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2018年5月

2018年5月31日 (木)

2018年05月30日

2018年05月30日

 

 今日は、山の仲間と神奈川県南足柄にある、アサヒビール工場に行って来ました。

 9時45分に、新松田に集合でした。遠くから参加するので、遅れてはいけないと余裕を持って出かけたら、40分前に着きました。まだ誰も来ていなかったので、駅前の喫茶店に入って、コーヒーを飲みながら、仲間が来るのを待ちました。9時半位から、少しずつ仲間が集まり始めました。集合時間の少し前に、皆の前に姿を現すと、「御殿場線で来たの?」と不思議がっていました。今日の参加者は、13名でした。

 今日は、山登りもハイキングも無く、ただただビール工場を見学して、ビールを飲むのが目的でした。10時発のビール工場行きのバスに乗り込みました。バスは、我々の仲間で貸し切り状態でした。バスの窓から見える山や谷は、この仲間で、登り尽くし、歩き尽くしました。実は、ビール工場もハイキングの後で、仲間と立ち寄って、山程ビールを飲んだことがあるのです。

 10時半には、ビール工場に着きました。工場見学は、11時からなので、少し工場の周囲を散策しました。この工場は、大きな公園の一画に工場があるようになっており、草花や虫達、周囲の山々を見ながら散策出来ました。今は、新緑がとても美しい季節でした。この前来た時も、同じような季節だったと思います。並んだホタルブクロを見て、思い出しました。

 今日は、3年振り位になると思いますが、一人の仲間の女性がご主人と共に参加しました。彼女は、3年前、くも膜下出血で倒れ、3ヶ月近く意識を無くしたままだったと聞いています。その後意識を回復し、リハビリを繰り返して、今日の参加になりました。今日参加してくれて、本当に良かったと思いました。これからの人生を出来るだけ楽しんで欲しいと思いました。そして、人間の生きる力の不思議さを見たような気がしました。彼女は、工場見学には付き合いませんでしたが、その後の食事会には付き合いました。

 工場見学は、前回と同じで、興味は無いのですが、その後の工場の敷地内での食事会をするには、工場見学が必要条件だったのです。工場見学が終わって、直ぐに食事会が始まりました。焼き肉料理でした。隣に座った女性は、オーストリア人ですが、焼き肉の手さばきは、日本人以上で、焼き奉行をやってくれました。これまでの、山行の思い出話をしながら、楽しい昼食会になりました。

 昼食会が終わって、新松田に戻り、何時ものように少人数で、2次会となりました。ビール工場では、当然のことながらビールしか飲めなかったので、欲求不満になった人がいたのです。大皿に刺身の盛り合わせを頼んで、日本酒での酒盛りになりました。酒は余り飲みませんが、リーダー格の女性も参加しました。色々のアイデアを出しながら、次の山行の場所を決めました。矢張り、山の仲間ですから、山行無しの酒は、ちょっと物足りなかったようです。次会は、大菩薩峠に挑戦しようということになりました。

 2次会が終わり、小田急線で皆帰途につき、一人去り二人去りして、登戸では、私が皆と別れました。我が家に8時半頃に着きました。趣味の仲間を持つ幸せを感じた1日でした。

 昨日書くのを忘れましたが、履歴書を出していた、千葉の方の学校の理事長から昨日連絡があり、26日の理事会で、私の監事就任が承認されたとのことでした。来月の理事会から、出席することになりました。

 

「仲間皆 同じように 歳を取り 見栄を張らずに 話が出来る」

「誰も皆 生き越し道は 異なれど 山では同じ 道を歩けり」

「老いの身で 同じ思い出 分かち持ち 会えば綻ぶ 思い出の花」

 

「意思強く 黄泉国から 戻り来た ぷっくら肥った 白髪天女」

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2018年05月29日

2018年05月29日

 

 今日は、午後3時頃まで、溜まった日記を書くことに終始しました。パソコン前に長く座っていたので、腰は痛くなるし、目は霞んで来ました。

 3時半頃から、浅川の方を回って帰って来る、標準的なコースを歩いてきました。

 廊下を歩いて、エレベーターの前に行くと、燕の巣から、小さな黒い頭が3つ見えました。燕の雛が孵ったようです。これから、燕の親による、必死の子育てが始まると思います。燕の巣を見て、何時も思うのですが、鳥の巣とは、卵を産み、孵し、子育てだけの為に作られるものなのですね。成鳥が暮らす所では無いのですね。成鳥の暮らしの場は、木の上なのでしょう。逆に、子育てが成鳥の生活そのものなのかも知れません。子育てが終わった成鳥は、長い老後の生活あるのでしょうか、鳥によって違うのかも知れませんが、少なくとも燕には、長い老後の生活があるとは思えません。本来、人間の人生も同じだったのかも知れませんね。

 家の近くのジューンベリーの実が、6月を前に、私以外に食べて貰える人も無く、殆どがコンクリートとアスファルトの地面に落ちてしまいました。これでは、子孫を残すことも出来ないでしょう。人間の生活の一部として生きる樹木の憐れさを感じました。

 山法師の花の時期は、盛りを過ぎました。所々に、まだ花を咲かせている木があります。この春、山法師の5弁の花を探し続けましたが、まだ出会ったことがありません。突然変異の少ない木ですねー。

 四谷橋を渡りながら、川鵜の塒となっている送電線を見ましたが、1羽の川鵜も見かけませんでした。毎年、冬の時期は塒を替えるのですが、既に暖かくなってきましたし、そろそろ戻って来る時期だと思うのですが、どうしたのでしょうか、何か異変が起きたのではないかと心配です。

 浅川の土手下の道は、オオキンケイギクの花畑が続いていましたが、この花の時期も終わりが近づいていました。花よりも花の跡の方が、多くなっていました。これもまた、面白い光景ではありました。後ろでは、勢いを増した葛が、土手下の淵を埋め、木にも這い上っていました。夏草茂る季節になりました。

 新井橋を渡って浅川を超え、万願寺の公園から、石田大橋に差し掛かりました。石田大橋の日野市側では、公園の造成工事が、長いこと行われていて、今月で工事は完了するはずですが、今日見た感じでは、後半月は掛かりそうな感じがしました。整地も完全ではありませんでしたし、植栽が揃っていませんでした。

 今日歩いていて気がついたのですが、我が家の近くの多摩川や浅川の、土手や土手下の道に、全く紫陽花が無いのです。住宅地の家の庭では、雨の時期を前にして、大きな花を咲かせているのにです。紫陽花の生育環境の問題もあるのでしょうが、年に3回程行われる、土手や土手下で行われる草刈りの邪魔になるからではないかと思っています。

 6時には、我が家に戻り、テレビを付けると、日大のアメフトの問題がまだ続いていました。監督やコーチの除名、大学リーグ戦への一定期間の出場停止などの処分が行われるようです。しかし、理事長を頂点とする日大の経営陣には、何の影響も無いようです。日大のスポーツクラブの暴力団的体質は、経営陣の体質がもたらしたものなのにです。これでは、何等本質的解決にはならないでしょう。

 

「マンションの 壁に出来たる 燕の巣 小さな頭 三つ出ている」

「ジューンベリー 六月入りを 待たずして 道路を埋める 赤き実哀し」

「川鵜達 塒となりし 電線に 夏は来るのに 未だ戻らぬ」

 

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2018年5月29日 (火)

2018年05月28日

2018年05月28日

 

 今日は、ゆっくり過ごすつもりで居たのですが、娘から電話があり、孫達が運動会の振替休日なので、小金井公園に遊びに行くから、付き合って欲しいと言われました。勿論、付き合うことにしました。

 10時15分頃に、娘達がやって来ました。一緒に車に乗って、10時45分くらいには、小金井公園に着きました。小金井公園には、何度も来たことがありますが、今日は、私が何時も行く所とは違って、子供の遊び場へ行きました。

 最初は、色々な遊具が置いてあり、小さな丘全体が、色んな形の滑り台になっている、「こどもの広場」に行きました。そこには、帽子を被った小さな幼稚園生が、沢山遊んでいました。孫達も、最初は色々な遊具を使って遊んでいましたが、少し物足りなかったようなので、隣の「ふわふわジャンプ」へ移りました。ビニールで作られた、三つの丘でジャンプをするだけなのですが、孫達は気に入ったようでした。3人揃って、1時間近く、ジャンプを繰り返しました。高く飛んだり、転んだりしながら、汗だくになっていました。私は、孫達と遊ぶ時は、写真係になるのですが、今日は、娘が写真係をやっていましたので、ただ、孫達の遊ぶ姿を見ているだけで良く、3日間寝不足だったので助かりました。

 次に、「そりのゲレンデ」に移りました。毛足の長い人工芝のようなもので、ゲレンデが作られていて、そこをプラスティックのそりで滑るのです。上の孫と孫娘は、一人で何の問題も無く滑りましたが、末の孫は怖いらしく、最初は、娘と滑りました。ゲレンデ中に、末の孫の悲鳴が鳴り響きました。次は、孫娘と一緒に滑りましたが、同じように悲鳴を上げました。皆からおだてられて、3回目に一人で滑りました。問題なく滑ったのですが、悲鳴の大きさは、極限に達していました。その後、決して一人で滑ることは無く、兄さんか姉さんか、どちらか一方と一緒に滑りました。余程怖かったのだろうと思います。

 1時近くになり、お腹も空いてきたので、府中の焼き肉食べ放題の「焼き肉キング」へ行きました。かなりお腹が空いていたのでしょう。3人とも、凄まじい食べっぷりでした。何度肉をお替りしたか、分ら無い程でした。ご飯もお替りしました。何時もは、これくらい一緒に居ると、何回か兄弟喧嘩をするのですが、今日は、1度も喧嘩することなく、遊びも食事も大満足だったようです。最近は、ジージが居ると、遠慮しないで、好きなだけ食べて良いことが分ったらしく、孫達が、食事を楽しんでくれるので、私としても嬉しいです。孫達には、そう遠くない時期に、私との別れの時が来ると思いますが、私の記憶もちゃんと残っているでしょうし、ジージとの別れが、孫達を成長させると思います。変える事の出来ない何かを知るのです。私も、祖母との別れによって、そのことを知りました。

 食事が終わって、4時頃我が家に送って貰って、孫達と別れました。一風呂浴びて、今日書こうと思っていた3日分の日記を書き始めました。3日分、全部書き上げる積もりでいたのですが、3日間の酒と寝不足、今日の昼間、孫達と食事をした時、生ビールを2杯飲んだ為、まったく捗らず、7時近く迄掛かって、漸く1日分を書きました。筆は進まないと言うことは、こういう事を言うのですねー。残りの分は、明日書くことにして、晩酌に切り替えました。

 明日も朝早くから、予定が有りますので、29日と30日の日記は、。31日に書きます

 

「孫達の 瞼の奥に 焼き付きし ジージの思い出 増やしておこう」

 

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2018年05月27日

2018年05月27日

 

 今日は、大学のOB会が主催する大学祭の日でした。この日に、我がクラブも、OB総会を開くので、昨日と同じく、今日も都心の大学へ行って来ました。

 クラブのOB総会は、午後2時からでしたが、12時半には、大学に着いて、大学祭を楽しみました。既にキャンパスは、OBで1杯になっていました。キャンパスの中を歩くと、あちこちで顔見知りの人と出会いました。これが、今日の大学祭の一番良い所だと思います。OB同志が旧交を温め、愛校心を思い出し、自分の人生を振り返り、大学の未来に思いを馳せる、これが、大学祭の目的なのです。

 キャンパスの真ん中には舞台が設けられていて、現役やOBのグループが、様々な演技を披露します。私が、舞台の前に行った時は、女性によるフラメンコが披露されていました。長いことスペイン語圏の国で仕事をしていましたので、何度フラメンコを見たか分りません。一流のフラメンコダンサーと記念撮影をしたこともあります。色んな思い出が湧き上がりました。舞台の前には教授館があり、教授館の横には、クルトルハイムという、戦火を免れた明治時代の建物があります。昔は、大島館とも言っていたように思います。この建物の庭園は、通常は入れないのですが、今日は特別に入場が許されていましたので、庭園を散策しました。庭園の中の広場では、OBのための野外バーが作られており、静かな散策という訳には行きませんでした。

 午後2時から、総会なのか懇親会なのか分らないような、クラブのOB総会となりました。4時過ぎにOB総会を終えて、全員でキャンパスの中央に集まりました。4時半頃から、大学の理事長、学長、OB会長の閉会の挨拶が始まりました。これが終わると、我がクラブの現役によるグランフィナーレが始まりました。精一杯の声で現役を応援し、最後の最後に、あらん限りの声を張り上げて、校歌を歌いました。私と一緒にOB会の仕事をしている、私の8歳位年下の他のクラブのOBも、私に負けじと声を張り上げて、校歌を歌いました。感極まったのか、涙を流していました。

 5時から、クラブのOBの懇親会になりました。現役の幹部も参加してくれて、30人を越える大人数になりました。とても和やかな、楽しい懇親会になりました。色々難しい時期もありましたが、後輩達が、よくぞクラブの活動を引き継いでくれました。我がクラブも、再来年には創部60周年を迎えます。「継続は力なり」とも言います。現在の部員の数は、90人を超えるようになりました。そして、今日のような楽しい懇親会が出来るようになりました。有難いことだとつくづく思いました。

 懇親会は、7時過ぎには終わりましたが、気の合ったOBで、2次会が始まり、、9時過ぎまで飲みました。今日も、長く楽しい一日でした。

 

「青春の 思い出詰まった キャンパスで 友等と手繰る 思い出の糸」

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2018年05月26日

2018年05月26日

 

 今日は、朝早くから、孫達の運動会に行きました。

 6時半には起きて、急いで朝食を済ませ、洗面をして着替えて、7時半には家を出て、8時40分には、娘の家に着きました。小学生の孫達は、既に学校へ行っていましたが、末の孫は起きたばかりでした。運動会の弁当作りも、まだ終わっていませんでした。運動会は、9時から始まるというのに、娘の家を出たのは、8時55分でした。しかし、学校は近いので、9時5分には着きました。

 実は、上の孫は応援団で、開会式が終わった最初に、白組と紅組の応援団による、エール交換が行われる事になっていました。そのエール交換には、充分間に合いました。孫は赤組ですが、先ずは、赤白両方とも立派なエール交換が行われ、その後は、応援合戦となりました。

 応援団による応援の後、プログラムが始まり、孫娘の徒競走で、大声で名前を呼んで応援すると、私が分ったようで、とても嬉しそうでした。応援団の上の孫は、自分が出ない時は、終始応援しているので、非常に疲れた様子でした。それでも、私の姿が分ったらしく、手にしている扇で、「来ているのは分っているよ」と、合図を送ってきました。まだ、幼稚園の末の孫は、自分がやることが無いので、つまらない様子でしたが、色々やることを見つけて、一人で遊んでいました。

