殿ヶ谷戸公園を歩きました。病院の横では、梅の花が咲いていました。長く雨が降らないのですが、小鷹の道の湧水からは、こんこんと水が湧き出ていました。殿ヶ谷戸公園は、私の他に二人しか入園者がおらず、ほぼ貸し切り状態でした。紅葉亭のベンチから、庭園を眺め、鹿脅しの音を聞きながら、コンビニ弁当ですが、優雅な昼食となりました。

 12時に、庭園を出て、折角国分寺に来たので、狭山湖に行くことにしました。この時期、狭山湖には、冠カイツブリの群れがやって来るのです。国分寺から西武線に乗り、西武遊園地に行き、レオライナーに乗換えて西武球場に1時近くにつきました。狭山湖への道筋にある、山口観音にお参りして、狭山湖には、1時半頃に着きました。何だか今日は、何もかもスムースでした。

 狭山湖には、予想通り冠カイツブリが来ていて、群れを成して泳いでいましたが、曇っていましたし、湖の中心の方だったので、望遠レンズを使っても、黒い粒のようにしか見えませんでした。近くでは、普通のカイツブリが、盛んに、水の中に潜っていました。帰り道は、狭山不動尊にお参りしました。西武球場に戻り、レオライナーのホームに入った頃には、空一面が、青空に変わりました。良い天気になったので、ついでに多摩湖にも行って、真鴨が来ているのを見る事が出来ました。

 国分寺に戻り、国立から我が家の近くの西友で買い物をして、我が家に戻りました。まだ薄明が残り、その薄明の上に、三日月が輝いていました。

 

「新春と 人は騒げど 真冬なり 人に合わせる 梅の花あり」

「葉先だけ 枯れずに残る 木のありて 空に蝶等が 群れ舞う如し」

「冬枯れて 葉も無く佇む 楓の木 枝に群れ舞う 去年の実の蝶」

「真冬日に 色を無くした 紅葉の葉 枝に残るは 侘しくもあり」

「冬空に 向いて凜々しい 石楠花の 蕾が知らせる 春の近さを」

「冬日照り 草木も喘ぐ 武蔵野に 神の助けの 崖下湧水」

「去年の実と 枯れ葉の中の 蝋梅の花 過越し日々と 新たな息吹と」

「霜枯れて はぎの姿の 今は無く 骨組みだけの 萩のトンネル」

「何時見ても 花芽を点ける 富貴草 君の休みは 何時でありしか」

「冬支度 熊笹刈られ 小笹なる 紅葉の落ち葉と 仲良し小好し」

「落ち松葉 掻き分け泳ぐ 池の鯉 水面に揺らぐ 雪吊りの松」

「時流れ 冬来たりなば 君恋し 王女の姿 冠カイツブリ」

「風も無く 鏡のような 狭山湖の 水面に波紋 潜るカイツブリ」

「雲切れて 西日の注ぐ 多摩湖かな 煌めく水面 カイツブリの行く」

「宵迫り 薄明残る 西空に 行方不明の 三日月戻る」

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2019年01月09日

2019年01月09日

 

 年末年始の行動の概略を纏めてみました。

 

12月29日

 3日連続、今週4回目のダイヤモンド富士見学に、多摩川の上流、昭島運動公園に出かけました。お陰で、ほぼ完璧なダイヤモンド富士を見ました。残照の美しさに心を奪われました。

 

「年の瀬の 冬日を浴びる 熟し柿 ツグミにとっても 最後の馳走」

「富士の嶺に 夕日の落ちる 華麗さに 三日続けて そを眺めけり」

 

 

12月30日

 新年、3日は、我が家で新年会になりましたので、午前中、近くの西友で、お節料理と、その材料を買いました。殆どは出来上がりの物ですが、キンピラと卵焼きは、私が作ることになっています。黒豆の煮物は、次男が作ってくれることになりました。午後は、クリスマス飾りを片付け、大掃除をしました。1年1度の窓拭きもやり、初めて、トイレや洗面所の造花の埃取りもやりました。何となく、新年を迎える準備が出来ました。