 午後2時から、大学のクラブの新入部員歓迎会があるので、孫達の運動会は、午前中最後から2番目、上の孫が出る騎馬戦を見て、終わりにしました。騎馬戦が終わった時は、11時45分になっていました。毎年、運動会を見ていますが、徒競走、クラス対抗リレー、騎馬戦などの主要な種目は、私が小さい頃と変わっていません。とても懐かしさを感じました。最近の学校の中には、順位を争わせない所もあるようですが、孫達の学校は、昔と同じように順位を争います。どちらが良いのか、簡単に決めつけることは出来ません。他に押しつけるので無ければ、色々な遣り方があっても良いと思います。戦争無き社会の実現の為に、競争無き社会の実現を目指すことも、世界平和の為に、必要な方策かも知れません。しかし、生存競争が生命を繋ぐ自然界の中では、順位を争わない運動会は、平和主義者の私にとっても、不自然な感じがします。所が、競争を容認すれば、戦争は、ある程度必然となります。私にとっては、この考え方の整理が、永遠の課題です。

 都心の大学には、午後1時半着きました。新入部員歓迎会は、予定通り2時から始まりました。顧問の教授、OB会長、現役の代表の挨拶の他は、歓談というシンプルなものでした。歓談の際の飲み物が配られました。私に配られたのは、紫色の液体でした。てっきりワインだと思っていましたが、飲んでみたらジュースでした。新入部員そのものが、酒を飲めない年齢ですので、やむを得ない事だとは思いますが、酒飲みの私にとっては、辛いことでした。後から、OB用に、ビールが配られ、少しだけ救われました。

 私の長男の息子、私の初孫も、今年から大学生になりました。今日の新入部員は、殆どが、孫と同じ年でした。新入部員は、皆、青春の輝きに満ちていました。私との年齢差が際立っていました。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」というマッカーサーの言葉を思い出しました。私の時代は、遠い過去になってしまったのです。

 歓迎会は、3時には終わりました。参加したOBは、何となく欲求不満が募っていて、場所を移して、3時から飲み始め、10時近く迄飲み続けました。電車は乗り過ごすし、家に帰り着いたのは、12時近くになりました。長い1日となりました。

 

 

 

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2018年5月28日 (月)

2018年05月25日

2018年05月25日

 

 今日は、夜7時から、都心にある先輩の喫茶店で、「テレビを消して語ろう会」がある日なので、早めに出て、西新井大師へ行って来ました。

 ネットで調べたら、舎人ライナーに西新井大師西という駅があったので、舎人ライナーで行くことにしました。まだ一度も乗ったことが無かったので、どうしても乗りたくなったのです。日暮里から、下町の上を走る列車なのですが、モノレールとも、従来の鉄道とも違う、新交通システムでした。西武線の多摩湖から西武球場までのレオライナーと似ているような気がするのですが、同じかどうかは分りません。

 初体験を楽しめたのは良かったのですが、西新井大師西駅から、西新井大師までは、相当歩きました。他の人に勧めることは出来ないと思いました。20分近く歩いて、西新井大師に尽きました。4年か5年前に、妻と来た事があります。その時、方位学の知識のある妻が、妻の住んでいる所から北の方角にある西新井大師が、参拝するには良いと言うので、来てみたのです。今日来た目的は、先日御朱印帳が終了したので、新しい御朱印帳を買う為でした。都心の名のある寺は、殆ど御朱印を貰ったので、まだ貰っていない西新井大師にしたのです。その目的を果たして、最初のページに御朱印を貰いました。ついでにと言ったら失礼ですが、本堂での護摩法要に参加させて貰いました。

 その後、参道に出て、華永路(はなようろ)という横丁に入りました。此処には、河村という「いなり寿司」専門の店があります。稲荷の種類は、角煮いなり、胡麻いなり、出世いなり、の3種類です。通常のいなりと違って、出世いなりには、ウズラの卵が入っていますし、角煮いなりは炒飯が入っています。味も面白いのですが、名前も面白いので、人気があるようです。私も、1個ずつ3個のいなりを買いました。此処の主人は、多分沖縄か奄美の人ではないかと思うのですが、非常に話し好きで、今日も店の経緯や縁起等の話を沢山聞きました。妻と来た時にも、此処のいなりを食べて、主人の話を沢山聞きました。

 参道に戻り、今晩の集まりの為のお土産として、草団子を買い、バスで王子経由、池袋へ出ました。途中、懐かしい所を通りました。石神井川を完歩した時に、石神井川が隅田川に合流する地点の近くでした。

 6時半過ぎに、先輩の店に着きました。7時近くに、「語ろう会」の発起人の女性が来て、徐々に人が集まり、阪神淡路大震災、東日本大震災の時の各人の思い出や、ゆとり教育、再生可能エネルギー等々、色々な話で盛り上がりました。しかし、前回もそうでしたが、私を含めて年寄りの話が長すぎる気がします。注意している積もりなのですが、酒が入るとついつい長くなってしまいます。そして、あまり書きたくは無いのですが、今日、セクハラの現場を初めて見たような気がしました。セクハラ、パワハラ等ハラスメントに対しては、誰もが納得出来る合理的なハラスメント被害の認定方法、処罰の強さの決定方法についてかなりの疑問を持っていました。しかし、今日、現場を見て、何故最近ハラスメントの問題が、重要な問題として取り上げられているのか、少しは理解出来たような気がしました。ハラスメントは、簡単に言えば、強者による弱者への嫌がらせだと改めて分りました。

具体的な行動は、私の先輩の友人で、語ろう会のメンバーである中年の男性が、私の前の若い女性が、真剣に会話をしている時に、いきなり頭を強く撫でました。撫でられた女性は、最初は何のことか分らず、反抗もしませんでした。ただ、不愉快なのだろうと言うことは、ある程度分りました。男性は、この女性の関心を、自分の方に向けたかったようです。これで終わりだったら良かったのですが、暫くして、その男性は、また同じ事をやりました。今度は、女性も明らかな不快感を露わにし、男性を睨みました。しかしながら、女性は、店長の友人であることもあり、言葉による明示的な反抗はしませんでした。私は、この様子を目の前で見ていたのも拘わらず、何も出来ませんでした。そして、セクハラは、女性や周囲の人も、嫌がらせに対して、反抗しづらいものであることも良く分りました。ハラスメントは、殺人や暴行のように、明確に法で規定し、法で裁くことが難しい分野であることも分りました。どうやら、人間の教養と礼節が、主要な役目を果たしそうですが、教養と礼節を、大多数の人間が、どの様にして習得出来るか、人類が長年苦労して、今だに結論が出ていません。従って、ハラスメントへの対応問題は、非常に大きな問題で、この問題を解決することは、人間の社会生活に歴史的な変化をもたらすかも知れません。

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2018年5月25日 (金)

2018年05月24日

2018年05月24日

 

 昨日の雨は、今朝方まで続くという予報でしたが、せでに雨は止み、良く晴れた朝となりました。富士は、見えたような見えなかったような、そんな状態でした。

 日大のアメフトの問題が長引いています。これは、日大自身が、アメフトを学生スポーツではなくて、大学運営の柱の一つにしているからだと思います。アメフトの選手も、高校からアメフトをやり、大学でもアメフトをやり、社会に出てからもアメフトをやりたいと思っているようです。つまり、大学も学生も、人間形成ではなくして、生きる為の生存競争のようにスポーツをやっています。企業の停滞もあり、企業におけるサラリーマン社会の魅力が薄れ、スポーツやエンターテインメントが、若者の人気を集めています。実は、このような社会は、社会の終末期だと言われています。こうした中で、日大は大学の中に、企業経営の精神を持ち込み、その精神は、合理的精神では無く、武家政治の主従関係を真似たものでした。武家社会と言うより、暴力団の主従関係に近いものだと思います。従って、日大のアメフトの問題は、大学運営の基本からやり直す必要があるでしょう。経過を注視したいと思います。

 私は、大学の体育会系のクラブのOB会長を10年近くやって来ました。1年生の時から見てきた学生の卒業する姿を、6年間程見て来ました。大学4年間における学生の成長には、毎年驚かされました。これは、彼等に、自由にものを考えさせ、自らの責任で物事を半田させる様にしたからだと思っています。OBは、現役の活動に、一切口出しをしませんでした。何か相談されると、良く周りを見て、自分達で協議し、判断し、決断しろ、と繰り返しました。つまり、彼等は、自分達自身で成長したのです。

私自身が、大学へ入った時、大学は教育機関では無いと思っていました。しかし、世の中が変わり、教育的要素も取り入れなければならなくなっていたようです。学生の活動に、大学が色々と注文を付けるようになっていました。私は、大学が教育を行うことについては、未だに疑問があります。仮に、教育を行うとしても、高校時代と同じような教育であれば、将来、社会を率いているような人間に成長出来るはずがありません。そのような教育を続けていれば、社会の崩壊を招く恐れがあると思います。

今度のアメフト事件に、父親や大学の執行部ばかりが、表に出て来ます。ここが、そもそも違うと、私は思っています。先ず被害を受けた学生と、関学の現役が声を上げる等、現役の学生自身が事態の収拾を目指すべきです。日大の方も父母会をやったそうですが、これも何をする為に行ったのか、良く分りません。若し、今度の事件が、現役の学生自身で、解決出来ないような大学の経営理念があるとすれば、これは、大学内、あるいは大学同志の問題の枠をはみ出し、社会問題として解決をせざるを得ないと思いますが、大学は最高学府であり、安易に公権力に頼らない方が良いのです。しかし、最初から、父兄や大学の執行部が出てくると言うことは、そのことを意味しているのでしょうか、こういう事を見ていると、社会における大学の地位が大きく下がったように感じます。

アメフトの話が長くなりました。今日は、散歩に出かけようとした時、雨が降っていたので、3時半頃から、宝蔵橋、宝泉院、東寺方、桜が丘を回って、いろは坂を下り、霞ヶ関橋を渡って、聖蹟桜が丘駅に出ました。昨日、全く散歩をしなかったら、良く眠れなかったので、今日はしっかり歩きました。

何時も体操をしている四谷桜公園は、馬刀葉椎の花が満開でした。栗の花に似た花です。この公園の中の、1本の桜は、明らかに病気です。去年の紅葉の時期から、おかしいと思っていました。今も殆ど葉がありません。何か治療法は無いのでしょうか、他の木に伝染しないか心配です。

四谷橋を歩いている時には、八王子の方に掛かっていた暗雲が、白雲に変わり、青空が顔を出すようになりました。その変わり、日差しも出て来て、急に熱くなりました。東寺方の旧家の間を抜けて、桜が丘の新興住宅地に入りました。色んな家で、紫陽花が咲き始めていました。或る家に、サクランボのような実がなっていました。実はサクランボのようでも、木や葉は、桜とは思えませんでした。特別なサクランボの種類かも知れません。桜が丘の古戦場跡に出ると、向こう側の丘の上に白い入道雲の塊が見えました。もう夏の風景でした。周りには、アザミ、ヒメジョオン、ホタルブクロ等が、日の光を受けて輝いていました。近くの金比羅宮にお参りして、いろは坂を階段で下りました。石垣や土手に、ドクダミ、オオキンケイギク、ヒメジョオンが咲き、木には高い所までテイカズラが巻き付いて、白い花を山盛り咲かせていました。大栗川に掛かった霞ヶ関橋を渡り、聖蹟桜が丘で少しだけ買い物をして、我が家の近くで、ジューンベリーの実を沢山頂いて、我が家に戻りました。6時を過ぎていました。

 

明日から予定が重なりますので、25、26,27日の日記は、28日に簡単に書きます。

 

 

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2018年5月24日 (木)

2018年05月23日

2018年05月23日

 

 今日から天気が崩れるとの予報でしたが、朝の内は、まだ明るさがありました。とは言っても富士は見えませんでした。

 今日は、次男を送り出してから、便座の修理に取り組みました。この前の時は、水が通る所の栓を、きつく締めただけで、結果的に結果的に、水漏れを止めることは出来ませんでした。今日は、便座の中を見る為に、上の部分と下の部分を止めている4つのビスを外し、便座を分解しようとしました。しかし、長年使ったせいか、重なった部分が、接着された状態になって、壊さなければ分解出来ない状態になっていました。素人には、難しそうなので、修理は諦め、便座は交換することにしました。

 12時頃から、小雨ですが、雨が降り始めましたので、今日は散歩は止めて、午後4時頃から、録画してあった「ビルマの竪琴」を見ました。半世紀以上前に見た「ビルマの竪琴」ではなく、リメイク版の方でした。終戦直後の1946年から1948年まで、童話雑誌「赤トンボ」に連載された話だそうです。実話では無く、似たような話を参考にして書かれたそうです。映画自体の出来は、良くありませんでした。主人公の心境の変化に至る描写が、物足りなく感じました。また、戦争の悲惨さも伝わってきませんでした。それでも、涙が零れました。歳を取ったせいか、若者が戦争に召集されたと思うだけで、涙が溢れ出してくるのです。直接、戦争は知りませんが、戦争の話は良く聞きました。戦争の記録映画も沢山見ました。原爆が落ちた焼け野原で育ち、瓦礫の中で遊んだことは、良く憶えています。映画の最後で言っていた、「何故、このように悲惨なことが起きるのか、何故止めることが出来ないのか」は、私自身の疑問でもあり、恐怖でもあり、悲しみでもあります。何故、日本兵が、ビルマまで行って戦わなければならなかったのか信じられません。私の父も、ボルネオ、ビルマに派兵されました。何処かで、社会を狂気が支配したのです。その狂気の原因は、多くの場合、「国家の為に、愛する家族の為に」等と、綺麗な言葉で語られるのです。

 夜、テレビで日大の監督とコーチの記者会見を見ました。昨日の悪質タックルをした本人の、誠意ある記者会見に較べ、自己保身だけの、言葉による誤魔化しに終始した、気持の悪い記者会見でした。この事件が起きた最初の時、日本の右傾化を見るような気がすると書いたと思いますが、今日の記者会見を見て、その思いが一段と強くなりました。この事件の背景には、国家の為にと迄は行きませんが、大学(日大)の為、つまり、少子化の中で大学運営をして行くには、大学の名声を上げる必要がある。名声を上げる為に手っ取り早いのは、スポーツである。スポーツで名を売る為には、強くならなければならない。何が何でも日本一になると言う空気が、経営陣を支配していたのではないかと思います。そして、勝利の為には何をしても許される、選手やコーチは監督に絶対服従、選手は使い捨ての駒となったのです。このような状況が、社会に蔓延すれば、何れ「何時か来た道」、「戦争への道」を歩くことになるのです。一旦、流れ出した空気を止めるのは、容易なことではありません。

現在、日本国家を率いている安倍政権が、右傾化を先導しているようなので、右傾化の危険は、これまでに無く、増大していると思います。アメラグというスポーツの問題ですが、うやむやにせず、きちんと真相を解明して欲しいと思います。司法の問題にしたら、それで真相解明に至ると思うのは早計です。検察の特捜部の中心人物が不正な操作をした頃から、司法が、反政府的な問題に対して、積極的な真相解明を避ける傾向があると思います。検事や裁判官も人の子です。肌で時流を感じるのです。その為には、マスコミが社会の木鐸として、政府の諸機関が、正当な仕事をするように、監視の目を怠らないことが大事だと思います。どうか、よろしくお願いします。

 

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2018年5月23日 (水)

2018年05月22日

2018年05月22日

 

 この3日程、空気の乾いた良い天気が続いており、今朝も五月晴れの良い天気で、富士も見えました。

 昨日、花の名前を調べていたら、私が思っていた矢車草は、本当は矢車菊で、矢車草は、升麻のような花でした。所が、矢車菊で調べて見ると、私の思い違いにも一理がありました。ウィキペディアの記述は次の通りです。

「ヤグルマギク(矢車菊、学名 Centaurea cyanus)は、キク科ヤグルマギク属1種である。

和名ではヤグルマギクと呼ばれており、近年一部でヤグルマソウとも呼ばれた時期もあったが、ユキノシタ科ヤグルマソウと混同しないように現在ではヤグルマギクと統一されて呼ばれ、最新の図鑑等の出版物もヤグルマギクの名称で統一されている」

 今年は、色んな所で矢車菊を見ました。昨日の昭和記念公園では、それこそ山程の矢車菊を見ました。特に、派手な花では無いのですが、その雑草のような逞しさ、花の跡まで花のようなしぶとさが、気に入っています。この花も外来種でした。

 我が家のブライダルベールは、毎日、数え切れない程の花を咲かせるようになりました。メキシコ原産の外来種で、まだ、和名が分りません。そして、モントブレチア(姫檜扇水仙)は、花の時期が過ぎました。

 今日は、娘と末の孫が、遊びに来ることになりました。末の孫の幼稚園が午前中で終わるのだそうです。また、娘は、母親の着物が見たいそうです。末の孫の七五三の時に、最後だから着物を着ようと思ったらしいのです。午前中の仕事を終えて、戸棚の奥にしまってある母親の遺品を出して置きました。

 12時頃になって、娘が着き、一緒に蔵寿司に行くことにしました。末の孫のお気に入りだそうです。食べ物より、寿司のお皿五枚で、おもちゃが当たるゲームが好きなのかも知れません。卵とかイクラとか、焦って食べましたが、冷房が強かったらしく、寿司には食欲が出なくなったので、暖かいうどんにしました。最近の蔵寿司は、回転寿司だけで無く、昔の食堂の料理が、食べられるようになりました。更に、デザートのスウィーツもコーヒーも何でもござれなのです。子供が好きになる訳です。

 食事が終わって、1時45分頃、我が家に戻りました。エレベーターで仕事に出かける次男と鉢合わせになりました。皆で次男を見送って、今度は卵を温めている、燕を見ました。3人の視線を感じたのでしょう、燕が巣から飛び出して、5階の手すりから様子を伺っていました。親燕が卵を温めないと、雛が孵りませんので、急いでその場を去り、我が家に入りました。

娘が母親の遺品を見ている間、末の孫と一緒に、かき氷を作りました。もう身体は温まったようでした。娘の家では、かき氷の道具を買わないことにしているそうです。自宅にあると、孫達が毎日でも、かき氷を食べる可能性があるとのことでした。末の孫は、ブルーシロップをかけて、青くなった舌を我々に見せて、大はしゃぎでした。次に、木のパズルに挑戦しました。上の孫も孫娘も、幼稚園の頃から挑戦し、小学生になった頃には、簡単にできるようになりました。末の孫は、まだ挑戦中で、娘の手助け無しには、完成出来ませんでした。

 娘の着物選びも終わり、上の孫や孫娘が帰ってくる時間になったので、帰る事になったのですが、末の孫が、「もっとジージと遊びたい」と言って聞きませんでしたので、近くの遊具が沢山ある公園に行きました。日頃は、何人も子供達が居るのに、今日は誰一人居ませんでした。スポーツジャングルジム、アスレチック橋渡り、ターザンロープ、滑り台等、全てが遊び放題でした。ターザンロープを何度もやり、滑り台は私と一緒に滑ったり、充分満足したようで、最後に肩車をして、娘と末の孫は、3時半頃、帰っていきました。

 その後、中河原の方まで歩き、公園に子供が居ない訳が分りました。この近辺の子供達が通っている、府中四谷小学校と府中第八中学校共に、運動会の全校練習中だったのです。運動場に、砂埃を巻き上げて、猛練習中でした。

中河原からUターンして、我が家の近くのホームセンターに行き、水漏れがしている便座の交換に、どれほどの費用が掛かるのか、聞いてみました。便座によって違いがありますが、2万円から3万5千円程度でした。1回のゴルフ代程度でした。10万円を越すと思っていたので、躊躇していたのですが、思ったより安かったので、交換することにしました。そう腹が決まったので、明日、もう1回、徹底的に修理を試みることにしました。

我が家に帰って、前妻の遺品を、押し入れに上の戸棚に戻すことにしました。下ろす時にも苦労したのですが、上げるのも大変な苦労でした。往年の力は無く、バランス感覚も衰えているので、脚立に立つことさえ、足が震えました。それでも、なんとか30分位で片付け終わりました。汗をびっしょり掻きました。

 

「別れ際 孫に遊びを せがまれて 元気な素振りで 孫と滑り台」

「伸び盛り 衰え盛りが 二人して 並んで滑る 幅広滑り台」

 

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2018年5月22日 (火)

2018年05月21日

2018年05月21日

 

 今朝起きた時は、双眼鏡で確認しなければならない程、ぼんやりとした富士だったのですが、時間が経つにつれて、はっきりと見えるようになりました。

 私は、多くの意見があることは良いことだと思っています。私の意見とは違いますが、右翼的な意見も意見の一つです。私が嫌いなのは、ある意見を持った人間が他の意見を圧殺することです。もう一つは、様々な策を弄して、嘘を貫き通すことです。この二つが、民主主義の最大の敵だと思っています。森友学園、加計学園の問題以降の安倍内閣の動きは、後者そのもののように思えます。従って私には、日本の民主主義が危機に瀕しているように見えます。この危惧が、単なる危惧で終わることを願っています。

 午前中の仕事が終わり、昼食を食べてテレビを見ていたら、次男が起きて来ました。次男も一緒にテレビを見ていたら、ヘンリー王子の結婚式のニュースが流れました。その中で、王子から花嫁に、忘れな草を贈ったと言っていました。私は、忘れな草は、日本古来の花だと思っていましたので、「忘れな草は、英国にもあるのかね-」と言うと、次男が「あると思うよ、むしろ、ヨーロッパが原産で、forget-me-notと言うと名前だと思ったよ」と教えられました。後で調べて見たら、まさしくその通りで、名前の由来を、参考までに紹介します。

 語源にまつわる伝説[編集]

中世ドイツの悲恋伝説に登場する主人公の言葉に因む。

昔、騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りたが、誤って川の流れに飲まれてしまう。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸に投げ、„Vergiss-mein-nicht!“(僕を忘れないで)という言葉を残して死んだ。残されたベルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にした。

このような伝説から、この花の名前は当地ドイツで Vergissmeinnicht と呼ばれ、英名もその直訳の forget-me-not である。日本では、1905(明治38年)に植物学者の川上滝弥によって初めて「勿忘草」「忘れな草」と訳された。それ以外の多くの言語でも、同様の意味の名前が付けられている。

花言葉の「真実の愛」「私を忘れないで下さい」も、この伝説に由来する。

 「老いては子に従え」と言いますが,今日は、次男に教えられました。思い返して見ると、私は、忘れな草の名前は知っていても、この花が、忘れな草だと意識して見たことは無いと思います。つまり、花そのものを知らないのです。今度、花屋に行って聞いてみましょう。

 今日は、次男を送り出してから、2時過ぎから、昭和記念公園に行って来ました。

 昭和記念公園では、西立川口の入口近くに、トリアシショウマ(鳥足升麻)の花畑がありました。カワセミが良く訪れる池の周りには、花菖蒲(カキツバタ? アヤメ?)が、紫の花を咲かせていました。

ハーブ園では、イタリアンパセリとコリアンダー(パクチー)が、白花を咲かせていましたが、区別が付かない程良く似ていると思いました。若しかすると、名札の付け違いではないかと思いました。最近、街中でもよく見かけるようになった、長い花茎に、沢山の花を咲かせる花も咲いていました。ここに咲いているので、ハーブの一種なのでしょう。この花の名前も分りました。ラークスパー(千鳥草)とのことでした。何より嬉しかったのは、この所、散歩する度に見ている、花の木の名前が分ったことです。ハーブ園の横で咲いていました。カルミアでした。日本語での別名を知って、成る程、上手く名を付けたものだと思いました。アメリカ石楠花、花笠石楠花というのだそうです。

日本庭園の近くでは、路傍でも街中でもよく見かける、菜の花にも似た赤い花が、土手を埋めるように植えられていました。記念公園では、小町草と紹介されていましたが、私は、虫取り撫子だと思っていました。調べて見ると、両方とも正しく、小町草は別名でした。我が家の近くには、白花の虫取り撫子が、沢山咲いている家があります。

 今日の昭和記念公園は、山盛りの花が咲いていました。「みんなの広場」の一画には、矢車菊、ポピー、ネモフィラ等10種類近くの花が、一面に植えられていて、花の中を散歩することが出来ました。また、「こもれびの里」の花の丘には、ポピーが山程植えられていて、満開でした。記念公園は、山程の花を植えるのが、公園の売りになっています。例年の慣わしで、季節によって、花が異なります。「こもれびの里」の入口近くで、普通の木になったソシンロウバイ(素心蝋梅)を確認しました。野川公園の自然観察園で見た、椿のような実を付けた木は、確かに花の時期を過ぎたソシンロウバイでした。私は、梅よりも早い時期に咲く、ソシンロウバイの花の時期の姿しか知りませんでした。

 3時に公園には行って、5時閉園でしたので、忙しい見学となりました。主要な所だけ、駆け足の見学となりました。それでも色んな勉強が出来ました。

 

「知るよりも 忘れることが 早くなり 知る喜びの 減ること無かりし」

「睡蓮の 池の周りの カキツバタ 真の名前は アヤメでなきや」

「散歩にて 出会いの数は 多けれど 初めて名を知る 花笠石楠花」 

「人工の お花畑を 散歩して 殿上人の 優雅さ思う」

「丘埋めて 夕日を浴びる 芥子の花 薄き花片 光が透ける」

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2018年5月21日 (月)

2018年05月20日

2018年05月20日

 

 昨日までの霞は、何処へ行ったのでしょうか、空気も冷気を帯びて、実に爽やかな朝でした。青空の下、富士がくっきり見えていました。暫く見ないうちに、雪が融けて、黒い山肌が、少し見えるようになりました。季節の変わりが、富士の頂上付近まで登って来ました。

 テレビによると、西城秀樹、星由里子の訃報の他に、朝丘雪路が先月末亡くなっていたと報じていました。私が大学の時に入っていたクラブは、1年に1度発表会を行っていました。実は、私が1年生の時に、第1回の発表会が行われました。その発表会は、前半と後半の2部構成で、前半はクラブの発表会、後半は芸能人による歌でした。第3回だったか第4回だったか記憶が正確ではありませんが、恐らく第4回、我々が4年生の時の発表会だったと思いますが、朝丘雪路さんが、発表会に出演してくれました。舞台裏で彼女と会いました。とても明るい印象だったことを思い出します。その後、妻と鎌倉の銭洗い弁天に行った時、朝丘雪路が先客で居ました。我々の時代に活躍した芸能人が、一人また一人とこの世を去って行きます。私ももう直ぐだし、命あるものの定めだと、覚悟は出来ていますが、矢張り寂しいです。

 昨日の、大学のOB会の全体会議の時、私をOB会の仕事に誘ってくれた、大先輩の訃報にも接しました。大学時代、野球部だった人で、7,8年前には、一緒にゴルフもやりました。私も来年は、後期高齢者になりますが、後期高齢者になってからの、老いの進行は本当に早いようです。子供達に、もう少し詳しく引き継ぎをしておく必要があるかも知れません。

 今日は、日曜日なので、この前中止した御岳山に行って来ました。この前と違って、実にスムースに事が運びました。

 午前11時頃に、我が家を出ました。澄み切った青空に、手に取れるような近い場所に、真っ白い雲が浮かんでいました。その中の一つは、プードルの顔に見えました。国立駅のホームから、富士山の写真を撮っていると、同年配の小母さんが近づいてきました。駅のホームから、こんなに綺麗に富士が見えるとは、知らなかったようです。彼女の家から以前は良く富士が見えたのだそうですが、今は高いビルが出来て、見えなくなったそうです。「それにしても、あのテレビのアンテナ邪魔ね」と言っていました。

立川での青梅線への乗り換え、青梅での奥多摩線への乗り換え、御嶽山駅でのバス、ケーブルカーの乗車と、全てスムースに行き、午後1時半には、ケーブルカーの御岳山駅から、リフトで登った展望台に着きました。関東平野を見ながら、コンビニで買ったお握りを頬張りました。昼食を、日差しのある屋外で食べると、美味しさが倍化します。今日は、空気が澄んでいて、筑波山やスカイツリーも良く見えました。

 御嶽山は、山の仲間ときて以来、5,6年振りのような気がします。展望台から山道を下って、参道に出ました。旧家の藁葺き屋根が、葺き替えられていて、真新しい感じになっていました。何時もの通り、階段を上って御嶽神社に着きました。神社の或る所が、御岳山の頂上です。929mです。御岳山が、今一つ高尾山の人気に劣るのは、富士が見える場所が無いからだと思います。今日は、良い富士が見えたはずですが、富士が見えない場所に来てしまいました。

 奥の院に行ったことが無いので、今日、登ろうと思いましたが、他に登る人もいないようでしたし、時間も足りないようでしたので、今日は諦めることにしました。最近は、一人で無理することは、出来るだけやらないようにしています。参道を下りながら、紅葉の若葉、下界では時期を過ぎたシャガの花、石楠花、芹葉飛燕草、ジシバリ、空木、アカシア、ツツジ等々、沢山の花を見ました。御岳山は、花の時期が少し遅いようでした。