 

 

12月31日

 大晦日になりました。午前中、早めに家を出て、明日の御来光を見る場所を下見に行きました。「よこやまの道」の東の端になる「見晴らしの丘」が、一番良い場所と思われました。千葉から横浜の方まで見渡せますし、反対側は、武蔵野を取り囲む山々を見る事が出来ました。丹沢の上に、白い富士の嶺も見る事が出来ました。午後は、新年の飾り付けをし、仏壇と日本間に花を生け、煮物ときんぴらを作り、新年を迎える準備が整いました。夜は次男と一緒に、酒を飲みながら紅白歌合戦を見ました。新年になる前に、次男が年越し蕎麦を作ってくれました。

 

「冬の日に 赤く頬染め 我を見る 恥じらう乙女 おたふく南天」

「君もまた 何故顔を 赤らめる 乙女が気になる 柊南天」

「大晦日 寒波の中の 日溜まりに サファイア色の イヌフグリの花」

「大晦日 刈られた土手に 名も知らぬ 我のためだけ 白花一輪」

「我もまた ここに居るよと 声のする 土手の片隅 蒲公英の花」

 

01月01日

 2019年 平成301年 元日となりました。昨晩は、1時過ぎまで、次男と酒を飲みながら、テレビを見たのですが、4時半に起きて、5時から、寒さに身を縮めながら、多摩川の土手を歩きました。未だ暗い空に、三日月と明けの明星(火星かも)が とても明るく輝いていました。聖蹟桜が丘から、何時もはバスで行く道を、歩いて「みはらしの丘」に行き、6時40分に着きました。バスもないのに、大勢の人が初日の出を見に集まっていました。残念なことに、日の出の方向にだけ雲がありました。7時近くだったと思いますが、雲と地表の間の小さな隙間から、初日の出を見ました。太陽が、完全に雲の上に姿を現したのは、7時20分頃でした。近くの八坂神社に初詣でをして、動き始めたバスに乗って、聖蹟桜が丘に戻りました。元日から、コンビニが営業していたので、サンドイッチとコーヒーを買って、バスを待ちながら、バス停のベンチで、現代版お節料理の朝食としました。

 我が家には、9時過ぎに戻りました。11時頃、郵便箱に年賀状が束になって届いていました。年賀状を見ると、年賀状を出していない9人から、年賀状が届きました。その内8人に年賀状を出しました。

 昼食は、1時過ぎから、次男とお節料理を食べながら、昼間から酒を飲みました。テレビも点けましたが、点いていると言うだけで、次男も私も、殆ど居眠りをしていました。

 夜もテレビ以外する事が無く、腹も減らないので、軽く摘まみを友にして酒を飲み、新年の最初の1日が終わりました。

 

「新年の 最初の挨拶 夜明け前 赤き火星と 連れ添う三日月」

「多摩川の 暗き水面に 映りたる 空の仲良し 火星と三日月」

「初日の出 見たい気持は 皆同じ 人で埋まりし みはらしの丘」

「しののめの 空に連なる ビルの影 スカイツリーも 仲間となりぬ」

「日の出ずる 東の空に 雲のあり 雲の切れ間の 初日の出かな」

「明けぬれば 丹沢の上 白き富士 武相の国に 朝の日届く」

「初日の出 拝みし後は 腹の空き 今年最初の コンビニ朝食」

「朝湯して 息子と共に 昼酒を 夜は二人で ウトウト夜寝」

 

01月02日

 今日も素晴らしい天気でした。午前中は、恒例の箱根駅伝を見て、午後、多摩川の右岸を歩き、下河原緑道に入って、高安寺に初詣でに行きました。山門には、5色の幕が張られ、吹き流しも風になびいていて、正月気分が出ていました。何時もは閉まっている山門の2階が開かれ、正月飾りの鏡餅などがみえました。以前は、此処に昇ることが出来たそうです。また、各月18日に1回しか開かない、観音堂も開いていました。実を言うと観音堂の中を見るのも、山門の2階を見るのも初めてでした。高安寺には、墓が付属していますが、殆どの墓に新しい花が添えられていました。先祖に対する新年の挨拶なのでしょう。