 今日一番の収穫は、オオバアサガラ(大葉麻殻)に出会ったことです。遠目に見た時は、アカシアだと思いました。白い花の房が沢山下がっていたからです。この木は、バス乗り場の近くにあり、近くで見ると、葉がアカシアとは、全く違っていました。この木の下で、熱心に写真を撮っている女性がいましたので、この花の名前を聞くと、「オオバアサガラと言います。ロックガーデンでは、この花が、苔の上に落ちていて、とても綺麗でした」と話してくれました。忘れないように、ノートに書いて、私も写真を撮りました。

 多摩川の土手や河原に沢山咲いている、苔のような黄色い花も咲いていました。今日、この花の名前が分りました。メキシコマンネングサでした。

 帰りもスムースで、我が家には、6時過ぎに着きました。途中で、ジューンベリーの実をまた頂いてきました。誰も収穫する気が無いのか、熟した実が道路に沢山落ちていました。とても甘くて美味しい実ですから、木の下にビニールシートを貼って、収穫すれば良いのにと思いつつ、私は手でもいできました。

 

「青空に ぽっかり白き 雲浮かび あちらに兎 こちらにプードル」

「初夏の陽に 赤葉紅葉の 葉が赤い 秋に負けない 春紅葉かな」

「初夏の陽の スポットライトを 身に受けて 緑の森に 輝くツツジ」

「石垣を 縛ってどうする 地縛りさん 石垣埋める 地縛りの花」

「奥多摩の 谷間深き 初夏の陽に 身体広げる 芹葉飛燕草」

「山間の 檜の前の 下がり藤 初めて出会う 大葉麻殻」

「美味しさを 誰も知らぬか 憐れなり 道路に広がる ジューンベリーの実」 

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2018年5月20日 (日)

2018年05月19日

2018年05月19日

 

 今朝は、雨の予報でしたが、雨は降らなかったようです。道路が乾いていました。昨日よりは、少しは良くなったものの、春霞が富士を隠していました。

 今日は、大学OB会の全体会議があり、その会議の為の準備会合が12時半からあるので、11時少し前には家を出て、都心に向かいました。12時20分には、大学に着きました。職場を退職した後、クラブのOB会長をやった事もあり、大学全体のOB会にも、関係を持つようになりました。退職後、特にすることも無い人間にとって、ボランティアとは言え、OB会関連の仕事が出来ることは、本当に有難いことでした。以前にも書きましたが、大学を卒業した訳でも無いのに、入学以来、今日に至るまで、ずっと大学に助けられました。

 振り返ってみると、大学だけで無く、職場でも多くの人に助けられました。勤務地の海外の人達からも、随分と助けられました。何時も失敗ばかりする、不完全な人間なので、誰もが、手を差し伸べたくなるのかも知れません。本当に、有難いことです。

 大学のOB会は、本来、卒業生相互の親睦と、大学に対する無償の支援を目的とする団体です。しかし、注意しないと、大学の理念や大学経営にまでに口を出す、圧力団体になりかねません。このようなOB会は、「百害あって一利無し」の団体になります。大学のOBは、大学経営の当事者では無いのです。「大学が間違いを犯しそうであれば、注意するのも必要」等と、勝手な理屈を用意して、大学運営に関与するOB会は、大学にとって不要の存在です。現在、我が大学のOB会は、非常に活発な活動を行っています。己の分をわきまえて、健全なOB会であることを、関係者の一人として願っています。

 所で、老人は、人間社会のOBであり、社会の当事者では無いのか、この問題は、一朝一夕には語ることが出来ないので、何れゆるりと書きたいと思っています。

 OB会の全体会議は、予定通り午後2時半から行われ、午後5時から懇親会となりました。その懇親会に、我がクラブの現役が参加して、懇親会を盛り上げてくれました。OBとしては、嬉しい限りでした。

 懇親会が何時に終わったのか、記憶は定かではありません。引き続き2次会となり、更に3次会になりました。声が嗄れる程話して、帰りの電車でも、ずっと話し続けました。お陰で、寝過ごさずに聖蹟桜が丘に着きました。11時を回っていました。夜風が気持ち良かったので、歩いて我が家に帰りました。

 

「人生の 輝く青春 一にした 心も一つ 大学同窓」

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2018年5月19日 (土)

2018年05月18日

2018年05月18日

 

 今朝は、晴れているようなのですが、霞が強く、七生丘陵が霞んでいました。今日は、富士だけで無く、丹沢も奥多摩も姿を見ることが出来ませんでした。

  今日は、1日中曇りが続くと思って、洗濯も躊躇していたのですが、思いの外日差しが出て来て、急遽洗濯をしました。次男を送り出して、散歩に出る時は、既に乾いていました。

 昨日の夜は、熱帯夜ではないかと思う程、暑い夜でした。まだ、5月だという意識が頭にあり、冷房をつける気にならず、パジャマを脱いで下着で寝ました。年寄りの痩せ我慢は、良いことではないと言われていますが、長年の習性ですから、仕方が無いでしょう。

 今日は、近場の石坂ファーム、由木農場の方まで歩いて来ました。今年は、初めて歩きました。

 午後2時過ぎに、我が家を出て、四谷桜公園で、矢張り今年初めて、しっかりと準備体操をしました。昨日、少し歩き過ぎて、腰が痛くなっていたので、柔軟体操をしっかりやりました。だんだんと無理が出来ない身体になっているようです。

 四谷橋を渡り、一の宮の交差点へ行く間に、至る所にドクダミの花が咲いていました。5弁のドクダミが無いか、探してみたら簡単に5弁のドクダミが見つかりました。最近、こうしたことが、矢鱈得意になりました。並木として、花水木と一緒に植えられているモチノキに、花が咲いていました。秋の赤い実は印象深いのですが、花を気にしてみたのは初めてではないかと思います。とても可愛い星形の花でした。4弁、5弁、6弁の花が一緒に咲いていました。小さな畑で、ホオズキ(鬼灯)の花が咲いていました。大きめの星形の花でした。この畑では毎年ホオズキが出来るのですが、ホオズキの名前を思い出すのに、一苦労しました。

 一の宮交差点から、東電の緑地沿いに歩き、倉沢川緑地に出ました。紅白のカタバミが咲いていたり、よく見かける白い花の木がありました。この花の木の名前を忘れてしまいました。この花を見る度に、今度こそは調べようと思いつつ、現在に至っています。

 倉沢川緑地から、石坂ファーム、卯木農場は直ぐ近くです。実は、この二つの農場は、隣り合っています。両農場とも、ブルーベリーとリンゴのもぎ取りが出来ます。貸し農園もあって、今は、ジャガイモの花が、沢山咲いていました。畦には、矢車草が我が世の春を誇っていました。ある片隅に、白花の踊り子草らしき花が、咲いていました。確信は持てません。

 由木農場から、野猿街道の中和田に出て、大栗川に出ました。川の土手は、稲科の植物で覆われているのですが、名前が分ったのは、烏麦だけでした。稲科の植物の下には、大きめの花を付けた米粒ツメクサが、びっしりと花を咲かせていました。

 宝蔵橋で、もう一度、野猿街道に出て、一の宮交差点に戻り、四谷橋に差し掛かりました。すると、鳶が2羽、かなり低空飛行をしていて、その内、河原に舞い降りました。干涸らびた河原に、干からびた鯉が横たわっていました。鳶は、何度も鯉を啄んでいましたが、干物になり過ぎて、食べることが出来ないようで、やがて天空へ戻っていきました。

 我が家の近くに戻ると、庭には収まらない栃の木が、道路の上に赤い花を咲かせていました。ジューンベリーの赤い実が、桑の実が熟した色に変わっていました。美味しそうだったので、少しだけ頂いてきました。ジューンベリーの前の家は、1週間程前から、解体が始まったのですが、早いもので、ほぼ解体が完了しました。木造立ての解体は、早いものです。

 今日は、近場だったので、家に戻ったのは、5時頃でした。買い置きの野菜が、悪くなりそうだったので、春巻を作りました。具の包み方を忘れてしまって、不細工な春巻になりましたが、味の方は、そこそこでした。春巻を20本も作ったので、我が家では珍しく、紹興酒で晩酌をしました。

 

「ご近所に 花咲く野草に ご挨拶 毎年変わらぬ 贈り物かな」

「ドクダミの 綺麗に揃った 白十字 偶に星形 変わり者かな」

「鬼灯の 赤き袋に 変わるのか 白き花から 想像出来ぬ」

「君があの 秋の赤き実 作るのか なんと可愛い モチノキの花」

「狭き庭 大きな栃の木 花咲かす 後数年で 母屋取られる」

「六月を 待たず色づき 食べ頃に 触れなば落ちん ジューンベリーの実」

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2018年5月18日 (金)

2018年05月17日

2018年05月17日

 

 今朝は、今にも雨が降りそうな空模様でした。所が、次第に雲が切れて、日差しが出るようになりました。

 今日は、久し振りに御嶽山に行こうと思って、青梅まで行ったのですが、奥多摩方面に行く電車は、40分待たなければなりませんでした。土日で無い週日の奥多摩は、種々不便なようなので、もう一つ行こうと思っていた羽村に行って来ました。対岸の丘陵に散策コースがあることは、以前から知っていたので、今日はそこを歩くことにしたのです。

 12時半位に、羽村駅に着きました。羽村堰に向かう道を歩き、駅前では無く、道の途中にある観光案内所で、地図を貰いました。両側に丸い石で作られた石垣の間の坂道を下りた所に、禅林寺がありました。何度も来たことがありますが、今日は、御朱印を貰うことにしました。御朱印を頼むと、大黒さんが出て来て、「住職が居ないので、書いてあるものに、日付を入れるだけですがよろしいですか」と聞かれましたので、「それで結構です」と言って、御朱印を貰いました。大黒さんは、都心の方から嫁に来たらしく、まだ、羽村の詳しいことを知らないと言っていました。顔立ちの整った綺麗な方で、気さくで明るい方でもありました。

 羽村堰と玉川上水の始点を見て、羽村堰下橋を渡って、対岸へ出ました。橋の近くでは、大勢の子供達が水遊びをしていました。5月だというのに、真夏のような暑さでしたから、子供達が、水遊びを楽しむのも当然です。私も水に入りたくなりました。

 対岸の土手を遡って、羽村郷土博物館へ行きました。羽村は、武蔵野の奥の山里だったらしく、特に見るべきものはありませんでした。玉川上水の取水の為の堰だけが有名でした。展示室の一画に、中里介山の部屋がありました。全く知らなかったのですが、羽村生まれの作家で、大菩薩峠の作者でした。中里介山の墓は、禅林寺にありました。

博物館の横に、昔の茅葺きの百姓屋が移設されていました。通常、このような場所に移設されるのは、豪農の立派な邸宅が多いのですが、ここの百姓屋は、あまり裕福では無い、普通の百姓屋でした。炊事場用の土間、囲炉裏のある板間など、私が小さい頃住んでいた家を彷彿させました。私が、しげしげと家を眺めていると、この家(下田家)の子孫で、管理を任されている人が出て来ました。私より、3つ年下でした。私は長崎の山の中、彼は東京の山の中、場所は離れていても、暮らしぶりは良く似ていました。戦後の苦しい時期の思い出話が次から次に出て来て、20分以上も話してしまいました。彼は、病弱で栄養を取るような食物も無く、母親の父も出ず、1年もせず死ぬと言われていたそうですが、隣家の山羊の乳で助かったそうです。私も、結核で死んだ母のことを話しました。

その後、小作駅の方に歩くか、福生駅の方に歩くか悩みましたが、御朱印を貰う為、慈勝寺がある福生駅の方に歩くことにしました。地図の見方を間違って、少し迷いましたが、羽村大橋の所から、大澄山に上る道を見つけました。地図にもある、慈勝寺へ続く散策路でした。緩やかな山道を歩き、ものの30分程度で大澄山の頂上に着きました。標高192mでした。そこから下って、慈勝寺まで歩き、御朱印を頼みました。すると中学生と思われる子供が出て来て、「住職が居ないのでお出し出来ません」と言われました。書いてあるものも無いとのことでした。

御朱印は諦めて、長田橋を渡り、多摩川の左岸に戻りました。真っ直ぐ歩けば、福生駅でしたが、御朱印帳が、あと1つの御朱印で終わるので、どうしても御朱印が欲しくなり、橋から見えていたお寺に行きました。行ってみると田村酒造の前の寺でした。何度か来たことがあったのに、対岸の方から見たことが無く、別の寺かと思ったのです。玄関の呼び鈴を押すと、「どうぞ」と長閑な声が聞こえました。玄関を開け、御朱印帳を渡して御朱印帳に書いて貰いました。

玄関に「吾以外、皆、吾師也」という掛け軸が飾ってありましたので、私が、「これは住職の字ですか」と問うと、「いやそうではありません。所で、この字の意味をどう解釈しますか」と問われました。私は、読んで字の如く、「誰もが自分にないものを持っていて、誰からも多くのものを学ぶ事が出来る、だから、誰もが自分の師である」、そんな意味だと思う旨答えました。そうすると住職は、「それも正しいのですが、そこで終わるのは、日蓮宗です。他の人が全て、貴方が思うように考えるのであれば、貴方自身も他の全ての人の師となる訳です。つまり、学ぶ事も大事ですが、教えることも大事なのです。つまり、何事もお互いになのです。一方的に学ぼうとすると、時には戦争を是とするような考えにも遭遇し、従わざるを得ない場合も出て来ます。その時には、別の考えがあることも教える必要があるでしょう。何事もお互いにです」と教えてくれました。なんだか、民主主義を別な言葉で言われているような気がして、とても感銘を受けました。歳は、40代と思われましたが、中々見識のある住職でした。お寺は、臨済宗 長徳寺でした。

 福生駅から、立川経由我が家に戻りました。11時前に家を出たのに、帰り着いた時は、午後6時を過ぎていました。良く歩いて疲れましたが、良き出会いがありました。花も沢山見たのですが、書き切れませんね。

 

「良く変わり 良き未来を 掴み取れ 悪き過去へと 戻るは無しだ」

「老いてなお 知るべき事の 多かりき 知らざる事の あまりの多さよ」

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2018年5月17日 (木)

2018年05月16日

2018年05月16日

 

 青空なのに富士は見えない、昨日と同じような朝でした。気温が高くなり、朝なのに冷気を全く感じませんでした。

 関西の友人から、日大と関学のアメフト試合において、日大の選手が行ったタックルについて、非難の声が届きました。彼は、少年ラグビーに関与しており、安全第一を掲げて指導しているので、ルール無視の危険なタックルが許せなかったようです。私も、何度かそのシーンをテレビで見ましたが、プレーが中断している時の、意表を突くタックルでした。真偽の程は定かではありませんが、相手の中心選手を怪我させる指示が出ていたとの、新聞報道も紹介されました。私も、彼と同様、勝利至上主義の、ルールやスポーツ精神を置き去りにしたようなスポーツは、別な意味でも危険な予感がします。現在のスポーツ界の上層部には、以前、各スポーツで活躍した年配者が君臨し、暗黙の絶対服従を強いているようです。何故か、現在の体育会系のスポーツは、昔の軍部に似たような状態になっているような気がします。スポーツを通して右傾化が進んでいるように見えます。

 最近の安倍総理の政治姿勢や、菅官房長官や二階幹事長の厚顔不遜な態度、事実の改竄、情報の隠蔽、官僚の服従・忖度は、政治の社会も右傾化が進行しているように感じられます。これは企業経営の硬直化、企業経営に関する国家の関与の増大、政治に対する不信感から国家の未来への不信感の増大、将来の生活に対する不安からの消費の減速等々、社会が停滞し始めています。こういう時には、国家存亡の時、天下国家のため、神国日本の防衛と言った、愛国心を擽るような意見が巷に溢れ出し、何時しか同じ意見を持たないと、迫害を受けるようになります。現在、その瀬戸際にきているような気がします。このような考え方は、社会の停滞を加速することはあっても、活性化することは無いのです。

 日記を書き終わった頃、妻から電話があり、夕食を一緒にどうかとの誘いがありました。勿論OKで、5時荻窪で待ち合わせることにしました。

 何時ものことですが、少し早めに出て、荻窪駅の近くの大田黒公園に行ってみようと思いました。所が、中央線で国分寺を過ぎた頃に、妻から電話があり、妻は既に荻窪に着いていて、買い物をしているとのことでした。大田黒公園は止めて、妻の買い物に付き合いました。ゆっくりと買い物をしている間に、5時になり、今日の夕食を予定していた寿司屋の開店時間となりました。

 先月から、妻は、美味しい刺身と生牡蠣が食べたいと言っていましたので、先ずは、中トロと赤貝の刺身を頼み、私は刺身の盛り合わせを頼み、二人で生牡蠣を頼みました。妻は、漸く願いが叶ったようで、とても満足していました。妻が、那須の妹さんの仕事を手伝うようになって、1年以上になります。那須では、東京と違って、料理屋を選んで食べる楽しみが無くて、欲求不満が溜まっているようです。そんな訳で、東京へ来て、あちこちの店で食べるのは、新鮮な喜びになっているようです。何事も、不足は欲求を生み出すようです。

 明日、妻は、那須に帰るので、今日の夕食は早めに切り上げる積もりだったのですが、話が弾み、逆に少し遅くなってしまいました。7時半過ぎに店を出て、駅のホームまで、妻を送りました。妻が、嬉しそうだったので、私も嬉しくなりました。私の家は府中、妻の家は神楽坂、私の家の方が近いように思えるのですが、恐らく妻の方が早く、家に帰り着くと思います。

 

「偶に合い 食事共にす 夫婦かな 心軽やか 老いての道行き」

 

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2018年5月16日 (水)

2018年05年15日

2018年05月15日

 

 今朝は、快晴の青い空が広がっていました。しかし、地表は霞が強く、富士は全く見えませんでした。

 米国が、エルサレムをイスラエルの首都と認め、大使館をテルアビブからエルサレムに移転しました。総領事館を大使館に、建物は同じですが、表札が変わりました。国家を代表する場所に変わりました。私は、酷い判断だと思いますが、国際問題の決断に、本質的に正否を判定することは出来ません。現在、国際社会の中で、最高の力を誇示している米国の判断ですから、今後の国際社会を揺り動かすことは、間違いないでしょう。ユダヤ人の問題は、古代ローマ時代からの問題であり、人種、文化、宗教、富や権力の偏在等、人間社会のあらゆる問題を内在しています。今後人間が、良識を持って、国際社会のあり方を変えていけるのか、容易ならざる問題だと思います。これまで、国際社会の中で良識が生かされたのは、奴隷解放、植民地の廃止くらいしか無いのではないかと思っています。

 今日は、大学のクラブの2年下の後輩Sの1周忌に参加しました。1周忌は、大学内の卒業生の為のクラブで行われました。メキシコでもその後の日本でも、親しく付き合った後輩でした。

 午後2時半から、特別な宗教的儀式は無く、黙祷と献杯だけで、後は、酒を飲みながら歓談になりました。今日の1周忌には、30人弱集まりましたが、同じクラブの者の他に、他のクラブの人間も半数近く参加してくれました。また、後輩の夫人、姉も参加しました。私が、最年長者だったので、献杯の音頭を取りましたが、何となく生前の後輩Sの雰囲気に合わない気がしたので、乾杯に切り替えました。

 今日、何より嬉しかったのは、奥さんが、元気で、そして笑顔で参加してくれたことです。後輩Sは、結構癖の強い人間でしたので、種々苦労もあったでしょう。でも、全く癖の無い人間よりは、面白かったのではないかと思います。奥さん自身も、今になって思い返すと、起伏のある面白い夫婦生活だったと言っていました。

 会場の都合で、どうしても4時半には、部屋を空けなければなりませんでした。話しは、佳境に入っていて、ほぼ全員が2次会に参加し、またまた話に花が咲きました。ありきたりで宗教的なことは言いたくありませんが、天に居る後輩Sも、喜んでいるでしょう。

 9時過ぎには、2次会も終わり、奥さんを入れて7人で、カラオケに行きました。最初は、後輩Sの十八番を皆で歌って、後は思い思いの歌を歌い、終わったのは、10時を過ぎてしまいました。想定していた1周忌の行事が全て終わりました。

家に帰り着いたのは、11時半を過ぎていました。色んな仲間と話しが出来て、かつ、楽しい1周忌でした。しかし、過ぎてみると、明日は我が身の寂しさが、胸に湧き上がってきました。歳を取るにつれて、覚悟らしきものが出来てきましたが、それでも、この世と自分との別れを思うと、寂しい気持を振り払うことは出来ません。

 

「亡き友の 生きた証が 集まりぬ 仲間の心に 友の面影」

「各人が 友の生き様 披露して 今蘇る ありし日の友」

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2018年5月15日 (火)

2018年05月14日

2018年05月14日

 

 雨の朝かと思っていたのですが、もう雨は止んでいました。それでも、空には雲が残り、正面の七生丘陵は、霧に霞んでいました。

 今日は、妻が定期的な検診の為に上京するので、妻と会うことになっていました。会う所は決まっていたのですが、時間がはっきりしていませんでした。朝食を食べてスマホを見てみると、既に妻から電話があったようです。何故か妻から電話が掛かってくる時、スマホが別の部屋にあって電話に出ないので、何時も妻から文句を言われます。今日も、折り返し電話をしたら、最初から文句を言われました。所で、今日会う時間と場所は、変更になって、午後2時に、信濃町の駅で会うことになりました。

 都心に出るので、日記を書き上げて直ぐ、1時間位早めの11時少し前に家を出ました。胃癌の手術後2年目のCT検査の日と、担当医の診察の日を書いた紙が何処かに行ってしまったので、再確認のため、総合医療センターに行きました。綜合案内に行くと、電話でも良かったのですよと言われましたが、直ぐに予約日を調べてくれました。もう一つやるべき事がありました。担当医から指示された、隣の癌検診センターで、胃と大腸の内視鏡検査を予約することでした。受付に聞いたら、直ぐ近くに設置してある予約センター直通の内線電話で、係員と話して下さいと言われました。言われた通り、電話すると、あっという間に予約が出来ました。担当医の紹介状を持ってきたのですが、不要でした。

 今日、病院でやるべき事が、すんなり終わって丁度お昼時になりました。病院内のコンビニで、お昼の食事を買いました。レジは、5箇所で対応しているのですが、それでも長い行列が出来ていました。ここのコンビニは、儲かって嬉しい悲鳴でしょう。

 コンビニの前の、広い廊下のベンチで、お握りの後バナナを食べていると、隣で菓子パンを食べていた40代位の女性が、「コンビニにバナナがあったのですか、私のように糖分の多いものとは違って、良い食事ですね」と話しかけてきました。それから、話が弾んで、30分位話しました。今年で、91歳になるお母さんが、緊急入院したために、付き添いの為来たそうです。認知症も出ているようで、介護は、かなり厳しいようでした。彼女自身も椎間板ヘルニアを患っていると言っていました。最近の日本社会の現状が、良く現れていました。

 ある程度時間が潰れたので、妻と待ち合わせの信濃町に行きました。妻から、少し遅れそうだとの連絡を受けていましたので、2時20分頃に、信濃町に着きました。妻は、2時半頃にやって来ました。そして、今晩の夕食の店を電話で予約した後で、「貴方は、何でも私任せ、女を喜ばせるようなことを何もしないのだから、ちょっとは努力してよ」と文句を言いました。その通りなので、反論出来ません。しかし、妻は、その場その場で文句を言うので、後に残りません。これは妻の良い所です。

 時間が少しあったので、飯田橋で下りて買い物をして、それを妻の家に運んでから、神田の中華料理屋に行きました。2ヶ月程前に行った所です。大衆料理屋のイメージが強い所ですが、なかなか味が良い所で、7時過ぎると、仕事帰りのサラリーマンで大混雑します。我々は、開店と同時の5時に予約し、一番最初の客となりました。今日妻は、ラム肉のブロック、ニンニクの漬け物、板春雨の炒め物が食べたかったようです。結局は、板春雨は別の機会にすることにして、別に、パクチーのサラダ、リブカツを頼みました。パクチーのサラダには、青胡椒の千切りが入っていて、凄まじい辛さでした。歳を取るとこの辛さは辛(つら)いので、選り分けてパクチーだけを食べましたが、それでも結構な辛さが残っていました。その他の物は、どれも美味しくて、腹一杯食べました。

 7時頃まで、何やかやと話をしながら食べました。前にも書いたと思いますが、妻と私は、旅行などの思い出話をしても、興味の持ち方が違うので、覚えている所も違うのです。思い出が一致する所を探しながら、あっちこっちに話しが移りました。これも中々楽しいものです。

 食事が終わって、妻とはお茶の水で別れ、私は、そのまま家に帰り、8時半近く、無事に着いたと知らせるために、妻に電話をしました。所が妻は出ません。好きな銭湯にでも行っているのだろうと思いました。そろそろ寝ようかと思った11時半頃、妻から電話がありました。「何かあったの」と心配そうでした。「無事に着いたのを知らせただけ」と言うと、安心して、ひととき新潟の少女殺害事件の犯人が捕まった話をして、今日の一日が終わりました。

 

「妻と共 思い出の糸 紡ぎ合い 至福の時の 流れゆくなり」

「店を出て 通りを照らす 街灯 妻と感じる 赤き灯青き灯」

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2018年5月14日 (月)

2018年05月13日

2018年05月13日

 

 これから天気は崩れる、そのことを告げているような、雲の多い朝でした。しかし、ほんの僅かな時間でしたが、薄らと富士が見えました。

 今日は、母の日です。私の子供の頃から、母の日は、ありました。しかし、私は、母の日にプレゼントをしたことがありません。生みの親は、全く覚えていませんし、継母にはプレゼントをする気になれませんでした。そんな訳で、小さい頃から母の日は、私には関係の無いものだと思っていました。

我が家のブライダルベールは、少しずつ花の数が増えてきて、今日は、30輪を超え、ほぼベール全体に花が行き渡りました。我が家の近くのジューンベリーの実も赤くなりました。ジューンブライドが近づいてきました。

何時もは、1時頃まで寝ている次男が、11時頃から起きて、ごそごそ何かをやっていました。聞いてみると、今日は休みなのだそうですが、知り合いと服装コードのあるフレンチレストランに行くそうです。次男の背広姿を、久し振りに見ました。

次男は、12時には出かけたので、12時半頃から、散歩に出かけました。今日は、午後から雨が降るとの予報でしたので、近くの河原へ行って、早めに帰ってきました。

多分、今年の初め頃だったと思いますが、浅川と多摩川の合流点が急に変わって、半島のように出ていた三角州が、歩いて廻れる河原に変わりました。我が家の正面の多摩川の右岸から、簡単に行けるようになったのです。昔は、この三角州へ行くには、浅川の関を渡るか、新井橋まで遡って戻って来るか、あるいは石田大橋の方から来るかしかなく、どれも結構大変でした。

多摩川の右岸から、運動場に下りて、更に砂利の河原に出ました。白っぽい河原に、何か黒いものが見えました。なんと亀の死骸でした。急に浅川の流れが変わり、水が無くなって、新しい水場に辿り着くことが出来なかったのでしょう。憐れさを感じると同時に、これは人間が引き起こしたものではないかと思いました。

以前の浅川の流れを越えて、三角州だった所へ行くと、砂利と砂地が広がった河原でした。その荒れた河原で、必死に勢力圏を確保しようとする、ヒナゲシ、菜花、アカバナ、草藤、月見草が、何時もとは違って、非常に健気に見えました。ただ、荻が、勢力を伸ばす姿は、怖さを感じる程の凄さがありました。砂地に出来た1つの株から、四方八方に10mはありそうな、長い根を伸ばして、その節々から荻の芽が出ていました。何れこの河原も、荻の河原になるでしょう。

合流点の近くの浅瀬に、50羽近い川鵜が、翅を休めていました。出来るだけ驚かさないように、そろりそろりと近づいたのですが、流石野生の鳥達です、私に気づき、一斉に飛び立ちました。どうもカメラが、危険物に見えるようです。しかし、川鵜が一斉に飛び立つ光景は、圧巻でした。

合流点の方まで、河原伝いに行けると思っていたのですが、途中が崖になっていて、川の中に入らないと行けない状態になっていました。仕方なく崖の上を歩くことにしましたが、道の無い荻の原でした。荻は、既に私の背丈を超えていました。そこを、30m程藪漕ぎしなければなりませんでした。所々に棘のある野薔薇があったりして、結構苦労しました。運動量も急に増え、大汗を掻きました。20分程かけて、漸く砂利の河原に出ました。後を振り返ってみると、荻の河原に藪漕ぎの跡が道のようになっていました。

新しい合流点をこの目で見ました。昔、三角州の根元を横切り水が流れるのは、浅川の水量が余程増加した時だけでした。そこが今は、本流になっていました。自然の力だとは、思えない気がしました。

昔の浅川の川底を歩いて、程久保川との合流点だった所へ逝くと、鶏のような鳥が、私に気づいて、急いで荻原の方に駆け出しました。雉でした。雄に後れを取った雌は、必死に飛び上がって、荻の原に逃げ込みました。多摩川で雉を見たのは、本当に久し振りでした。思った以上に苦労した河原散歩でしたが、最後に褒美を貰いました。