 直ぐ近くの大国魂神社にも、初詣でに行きました。高安寺と違って、凄まじい数の初詣客でした。府中駅の近くまで、列が出来ていましたので、脇の方に回り、遠くから参拝しました。例年通りとなりました。

 府中駅の近くの魚屋に寄って、刺身を買い、夜はまたしても次男と、酒盛りになりました。

 

「紅葉と 思えば赤き 新芽かな 年が明ければ 新春なれども」

「去年の実の 未だに枝に 残りける 秋の名残の 馬刀葉椎かな」

「新春の 門出祝うや 菜の花の 道行く我に 手を振り挨拶」

「年明けて 盛りを過ぎし 山茶花の おしべが残る 花の跡かな」

「丸柿の 隣で色づく とんご柿 何れも鳥等の 馳走となりき」

「人々を 長きに亘って 楽しませ 道を飾った アベリアの花」  

「高安寺 初詣での 道すがら 我が目疑う 草藤の花」

「山門に 門松並ぶ 高安寺 2階の部屋に 鏡餅見ゆ」

「新年を 先祖と共に 迎えたし どこの墓にも 新しき花」

「冬の日に カタカタカタと 塔婆鳴り みんな揃って 新年祝う」

「冬最中 街道筋の 庭先に 新年祝うや 亜米利加風露」

 

 

01月03日

 

 快晴の朝でした。年末から今日まで、素晴らしい日が続いています。午前中、お節料理を温め直すなどして、今日の新年会の準備をしました。

 長男家族、娘家族も思ったより早く着き、午後4時には、全員揃いました。形ばかりの屠蘇酒を飲み、次はビールで、新年を祝って乾杯し、いきなり酒盛りとなりました。ビールの後は日本酒となり、延々と8時過ぎまで続きました。それから、カラオケとなり、10時近くまで唄いましたが、流石に長男家族は、帰宅しなければならないので、渋々帰って行きました。その後、私は、簡単に片付けをして寝ましたが、娘と次男は、日付が変わっても、唄い続けていました。孫達は、上の孫と孫娘と長男の所の孫が、1曲唄いました。娘の所の孫はひたすらゲームで時間を潰し、大学生になった長男の所の孫は、少しではありますが、大人に付き合いました。

 長男は、仕事の関係で外国暮らしが多く、漸く昨年から、色んな機会に、皆で集まれるようになりました。

 

「三世代 命の鎖 目の当たり 家族集まり 新年会かな」

 

01月04日

 宴に付き合ったので、孫達も、今日は朝寝坊でした。上の孫が一番早く、9時近くには起きていました。9時半頃には、孫娘も起きて来ました。その頃から、私は昨晩の片付けを始め、10時過ぎには、片付けを終えました。それから雑炊を作り始めると、漸く末の孫や、娘夫婦も起きて来ました。お餅を焼いて、11時近くから朝食になりました。雑炊は、味が薄かったようです。また、雑炊の餅1つでは足りなかったらしく、次男の作り置きの豚肉の炒め物で、全員ご飯を食べました。

 暮れから、新潟、熊谷と親戚回りをしてきた孫達は、随分疲れた様子なので、今日は早く帰ることになり、12時半頃には、帰って行きました。

 午後1時半頃から、調布飛行場の近くにある、武蔵野の森公園の修景池、野川公園、武蔵野公園を歩いてきました。

修景池には、例年のようにヒドリガモの群れが、今年も来ていました。来ているメンバーは、世代が変わったのかも知れませんが、見ている限りは、去年と同じ光景に見えました。地球と命のお陰で、変わり行くもの、変わらぬものが、お互い協調し、千変万化の森羅万象となり、それを感じることが出来る自分の今を、本当に有難く思えるようになりました。一片の雲、一滴の雫、1枚の葉等、ありとあらゆる物に心が動くようになりました。人生の終末が近くなったからでしょう。