2時半頃、家に帰る頃には、雨が降り出し、小雨が降り始めました。早めに散歩に出たのは、大正解でした。その後は、エクアドルの友人から知らせが届いた、「グレートネイチャー、エクアドル天空の記憶」と、大学時代の友人と大学から直接知らせが届いた、カンボジア人による遺跡の復興を目指す石澤氏を取材した、「心の時代 宗教・人生 破壊された心の復興」を見ました。両方とも録画してあったものです。エクアドルは、現役最後の勤務地でしたし、石澤先生の案内で、カンボジアとミャンマーの遺跡見学の旅行をしました。私は、これまで、石澤先生のように、熱意があり、かつ、謙虚な人物に出会ったことがありません。両方とも良い番組でした。

 

「多摩河原 日に焼け熱い 砂利の上 水に戻れぬ 亀の骸が」

「何故か 流れの止まった 荒れ河原 荻と野草の 陣取り合戦」

「せせらぎに 身体休める 川鵜達 カメラは鉄砲 一斉退散」

「道途絶え 荻の河原を 藪漕ぎす 振り返り見る 藪漕ぎの跡」

「我を見て 慌てふためく 雉夫婦 駈けたり飛んだり その様愛し」

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2018年5月13日 (日)

2018年05月12日

2018年05月12日

 

 今朝は、薄雲がありましたが、良い天気でした。昨日と同じという訳にはいきませんが、富士も見えました。

 柳瀬総理秘書官の国会における答弁の様子が、何度もニュースとしてテレビに流れていました。常識で考えられないような、答弁を繰り返していました。顔付きもおかしいですし、何等かの脅迫を受けているような気がします。これまでも何度かあったように、政治家の周囲の人物の自殺によって、事件の幕引きが行われたように、柳瀬氏の死によって、加計学園問題の幕引きが行われるのではないか、そんな気がしてなりません。

 この種の政治問題の際、テレ朝にニュース解説者として呼ばれる田崎氏は、共同通信社の記者だったようですが、現在、日本会議の会員なのではないでしょうか、そうで無いにしても、彼の、自民党や現政権を守ろうとする姿勢は、目に余る物があります。こういう偏った人は、討論会には良いでしょうが、ニュース解説者として使わないで欲しいと思います。

 この前から雲隠れしていた本が出て来ました。並べた本の上の隙間に置いていたのが、奥の方に入って、見えなくなってしまったのです。歳を取ると、眼に入らないと、ここには無いと決めつけてしまって、きちんと探さないのです。それで、無い無いと大騒ぎをするのですから、歳は取りたくないものです。

 今日も、次男を送り出してから、七生丘陵散策東コースと、明星大学、中央大学を歩いて来ました。

 午後2時半頃家を出て、四谷橋から対岸の程久保川の方へ行きました。以前は、程久保川と浅川の合流地点があったのですが、近頃、流れが変わって(変えられて)合流しなくなりました。合流点にあった仙人の花畑の跡は、今でも残っていますが、全く手入れがされなくなり、草ぼうぼうの荒れ地に変わってしまいました。昨年の台風の時の増水で、砂が堆積し、花畑として手入れをする仙人の意欲がなくなったようです。

 程久保川から百草園駅に向かうと、新たにセブンイレブンの工事が行われていました。僅か50メートル強の所に、3軒ものコンビニが軒を並べて、商売が成り立つのでしょうか、心配です。ここには更に、スーパーマーケットもあるのです。最近、「えっこんな所に」と思うような所に、コンビニが増えています。今までのアパート建設と同じように、税金対策のような理由があるのでしょうか、どう考えても多過ぎだと思いました。

 七生丘陵散策コースの入口である大宮神社の横には、カラー、デイジー(雛菊)、菖蒲等の花が沢山咲いていました。丘陵への登り口の所には、ユキノシタの花が、まだしっかりと咲いていました。丘陵を登り、緑が濃くなった林を抜けると、百草八幡神社に出ます。更に、朝日が丘緑地、三角点公園、百草台公園、給水塔、百草台団地を歩いて、一旦丘を下りて、もう一つの丘へ登ります。そこにまた別の団地があるのですが、この団地の名前が未だに分りません。調べる気も無いのです。団地の横から、別の丘の林を歩くと、日野第3中学校の裏門に出ます。中学校とは反対側に下りて暫く歩くと、明星大学に出ます。明星大学に入らないで、そのまま歩くと、10分位で、散策東コースの終点である多磨動物園に出ます。今日は、明星大学までの民家の庭で、黄花オダマキを見ました。初めてのような気がします。

 今日は少し欲張って、明星大学に入り、その後隣り合わせの中央大学を抜けて、野猿街道の東中野に出ました。明星大学の米粒ツメクサは、背丈も高く、大豆程の大きな花を咲かせていました。中央大学は、花の大学とも言って良いように、花壇が立派に整備されています。かなり大きな桜の林があり、その下には、白ツメクサとブタナが一面に咲いていました。4年程前、この光景を見た時、私はブタナをジシバリだと思っていました。念のために、大学関係者に聞いた所、ちゃんと調べてくれて、ブタナだと言うことが分りました。この花の名前は、忘れることは無いと思います。

 中央大学の正門を出て直ぐに、3本の桐の木があり、綺麗な花を咲かせていました。その斜め向こうに、とても古い建物があります。一度近づいて怒られた事がありました。この家の先祖は、江戸時代に北関東の方から移住してきたと言っていたと記憶しています。その家の前の畑には、矢車草を始め、多くの花が咲いていました。

 古い家を過ぎると直ぐに野猿街道に出ました。我が家の所まで続いている街道です。東中野という何処かで聞いたことのあるバス停から、一の宮までバスに乗り、その後歩いて四谷橋を渡り、我が家へ戻りました。1万5千歩程の散歩となりました。足は疲れましたが、気分は上々でした。

 

「道脇に 春の日浴びて 輝きぬ 白さいや増す 雛菊の花」

「紋白蝶 群れてるような 雪の下 暗がりの道 明るく照らす」

「冬木立 何時しか芽吹き 春木立 木漏れ日僅か 夏木立かな」

「盛り過ぎ 小径に落ちた エゴの花 六弁の花 珍しく無し」

「白花の 草藤の如く 珍しき 初めて出会う 黄花オダマキ」

「背は高く 花も大きい 黄ツメクサ 米粒などと 呼ぶは失礼」

「散り果てた 桜の園の 下に咲く 時の移ろい 支えるブタナ」

「青空を 背にして高き 桐の花 桜色して 雲と語らう」

「鯉幟 上がる頃には 矢車草 菖蒲と共に 時の花かな」

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2018年5月12日 (土)

2018年05月11日

2018年05月11日

 

 カーテンを引いた瞬間、目の前にくっきりと富士が見えて、心が浮き浮きする朝でした。朝一番に、富士を見るだけで、こんなにも気持の持ちようが変わるのは、本当に不思議だと思いました。

 ニュースを見ていたら、マレイシアの新首相が92歳だと報じていました。人生100歳の時代と言われるようになっていますが、本当に、そのような時代になったのかも知れないと思うようになりました。私自身は、それ程長生きをしたいとは思いませんが、、、。

 日記を書き終えて、友人の学校の監事になるための、履歴書を書きました。友人から、ずっと同じ職場であれば、主要な役職だけで良いと言われていましたので、最後の15年に絞って書きました。ものの30分で履歴書は出来上がりました。その時、友人に大事なことを話していないことに気がつき、友人に電話しました。2年前に胃癌の手術をしたこと、来月、丸2年になるため、種々の検査をすることを知らせました。友人は、「監事は、そんなに大変な仕事ではありませんし、月に一度理事会に顔を出して貰えば良いのです。都合が悪ければ、欠席して頂いても結構です。現在のお声の調子から、手術後の経過は良さそうです。どうか、ご心配なさらないで下さい」と言ってくれました。友人の言葉を受けて、本当に心配な点が無くなりました。

 今日は、履歴書を友人に送付するとか、種々用を足すため、聖蹟桜が丘に行って来ました。

 午後2時過ぎに家を出ました。4月の半ば頃から作り始めた燕の巣は、既に完成し、最近は、多分雌だと思いますが、1羽の燕が、昼間から巣にいる時間が長くなりました。卵を温めているのだろうと思います。もうすぐすれば、雛の顔が見られるようになるでしょう。毎日が楽しくなります。

 我が家の前にある古い方の住宅地の1軒の解体が始まりました。3年程前から、ケアハウスの車が毎日のようにきていたのですが、最近見なくなりました。介護老人ホームに入ったか、他界されたのだろうと思います。この住宅地は、他に2軒の空き家がありますし、5年後には、空き家になりそうな家が、10軒近くあります。東京の住宅地は、同じ所で世代交代をするのは難しいようです。

 聖蹟桜が丘に着いて、先ず、郵便局で最近の出入金の状況を手帳に記載しました。郵便局の口座は、那須の土地の税金を納めるためだけに使用しています。ネットで送金したのが、入金されているのを確かめました。これで、向こう15年位は、滞りなく税金を納めることが出来ます。

 その後、コンビニで履歴書を送り、直ぐ近くの眼科に行きました。3ヶ月に1度の検査です。視力検査をし、角膜の細胞の写真を撮りました。視力に大きな変化は無く、角膜に異常は無く、眼圧も14程度で正常でした。所が、両眼とも白内障が進行しており、特に左眼の方は、かなり進行しているので、手術した方が良いと言われました。問題が白内障だけであれば、直ぐにでも手術をするのですが、緑内障で視野欠損も進んでいる時、白内障の手術で劇的な効果があるのか疑問があり、白内障の手術に踏み切れないでいます。それにしても、眼科の診察は、どうしてこんなに時間が掛かるのでしょうか、眼科に入ったのは、3時前でしたが、診察が終わったのは、4時15分頃でした。薬局で薬を貰った時は、4時半を過ぎていました。

 眼科の治療で時間を食ったので、遠くへ散歩は出来ず、河原を歩いて我が家に戻りました。途中、川岸の木の中から、鳥の声が聞こえました。あまり聞き慣れない鳥の声でした。必死で探しましたが、中々見つかりません。それもその筈、漸く見つけたのは、木陰の色が保護色のような鳥でした。後で調べて見ると、百舌の雌のような気がするのですが、百舌の雌は、鳴くのでしょうか、未だ確信が持てません。

 川岸に幼稚園があり、この時期には、毎年、パッションフルーツの花が垣根を飾ります。今日も沢山の花が咲いていました。何となく太陽を思わせる花です。パッションフルーツは、スペイン語圏の中南米では、グラナディーアと言います。グラナダが石榴を意味し、グラナディーアは小さな石榴という意味です。娘が3歳になる頃、ペルーで初めて食べたのですが、とても美味しかったことを思い出します。郷里の長崎では、「うべ」と言っていた、山で採って食べていた味と良く似ていました。

 夜は、大量に作った鶏の軟骨の干物、手羽中の干物、野蒜の花芽の炒め物を摘まみにして、美味しくワインを飲みました。

 

「今年また 帰って来たる 燕さん 君の子育て 見れる幸せ」

「この家の 記憶留めし 燕達 世代変われど 記憶忘るな」

「梢にて 風を楽しむ 小鳥さん 空を飛ぶより 気持が良きや」

 

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2018年5月11日 (金)

2018年05月10日

2018年05月10日

 

 今日は、雨は降らないと思っていたのですが、雨の朝でした。所が、急速に天気が回復し、午後には、青空が広がり、日差しが出て来ました。慌てて洗濯をしました。

 昨日作ったミートソースを味付けし、1時間程煮て、ある程度冷めた段階で、製氷皿で凍らせました。少し大きめのキュービック状になるので、使いやすいのです。小さなピザには2個で大丈夫ですし、現在の私のスパゲッティーには、3個で充分です。所が、凍るのに5時間以上掛かったので、今日中に全部を冷凍することは出来ませんでした。

 昨日、メキシコ時代の友人から、「今度監事をお願いする学園の資料と、理事会の承認を得るために履歴書を送って欲しい旨の手紙を送付した」との電話がありました。昼食を食べた後、郵便受けを見ると、書類は届いていました。彼が経営する学園は、昭和9年に、幼稚園と小学校が開校し、現在は幼稚園から高校までの一貫校でした。彼の期待に応えるような仕事が出来るか、心配な点もありますが、学校教育には、以前から興味がありましたし、人生の終わり近くに、学校教育に関係出来ることは、嬉しい限りです。

 履歴書を書くのは、人生最初のことなので、履歴書の用紙を買うために、聖蹟桜が丘に行くことにしました。良い天気になりましたので、散歩を兼ねて、大栗川と多摩川の合流点を回って、かなり遠回りして行きました。

 次男を送り出した、午後2時半くらいに我が家を出ました。関戸橋へ向かう土手は、今、コウゾリナ、ブタナの黄色い花と野蒜の白い蕾、穂を出したばかりの光る紫の茅、花の時期が終わりそうなスイバで賑わっていました。河原には、薄紫の栴檀の花も咲いていました。良い気持ちで歩いていたら、いきなり土手が丸坊主になりました。土手の草刈りが始まったのです。今週中に、我が家の前まで草刈りが終わるでしょう。

 関戸橋の仮橋設置工事は、かなり進行し、両側の土手と繋がる部分を残すだけになりました。工事のために用意された、迂回路を通って、大栗川との合流点へ向かう土手に出ました。この土手は、少し前に草刈りがされたらしく、新しい草が大分伸びていました。周りに背の高い草が無くなったためか、黄色い小さな花が、沢山咲いていました。最初はオッタチカタバミかと思ったのですが、葉が違いました。ニワセキショウにも煮ているのですが、茎と葉が違います。現在、名前を調査中です。

 合流点へ向かう土手の名物は、ミヤコグサ(都草)、オオキンケイギク(大金鶏菊)、ウツボグサ(靫草)です。ウツボグサはまだでしたが、他の2つは、ちゃんと花を咲かせていました。

 合流点には、チョウゲンボウの追っかけ老人カメラマンが、何時もたむろしています。今日も、5人のカメラマンが、大きなレンズのカメラを設置して、獲物を待っていました。彼等のレンズの先を見ると、1羽の鳥が、河原の木の枝に止まっていました。若しかしたら、チョウゲンボウかも知れないと、沢山写真を撮りました。所が、老人カメラマン達は、興奮する様子も無く、皆で談笑していました。家に帰って、パソコンで拡大してみたら、ガビチョウ(画眉鳥)でした。

 合流点に続く河原は、伸び始めた荻の葉と、草藤、ハナウド(花独活)が、自然の花畑を作っていました。流れの淵のキショウブ(黄菖蒲)が、何時もより綺麗に思えました。

 合流点から、大栗川を遡りました。合流点に沢山咲いていたハナウドが、大栗川にも沢山咲いていました。また、名前の分らない白い花が出て来ました。土手に野草のように咲いていましたが、恐らく栽培種だろうと思います。

 暫く歩いて、聖蹟桜が丘に着きました。今日の目的である、履歴用紙を買って、6時半頃、我が家に戻りました。今日の晩酌の材料は、昨日のSVスーパーで買ってありました。ここには、西友にはない、買いたくなるような魚介類があるのです。西友が、なさ過ぎるのかも知れません。鯛のカルパッチョ、カプレーゼ、貝柱とツブ貝のアヒージョ、豚の軟骨の炒め物で、美味しくワインを飲みました。

 

「豚菜にも 蜜はあるかや 蜜蜂さん 働き時の 春になったね」

「昨晩の 酒の肴が 並んでる 蕾の下には 野蒜の玉あり」

「この土手は 必ず君との 出会いあり 我より都を 思う都草」

「外来の 大金鶏菊 元気者 他を圧っする 黄色き花かな」

「多摩川の 河原に落ちた 白き雲 荻の河原の 白き花独活」

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2018年5月10日 (木)

2018年05月09日

2018年05月09日

 

 昨晩、我が家に帰ってくる時も今朝も、向ヶ丘が霞むようよな、雨の朝でした。我が家の近くでは雨で、確かに気温は低かったのですが、栃木県の山では、雪が積もった所があるそうです。ゴールデンウィークが過ぎて、関東地方で雪が降るのは、非常に珍しいそうです。

 北朝鮮関連のニュースが、世の中を賑わしています。トランプ大統領がイランとの和平協議からの離脱も、日中韓首脳会談も北朝鮮関連の出来事と言えるでしょう。多くの人が、様々な憶測を述べていますが、私の憶測の足がかりは、米国の軍需産業と隠れた白豪主義です。私は、直接これらに関係する人と会って話したことはありませんが、共和党の支持者の中に、関係する人のグループがあるようです。このグループは、世界に一定の緊張感があることを、良いことだと思っています。緊張感があれば、世界各国に軍隊は必要ですし、実際に戦争が起きなくても、演習という名で、軍需用品が消費され、米国の軍需産業も安泰です。このグループは、世界平和と国防の名目で戦争をしたいので、戦争の火種となる、国際緊張は、不可欠と言っても良いのです。トランプ大統領は、このグループと何等かの関係が有るはずです。トランプ大統領が、オバマ大統領のやって来たことを全部否定するのは、政党の違いだけでは無く、オバマ大統領の政策が、真に平和主義思考に基づく政策だからだと思います。実利主義者が、リベラリストを嫌うのと似たようなものです。この観点から憶測をすれば、イラン関連で、継続的な危機が生じれば、北朝鮮の段階的非核化を認め、在韓米軍も期限付きで居残るでしょう。若し、新たな火種がイラン関連でも起きなければ、北朝鮮の非核化は、リビア方式の米国が望む方式を押し通し、会談の決裂も辞さないのではないかと思われます。この場合、在韓米軍も在日米軍も現状維持となるでしょう。

 昨日、メキシコ時代の友人から、久し振りに電話がありました。何かと思ったら、彼が千葉の方で経営する学園の、監査役を引き受けて欲しいとのことでした。月に1回程度の理事会への参加と、年度末の会計監査の補助と学園経営に関する助言をして欲しいとのことでした。歳も取ったし、未経験の分野なので、躊躇しましたが、飲み友達からの要請でしたので、引き受けることにしました。こんな年寄りを使ってくれるのは、本当に有難いことです。

 今日は、雨は止んだものの日差しは無く、遠くへの散歩は止めて、土手を歩いて、石田大橋の先のSVスーパーまで買い物に行って来ました。

 4時頃に家を出て、土手を歩き始めると、両側に野蒜の花芽が沢山延びていました。花芽は柔らかく、料理に使えますので摘んでいたら、1本根元からすぽっと抜けました。他の野蒜も、茎の下の方を持って抜いてみると、多くが根から抜けました。普通は、土手の野蒜は、なかなか根から抜けないのです。昨日からの雨が、土を軟らかくしたようです。嬉しくなり、今夜の酒の肴に50本ほど抜きました。土手下の道には、木に巻き付いたスイカズラが、かなりの高さまで花を咲かせていました。この前、名前を知ったばかりの「イボタの木」も白い花を咲かせていました。背の低いタネツケバナのような花も咲いていましたが、名前を忘れてしまいました。

 国立市のSVスーパーで、何時もの鶏の軟骨と山芋買い、我が家の近くの西友で、ミートソースを作る材料の、タマネギ、パセリ、ニンニク、豚挽肉、トマト、トマトの缶詰、野菜ジュース、マッシュルームの缶詰を買いました。

 家に帰ったのは、6時半頃でしたが、それから巨人阪神戦を見ながら、ミートソースを作りました。一昨日、ピザを作った段階で、ミートソースの作り置きが無くなってしまったのです。

先ず、タマネギ10個を粗微塵、ニンニク、パセリ、セロリを微塵切りにしました。その後、200グラムのバター半分ぐらいで、微塵切りにした野菜と豚肉をある程度炒め、次に粗微塵のタマネギを加えて、しっかり炒めました。その後、ホールトマト4缶、野菜ジュース1本、マッシュルーム薄切り3缶と、ローリエの葉を10枚弱加えて、2時間程じっくり煮込みました。焦げ付かないように、良く注意してかき回すのが大事です。出来上がるまで一切水を足してはいけません。明日、コンソメスープの素で味付けし、更に1時間程度煮込みます。この時水分が足りないようだったら、野菜ジュースを足して煮込みます。スパゲッティーをあまり食べなくなったので、1年分のミートソースが出来ると思います。ミートソースは、長男が、生まれたばかりの頃、職場の寮で、イタリア人から直接教えて貰った、我が家の伝統料理なのです。

 ミートソースを煮込みながら、野蒜の玉を煮て、酒の肴として、辛子酢味噌で食べました。その他に、豚の軟骨の炒め物、冷奴、じゃこ天を肴に、日本酒で晩酌を楽しみました。旬の野草が一品入っているだけで、とても幸せな気分になりました。

 

「土手の道 野蒜の花芽 大賑わい 今夜の肴は 野蒜に決まり」

「土手下に 木登り上手の スイカズラ 目の高さまで 花を咲かせる」

「作り置き 無ければ心 落ち着かず 我が家の料理」

 

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2018年5月 9日 (水)

2018年05月08日

2018年05月08日

 

 夜が明けきらないような暗い朝でした。昼間は、雨が降ることは無いようなのですが、今日は、洗濯する気になれませんでした。

 便座から水漏れがしているので、3ヶ月程前、業者を呼んで対応しようとしたのですが、業者は、一目見るなり、「便座を買い換える他ありませんね」と一言言って帰っていきました。そんな訳で、ウォシュレットの便座から水漏れしているのは分っていましたので、水が落ちる場所にガラスの器を置いて、床を塗らさないようにはしていました。しかし、水が結構早く溜まってしまうので、自分で修理してみることにしました。

 3日前から、トイレの水漏れ修理に悪戦苦闘しています。水漏れがあると漏れている所が濡れているものですが、どんなに触ってみても、水漏れの場所が分らないのです。便座の下に潜り込んで、水を流しながら、懐中電灯を付けて、水漏れの場所を探しました。すると丸くて深い穴の奥から、周囲に触れず、直接水滴が落ちているのが見えました。だから水漏れの場所が濡れなかったように思えたのです。応急処置として、ビニールテープで穴を塞いでみましたが、時間が経つと水がビニールテープに隙間を作り、水漏れは治まりませんでした。もっと徹底的に対策をしようとして、娘に電話して、便座の外し方を教わり、お尻洗いのために水が通る栓をきつく締め、便座を戻して、何度もタンクから水を流してみました。すると3度目位から、水滴が落ちなくなりました。これで、水漏れの修理は出来たと思いました。所が、翌日になると、また水滴が落ち始めました。タンクの水を流すのと、水漏れとは関係が無かったのです。たまたま、便座の中に溜まった水滴を、タンクの水を流す時の振動で落としていただけだと言うことが分りました。お尻洗いを使わずに、タンクの水を流し続けると、振動で、それまでに溜まっていた水滴を落としてしまい、水漏れが止まったように思えたのです。栓を閉めたのも、効果が無かったのです。もう1回、明日挑戦します。

 今日は、二つの花の名前が分りました。1つは、妻の所から貰ってきて、今、ベランダで満開になっている、小型のフリージアのような花です。モントブレチア、またの名をクロコスミアというのだそうですが、その和名が、名が体を、実に良く現しているのです。ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)でした。もう一つは、よく見かけるのですが、育ちの良いニラだと思って、あまり調べる気にはならなかったのですが、この前、葉の臭いを嗅いでみたら、ニラの臭いがしなかったので、調べて見たら、ニラとは別種の植物だそうです。元は北アメリカ原産の外来種なのだそうですが、名前はハタケニラ(畑韮)でした。

 今日は、夕方6時半から、大学でOB会関連の会議に参加しました。4時半に家を出て、6時には、会議場に着きました。所が、前の会議が長引いて、我々の会議は、7時に始まり、終わったのは、9時半を過ぎていました。その後、9時45分頃から、中華料理屋で、夕食兼飲み会となりました。終わって、我が家に帰り着いたのは、12時半過ぎで、1時過ぎに寝ようとしたら、次男が帰ってきました。結局寝たのは、1時半位になってしまいました。

 何故、前の会議が長引いたのか、後で聞いた所に拠ると、OB会の中で、ハラスメントと思われる事件が起き、その対応のための協議をしていたそうです。詳しく内容を書くことは出来ませんが、誹謗中傷の類いでした。

ハラスメントに関しては、私も分らないことだらけです。ハラスメントは、犯罪行為として、具体的に法律で定義し、法で裁くことの出来る犯罪なのでしょうか、私には良く分りません。同じ言動が、受け取る人によって、激励が誹謗に変わったりするのを法律で定義出来るのか疑問です。法で定義されていないものを、裁くことは恣意的にならざるを得ないのではないでしょうか。法の下の平等が、どの様に確保されるのか、誰か教えて欲しいと思います。確かに、ハラスメントは、多くの場合、弱者に対する虐めの行為ですから、野放しにする事は出来ないでしょう。しかし、余程注意して対応しないと、冤罪と同じような事になります。特に、法で裁く前に、マスコミの報道が、社会的制裁を加えてしまいます。マスコミのレベルが下がり、特ダネ狙いばかりが横行する現代においては、マスコミにおけるリンチとも言え、非常に大きな社会問題と言えます。もう少し、勉強してみる必要がありそうです。

今日、ネットで調べたハラスメントに関する記述を書きに示します。ハラスメントの種類は、30種以上あるそうです。

ハラスメント(Harassment)とはいろいろな場面での「嫌がらせ、いじめ」を言います。その種類は様々ですが、他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えることを指します。

どのように感じ、考えるかは個人によって異なります。この点を充分認識し、日々他者への思いやりと配慮をもって行動することこそが、ハラスメントの防止において、最も重要です。

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2018年5月 8日 (火)

2018年04月07日

2018年05月07日

 

 雲の多い朝でした。朝8時頃から、雨が降り出すというので、選択を止めようかと思ったのですが、一向に雨が降る気配が無いので、洗濯をしました。適当に風があったので、午後1時頃には、乾いてしまいました。本格的な雨になったのは、午後5時頃からでした。

 昨日、西部多摩川線に乗ろうと思ったのは、一昨日、多磨駅に行ったからでした。良く散歩で歩く場所の近くの鉄道に、一度も乗ったことが無いのが、ちょっと悔しい気がしたのです。是政へ行くのは、京王線府中駅、南武線の府中本町駅、同じ南武線の南多摩駅、何れの駅からも、10分以上歩かなければなりません。そんな訳で、もう一つの終着駅、武蔵境駅から乗ることにしました。実際乗ってみると、非常に短い距離で、どうしてこんな所に鉄道を作ったのか疑問が湧きました。調べて見ると、最初は多摩川の砂利採集のために作られたとのことです。今は、廃止されている下川原鉄道と同じだったのです。それが、西武鉄道に合併され、現在に至っています。他の鉄道と接点があるのは、武蔵境駅だけでした。種々、面白い歴史を持った鉄道でした。

 終点の是政駅に下りると、直ぐ是政橋でした。是政橋を渡って稲城市に入り、上流の多摩川の右岸に行きました。ここの右岸は、土手が多摩市と繋がっていないため、歩いたことが無かったのです。現在この土手の下は、草藤と赤ツメクサの紫の絨毯が敷かれているようでした。何故か、ここの赤ツメクサは、大きくて背が高いのです。所々に、野薔薇の白や米粒ツメクサの黄色が混じり、花畑のようでした。土手の上には、スイカズラが、崖を埋めていました。何時もと違って、多摩川越しに、府中の街を眺めました。

 その後、一旦是政橋に戻り、南多摩の方から、川崎街道を歩いて聖蹟桜が丘に出ました。この間の川崎街道は、米軍のゴルフ場と桜が丘カントリーの間を通るので、新緑を楽しみながら歩くことが出来ました。結構な歩きとなりました。

 所で、今日は、一日中家に居たために、午前中は、何時もの通りでしたが、午後は、料理をしたり、録画してあったドラマを見たり、便座の水漏れを調べるなどして過ごしました。

 朝食は、買って来た鰺フライと味噌汁とご飯、昼食は、この前採ってきた蓬と、葱、蕗の薹、セロリ、山芋、卵で、ふわふわオムレツを作り、更にオニオンスープを作って食べました。なんだか、薬味のオムレツのようになり、身体には良さそうでしたが、味は今一でした。夜は、ピザとエリンギの炒め物を作り、買って来たチーズで、ワインを飲みながら、晩酌を楽しみました。

 午後は、録画して置いたテネシーワルツと言うドラマとエンジェルと言うドラマを見ました。エンジェルは、センチメンタルファンタジックとでも言うようなもので、苦手なドラマでしたが、三木のり平を暫くぶりに見ました。テネシーワルツは、戦後の混乱期を生きた、人間関係が引き起こす殺人事件のドラマでした。回想として出て来る、進駐軍とパンパンと呼ばれた進駐軍相手の女性の話には、胸がじーんとして、目頭が熱くなりました。正確な記憶ではありませんが、私が住んでいた長崎市にも、随分長いこと進駐軍がいて、進駐軍相手のキャバレーも沢山あったようです。多分、昭和27年、サンフランシスコ平和条約によって、日本は独立国となり、占領政策を実施していた進駐軍はいなくなったと思います。その代わり、日本は、国家として日米安保条約を結び、進駐軍は米軍として、長崎では佐世保に残りました。この頃の私は、まだ小学校の低学年でしたから、大人の話は、殆ど知りませんでした。しかし、ませた子がいて、学校にコンドームを持ってきたりしていました。それでも私は、それが何に使われるのか、何故その子が持っているのか、何も分りませんでした。所が、高校生の頃、近くに住んでいた同級生の女の子が、急に大人のようになり、下着姿で家の外に出てくるようになりました。平然とタバコを吸っていました。まだ、16歳か17歳だったと思います。高校3年生になった時、2年下に、外国人の子供が、何人もいました。色の黒い子も白い子もいました。その頃には、父の兄弟が、どの様にして死んでいったか、原爆が落ちた当時のこと、戦後の進駐軍時代がどの様であったのか、父を始め、多くの人から当時の話を聞きました。そして、自分が成長する間に見て来た、多くのことに合点が行きました。友達の中にも、人に話せないような過去を持つ者が、何人もいました。生きることに精一杯の時があったのです。このドラマのように、戦後を引きずって生きてきた人は、数多くいたと思います。私より、10年下までの人間が死に絶えれば、私達が、幕末を遠い歴史だと思っていたのと同じように、戦後も遠い歴史に変わるでしょう。