 

「お雑煮を 食べた孫等が 共に言う お味噌汁と ご飯が食べたい」

「孫の歳 我も正月 嫌ってた 何時もと違う 大人の顔付き」

「バス停の 横に置かれた 植木鉢 今満開の 車輪梅かな」

「青空に 黄色く映える 栴檀の実 鳥等の好みに 会わないらしい」

「今年また 君等と会える 嬉しさよ 修景池の ヒドリガモ達」

「丘の上 全員揃って 散歩する ヒドリガモ等の ヨチヨチ歩き」

「鴨達の 散歩目がけて 餓鬼走る すわ一大事 池へ退散」

「列を成し 溢れんばかりの 実をつけて 黒金黐の 赤き壁かな」

「木々達の 生き様語る 冬木立 緑の夏より 心打つなり」

「年明けて 蕾守りし 譲り葉の 残り少なし 素心蝋梅」

「空を背に 冬の柳の 乱れ髪 心を乱す 台風の傷」

「背の高き 夫婦気取りの 百合の木の 頭を照らす 冬の日の入り」

 

01月05日

 午前中久し振りに日記を書きました。次男は、今日から仕事が始まり、1時半頃には、出かけました。

 私は、次男を送り出した後、2時近くから、昭和記念公園に行って来ました。途中、国立駅のホームから、富士の方を見ましたが、霞が強いのと雲が邪魔をして、富士を見ることは出来ませんでした。

 午後、3時近くには、昭和記念公園に着きました。この公園の池にも、例年通り、オナガガモとカイツブリが来ていました。キンクロハジロも来るはずですが、今年はまだでした。池の端で日向ぼっこをしていたり、仲間と泳いだり、思い思いに楽しんでいました。かなり傾いた冬の日を浴びて、ネムノキの豆の鞘が、花のようでしたし、イイギリは木全体が燃えているようでした。スダジイの下には、椎の実が絨毯のように地面を埋めていました。誰も、椎の実に興味を持たないようです。短時間で、ビニール袋半分ほど拾いました。こもれび日の丘は、春の花の準備のため、白いビニールシートで覆われていて、雪景色のようでした。

 4時半が、閉園の時間ですので、10分前に西立川駅の方に出ました。夕日が、ビルとビルの間に沈みかけていました。狭い隙間の中に、富士も見えました。国立駅のホームから富士を見ると、残照を背にした富士がくっきりと見えました。2時間ほど前の霞も雲も、すっかり取れていました。駅を出て、国立駅から右斜め方向の道へ行くと、道路の街路灯の奥に、夕焼けの中の富士が見えました。頭の中では、電線を消すことが出来るのですが、写真には、電線がばっちり写っていました。早く日本中から、地上の電線を無くして欲しいと、強く思いました。

 

「合歓木の 枯れた豆鞘 花のよう 間近に目にする 夕日の手品」

「夕日受け 火炎の如き 飯桐の 赤き房の実 鵯つつく」

「木下を 焦げ茶に変えし 椎の実を 心踊らせ 拾い集める」

「子供等も 椎の実などに 興味なく 我に残せり 秋の実りを」 

「木漏れ日に 朱く染まりし 雪の丘 人が作りし 雪景色かな」

「林抜け 突如現る 雪景色 春への準備 こもれびの丘」

「真横から 夕日の照明 身に受けて 花片煌めく 素心蝋梅」

「花のまま 干し花となり 咲き続く 冬の日の中 糊空木かな」

「立川の ビルの谷間に 日の沈む 夕日見下ろす 富士も居るなり」

「赤霞む 富士の背中は 茜色 武蔵の国の 夕焼けの空」

「街路灯 点り始めた 宵の口 街路の奥に 夕焼けの富士」

「詩心 無残に砕く 電線の 富士を横切り 道路を渡る」 

 

01月06日

 今日は、暮れから続いていた晴天が一段落して、雲の多い朝でした。今日は、部分日食が見られるとのことでしたが、残念ながら、我が家の近くは、その時間雲が多く、太陽が見えませんでした。ニュースに拠れば、多くの地域で日食が見られたようです。

 今日も午前中は、日記を書いて、午後から近場を散歩しました。天気が良くないと散歩に対する気持が萎えてしまいます。帰りに、近くの西友によって、貝柱とアサリを買いました。5時頃、家に戻って、アサリバター、貝柱と茸のアヒージョを作って、ワインを楽しみました。この料理は、今年初めてです。

 

01月07日

 

 僅か1日曇っただけで、ほぼ快晴の朝となり、朝一番に富士と対面することが出来ました。

 今日は、二つの新年会がありました。最初の新年会は、新橋烏森口のニュー新橋ビルの地下にある福盈門という中華料理屋でした。此のビルの地下は、戦後を思わせる雰囲気があり、小さな店が並んでいました。此の新年会に集まったのは、全員70歳以上の老人達で、一度はメキシコでの勤務経験のある、同じ大学の同窓生でした。その頃の海外勤務者には、日本の経済は、我々が背負って立つのだとの気概に溢れていました。集まったのは、13人でしたが、皆とても元気でした。誰もが、メキシコが好きで、メキシコのことが忘れられず、思い出話に花が咲きました。

 メキシコ同窓会の新年会は、3時過ぎに終り、次の山の仲間の新年会は、5時から(本当は4時半から)だったので、上野公園に行き、大道芸を見て、上野東照宮で、寒牡丹を見ました。なんと、上野東照宮は、初めてでした。更に、五條天神、花園稲荷神社にお参りして、不忍池に出ました。池の中にある、弁天堂にもお参りし、ボートの池の脇を通って、池の端に出る道を歩いたら、餌撒きをする爺さんが居て、真鴨、尾長鴨、小鴨、金黒羽白、鷭、百合鴎、それに夥しい数の雀が集まっていました。爺さんが、外国人の女性の掌に、餌を載せると、雀が何羽も掌に乗って、餌を啄みました。外国人の女性は、初めての経験だったらしく、感動していました。

 不忍池から、御徒町方面に歩き、2番目の山の仲間の新年会が行われる、越後屋に5時少し前に着きました。私の勘違いで、新年会は4時半から始まっており、宴酣でした。私も、昼間の酒が抜けきっておらず、直ぐに宴に参加できました。此処も、70歳以上の老人の集まりでした。30人以上集まっていたと思います。此処でも、思い出話に花が咲きました。誰もが、想い出を語れる場所に飢えているようです。ある程度、想い出を共有する人でないと、思い出話は出来ませんからね。

 8時頃に、新年会は終わり、数人で30分ほど、残った酒を飲みきって、新年会の1日が終わりました。運良く最終バスに乗れ、11時には、我が家に戻ることが出来ました。

 今日、2つ良い知らせがありました。1つは、私が世話になっている学校の理事長が、大動脈剥離から蘇り、大晦日にICUから一般病棟に戻ったそうです。意識もしっかりしているそうです。短き老後で、奇跡的復活を経験すれば、きっと素晴らしい老後になるでしょう。2つ目は、ほぼ8年振りに、大学の寮で同室だった友と話すことが出来ました。近い内に会うことを約束しました。

 

 

「我が国の 海外進出 背負ったと 自負する戦士の 思い出話」

「慣れぬ地で 苦労の日々も 多かりき 苦労あるから 成功もあり」

「友も皆 人生終末 近づきて 語り尽くせぬ 思い出の山」

「孫達に 昔話を してみても 役にもたたず 面白くも無し」

「藁葺きの 小さき庵に 寒牡丹 上野の森の 東照宮かな」

「渡り鳥 鴎に雀 集まりて 餌撒き爺に 餌撒き急かす」

「掌に 餌を乗せれば 雀等が 恐れもせずに 餌を啄む」

「思い出を 未だに作る 山中間 明日を話せる 少なき仲間」

「会う度に 良き兆しが 見えてくる 病と闘う 友も来ており」

「蕎麦一本 喉を通すも 命懸け 良くぞ来たれり 仲間の宴に」

「何時の日か 酒飲む時を 夢見てる 友の隣で 酒煽る我」

 

01月08日

 

 北国では、大雪警報が出そうなくらい雪が降っているそうですが、関東は今日も晴天でした。

 昨日で松の内が終わり、正月飾りを片付けました。本来なら、正月飾りは使い回しをせず、どんど焼きで焼くなり、処分するなりするものだそうですが、我が家は、毎年同じものを使っています。日本間と仏壇の花は、まだまだ元気だったので、15日まで飾ることにしました。

 今日の夜は、妻との新年会でした。4時15分に家を出て、5時40分頃に神楽坂に着きました。今日、食事をする馬肉料理店の前で、妻と落合いました。店の開店時間が6時だったので、近くの北国の食料品店に寄り、お年玉代わりに、にんにく七味と「ぎばさ」(青森の海藻)を買って貰いました。隣のたばこ屋で、チェ・ゲバラのタバコが売っているのを見て、妻がどうしても買いたいと言いました。共産主義者は、あまり好きでは無い妻が、ゲバラだけは好きなのだそうです。

 6時から、1番目の客として、店に入りました。若い夫婦(だと思う)がやっている店で、カウンター形式の店でした。料理の名前から料理を連想できないので、旦那に手伝って貰いながら、料理を頼みました。最初の料理を奥さんが運ぶ時、椅子に躓いて、入れ物を割り、料理を斑撒いてしまいました。奥さんは、大声で誤りましたが、これで一気に場が和みました。馬肉の刺身の盛り合わせとか、馬肉のカルパッチョとかを頼み、美味しくワインを頂きました。最近、生肉を食べられるのは、馬肉くらいしか無いのでは無いでしょうか。

 馬肉料理店を8時頃に出て、何時ものバールに行き、何時ものように妻はコーヒー、私はワインで色々話をしました。お互い、人の名前(小沢一郎)が出て来ず、大変でしたが、ゲバラのお陰で、キューバ革命とか、日本の民主党政権の話とか、日本の将来とか、真面目な話も沢山しました。お正月のせいか、妻は非常に上機嫌で、今日は一度も叱られずに済みました。

 

「7日過ぎ 七草がゆも 食べないで 終り迎える 松の内かな」

「妻からの お年玉をば 受け取りぬ 一味違う 男になれと」

「我妻と 馬肉料理で 新年会 店の夫婦が 羨んでいる」

「老い先の 生甲斐探しは 難しき 妻とほんのり 生きるも生甲斐」

 

01月09日

 

 今日も、素晴らしい天気でした。東京は、3週間近く、雨が降っていないそうです。

 今日は、イタリア時代の人達との新年会が午後6時からあるので、4時頃まで、録画してあった、「ダビンチコード」を見て時間を潰しました。カトリックを含め、キリスト教の歴史が良く現れていました。ローマ法王庁が、多くの闇を作っていたように描かれていますが、同感です。

 午後4時頃に家を出て、都心に向かいました。聖蹟桜が丘の駅のホームから、ビルの谷間の小さな隙間に、夕焼けの中の富士を見ました。初めての経験でした。聖蹟桜が丘駅のホームからは、富士は見えないものと決めてかかっていたようです。確かに、種々の条件が合わないと、見えないのだと思います。

 東京駅に、5時20分頃に着きました。東京駅から、大手町にかけての高層ビル街は、高層ビルの窓の灯が、天に届かんばかりに並び、人工美の極みのようでした。新年会の場所の検討は、そこそこついていたのですが、街行く人に確かめながら、5時40分には着きました。私が一番でした。6時近くに一気に全員が集まりました。全員で6人集まったのですが、一人を除いて、イタリア時代を一緒に過ごした人は居ませんでした。それでも、ワインをたっぷり飲み、そこそこ楽しい夜を過ごしました。

 

「聖蹟の 駅から見える 赤き富士 ビルの隙間に ちょいと顔出す」

「丸の内 高層ビル街 宵の口 輝く窓の灯 天まで届く」  

 

 

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