 

「予期せざる 嵐を越えて 生きてきた 時は流れて 全てが思い出」

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2018年5月 7日 (月)

2018年05月06日

2018年05月06日

 

 今朝は、昨日よりもくっきりと富士が見えました。昨日までは、空気の中に、冷気を感じたのですが、今日は、冷気を感じませんでした。

 大型連休も、何時の間にか最後の日になってしまいました。光陰矢の如しと言いますが、もう学ぶ時期は過ぎた老いの身にとっても、光陰は更に速度を増しているように思います。私は、来世を信じていませんので、死は消滅を意味します。生命の誕生と死は、不可思議の極限のような気がします。百兆に近い細胞が、一個の個性を保ちながら、生命を維持しているのです。一個の細胞を構成している分子は、一体何個あるのでしょうか、そして1個の分子を構成する原子の数、更には原子を構成する素粒子は、一体何個あるのでしょうか。このように無限に細分化が進みますが、素粒子から先は、まだ人知の及ぶ所ではありません。これらの、想像を遥かに超える数の素粒子を、何がどの様に制御して、生命を維持し、個性を保つのでしょうか。この個性があるので、私は私として、他から認識されます。不可思議としか言い様がありません。そして、命には必ず終わりがあります。素粒子から出来た原子、原子から出来た分子、分子から出来た細胞、細胞から出来た臓器が、次第に老朽化し、死に至ります。老朽化とは何かも、まだ分っていません。多くの細胞は、補修作業が行われ、新しいものと入れ替わっているのに、矢張り臓器の使用期限はあるのです。あまりにも人知を越えた不可思議さのために、人知を越えた神の存在が考え出されました。不可思議からの逃げ場所かも知れませんし、細分化とは逆の、拡大化を考えれば、人間の住む地球も宇宙も、何かの生命の一部だという考えを、人知で否定することは、難しいのだろうと思います。それを神という言葉で、現しているのでしょう。中世からの神は別として、科学が進展した現代風の神は、良く言えばそんなものかなと思っています。不可思議だ、不可思議だと言っても、現実に地球も宇宙も存在し、生物も存在し、私という個人も認知出来るものとして存在します。この存在だけは認めざるを得ないし、超不可思議な存在なので、命の続く限り、その存在の不思議さを感じつつ、毎日を楽しみたいと思います。仏教の古典である般若心経は、既に、この事を悟っていたように思えます。宗教が、個々人の悟りを大切にし、組織的強制をしないのであれば、私も宗教を嫌いにならないで済むのですがねー、、、。自分自身の悟りのために、座禅だけを組むのであれば、宗教という感じは全くありません。訳の分らない歴史や、神や仏の教えを偉そうに語る、神主や坊主、勿論、カトリックの神父も、イスラムの牧師も、好きになれません。

 今夜、娘から3匹の飼い猫の内の1匹が、老衰のため死んだことを知らされました。私の前の妻(娘の母)が死に、私が海外勤務となり、そして私の再婚、更には娘自身の結婚と、娘にとっての人生の激動期から、ずっと娘の側にいた猫でした。人は、家族や親しい友人の死に直面すると、自分自身の人生の一部も無くなったような気がします。娘にとっては、今日死んだ猫は、激動期を一緒に過ごした一番の仲間だったのだろうと思います。既に10数年生きて、猫としての寿命に迫っていたので、娘も死はある程度予感していたのでしょうが、現実に死と向き合うと、自分自身の人生が走馬燈のように周り、悲しみを禁じ得なかったのだと思います。また、孫達にとっては、生まれた時から、2匹の猫を家族の一員として一緒に暮らしてきました。今日死んだ猫は、孫娘が一番可愛がっていた猫でもありましたので、孫娘の悲しみも尋常では無かったようです。今後、娘は自分の心の回復と同時に、孫娘の心に注意してやる必要があるでしょう。親が、死は必然として、きちんと死と向き合えば、子供の立ち直りは、早いものです。

 猫の死から、普段と違った日記になりました。今日は、中央線の武蔵境駅から、西武多摩川線で(実は、京王線だと思ったのは、私の間違いでした)で、是政に行き、是政橋を渡って、多摩川の右岸に出ました。そこから、南多摩へ戻り、米軍のゴルフ場と桜が丘カントリーの間を走る川崎街道を歩いて、聖蹟桜が丘に出ました。色んな花達と出会いました。長くなりますので、今日は止めて、明日書くことにします。明日は、1日中雨らしいので、散歩の予定は有りませんから。

 

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2018年5月 6日 (日)

2018年05月05日

2018年05月05日

 

 雲1つ無い、快晴の朝でした。それなのに富士が見つかりませんでした。双眼鏡で見つめると、幽かな幽かな富士を見つけました。

 端午の節句、子供の日になりました。最近は、鯉幟を上げる家が少なくなりました。最近は、庭も無いような家が多くなりましたので、風に泳ぐような、鯉幟を上げるのは、無理だと思います。夜のテレビで、池上彰の「何時の間にか変わってしまったこと」という番組をやっていましたが、本当に、色んな事が変わりました。私のような老人は、昔ばかり懐かしみますが、変化は革新です。一度変化を知った人間は、変化の無い生活をするのは、難しいでしょう。確かに、変化が常に良いとは言えず、改悪も多々あります。それでも、変化の無い社会には、ダイナミズムは生まれず、社会も活力を失います。我々は、物凄い変化の中で生きることが出来ました。この事に関しては、本当に感謝しかありません。

 安倍総理の、国防政策に対し、野党も私と同じような意見を持ち、戦争を出来る国にしていると、避難を繰り返しています。しかし、安倍総理は、あくまでも専守防衛であり、憲法の趣旨は尊重していると、彼らしい厚顔な返答を繰り返しています。野党も単に反対を述べるだけで無く、自分達が政権を取ったら、どの様な政策をどの様に推進するか、その点を確立して質問して欲しいと思います。民主党が政権を取った時、急場凌ぎで政策を作ったので、現実の行政と齟齬が出たり、相手のある外交政策を無視したり、出来もしない約束をしたり、自分の党のガバナンスも出来ない状況になりました。国民にあきれられてしまいました。これでは、政権交代が出来ず、一党独裁型の政治になってしまいます。それでは、真の民主主義とは言えないと思います。野党の意識改革をお願いします。

 今日も良い天気でしたので、武蔵野公園、野川公園、武蔵野の森公園、東京外語大学、「くらやみ祭り」に行って来ました。

 次男を送り出して、2時過ぎに家を出ました。我がアパートの玄関の前の道に、我が家のベランダで咲いている花と同じ花が咲いていました。道の横の一軒家にも咲いていましたので、この家の人が道に植えたのだろうと思います。何時か、名前を聞いてみようと思いました。

 昨日と同じようなルートを通り、武蔵野公園に着いたのは、3時15分位でした。武蔵野公園は、エゴノキ林をだけを見ました。10本程度のエゴノキ林なのですが、ちょっとした花見気分が味わえるのです。ただ、既に盛りは過ぎていました。他を省略して、野川公園に急ぎました。自然観察園が、4時で閉まると思ったのです。自然観察園に付いたのは、3時半でしたが、閉門は4時半でしたので安心しました。

 今日の自然観察園では、セリバヒエンソウ(芹葉飛燕草)と踊り子草を沢山見ました。私の散歩する多摩地域には、姫踊り子草は沢山ありますが、踊り子草を見るのは珍しいのです。また、我が家の近くの土手下の道に咲いている、花の名前が分りました。ヤセウツボ(痩靫)でした。薄茶色で土筆のような形をして、あまり好きでは無いのですが、名前が分ったのは、嬉しかったです。また、空木のような花を付けた木の名前も分りました。イボタの木と言うそうです。これも、土手下の道にありました。この他にも、フタリシズカ、キツネノボタン、ウマノアシガタ、クリンソウ、キツネアザミ、チョウジソウ、キツネノアザミ、ガマズミ、マユミ等の花を見ました。

 観察園を出て、観察園の事務所に寄りました。茶色の枇杷に似た実を付けている木の名前を聞きに行ったのです。事務員に写真を見せると、即座に「ソシンロウバイ(蘇秦蝋梅)です」と答えました。ソシンロウバイは、郷土の森公園の蝋梅園で、花は何度も見ていますが、実は、花の時期以後は、見たことが無かったのです。今度、郷土の森公園で、確かめてみましょう。

 東八道路を渡り、野川公園の本園へ出ました。昔のフェアウェイで、多くの家族ずれが遊んでいました。道脇に、今まで見たこともない、黄色い小さな花を見つけました。茂った野草の中で、何処でも我が物顔の春紫苑が、たった一輪咲いていました。春紫苑とは思えぬつましさでした。

新緑の林の下の道を抜け、野川公園から、府中の森公園に移りました。修景池の葦の若葉が、枯れた葦の穂の半分まで、大きくなっていました。ヒドリガモは北へ帰ったので、寂しい池になっていました。そこにカイツブリが、ひょこっと顔を出し、潜ったり顔を出したりを繰り返しました。留め鳥になったのでしょうか、井の頭公園では留め鳥になったと聞きましたので、ここもそうかも知れません。しかし、周囲に林もない小さな池ですから、暮らしていけるのでしょうか、心配です。ここに、住着くのではないかも知れません。

 武蔵野の森公園から、休みで学生が殆どいない、東京外大を抜けて、東京外大北というバス停で、バスを待っていたら、多磨駅行きのバスが、目の前の交差点を左折しました。その先が、多磨駅に違いないと思い、歩いて行きました。ものの2,3分で、京王是政線の多磨駅に着きました。この駅は、初めてでした。そもそも、是政線は、何処かで京王線と乗り換えが出来るのでしょうか、まだ一度も是政線に乗ったことがありません。

 多磨駅が、バスの始発駅でしたので、バスで飛田給駅に出て、府中に出ました。3日連続で「くらやみ祭り」を見ました。今日は、「くらやみ祭り」のメインとも言える渡御が行われました。お祓いの竹を先頭に、白装束の神主、和楽隊、神器の列、大太鼓、8基の神輿が、大国魂神社から、御旅所まで移ります。何度か見ているので、途中で帰ろうと思ったら、人混みを抜けるのに、大変な思いをしました。外国人のせいでしょうか、年々人が増えているように思いました。

 

「痩靫 初めて君の名 知らされる 海のウツボに 似るとこありし」

「花笠を 付けて揃いの 舞い姿 風に揺れてる 踊り子草かな」

「君と似た キツネノボタンと 間違える 花片光る ウマノアシガタ」

「緑の葉 茶色の実のなる 君の名が 春告げ花の ソシンロウバイ」

「茂りたる 野草の中に ただ一輪 つましく咲きぬ 春紫苑かな」

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2018年5月 5日 (土)

2018年05月04日

2018年05月04日

 

 素晴らしい朝でした。青空の下に、富士がくっきり見えました。通常、朝は見えても直ぐに姿を隠すのですが、今日は、午後になるまで見えていました。日差しは強くても、空気には冷たさが感じられて、本当に気持の良い日でした。

 毎日、日記に朝最初にベランダに出た時の天気を書いています。これは、自分に対する1種の物忘れ防止の訓練のようなものです。日記は、前日の出来事を、翌日の朝書くことにしていますので、前日の朝の天気がどうだったか、きちんと覚えていられるか、それを思い出すことが訓練なのです。細かいことを全部覚えていることは不可能なので、富士が見えたかどうかを基本として、雲の様子とかを付け加えています。日記は、家族に私の近況を知らせるために始めたのですが、日記そのものが、物忘れ防止の訓練になっています。

 先日、何処に行ったか分らなくなっていた、修正テープが出て来たことを書きました。実は、大分前から、本が1冊見当たらないのです。私の職場の先輩が書いた、「スペイン語で楽しむ百人一首」という本です。先輩からサインまで貰ったのに、見当たらないのです。ずっと気に掛かって探しています。ことほどさように、老いの新興が進んでいるのです。

 所で、国防について少しだけ付け加えると、安倍総理は,世界の最強国である米国の大統領と上手くやっているように見えます。若し、安倍総理が、諸国民の公正と信義の象徴として、米国に忠義を尽すのであれば、私の考えと大差がない事になります。しかし、安倍総理には、世界平和の大義には関係なく、何時かは、日本も米国と肩を並べるだけの力を持ちたいが、現時点では力に差があるので、嫌々ながら、米国に忠誠を尽しているという裏が、透けて見えるような気がするのです。安倍総理の言っている国防は、単に国防に留まらないと思います。安倍総理は、アメリカと同等の力を持ったら、日本や世界をどの様にして行こうと思っているのか、それが全く見えないのです。闇雲に富国強兵を目指した、戦前に戻るのではないか、そんな恐怖を感じます。

 今日は、多磨霊園から浅間山公園、府中の森公園を歩き、昨日と同じく、大国魂神社の「くらやみ祭り」に行って来ました。昨日、郷土の森公園で、キスゲが咲いていたので、武蔵野キスゲの自生地である浅間山公園に行くことにしたのです。

 2時過ぎに家を出て、聖跡へ行くバスと、京王線の多磨霊園駅から多磨霊園に行くバスの待ち時間が長く、多磨霊園に着いたのは、3時15分頃でした。家を出た時は、良く晴れていたのですが、多磨霊園の上には、急激に暗雲が広がり、風も出て来て、不気味な感じになりました。多磨霊園から浅間山に向かう途中、栃の木並木を通りました。多磨霊園は、道路脇の木は別として、霊園内の木々の剪定をしないので、木々が各々の個性の通り、自由に大きくなっています。そんな訳で、霊園の中の木々は、見応えがあります。聖蹟桜が丘の栃の木並木は、無残に剪定されていますが、霊園の栃の木並木は、雄々しく育ち、今、花が満開でした。9割方が白花でした。栃の木には、二つの思い出があります。一つは、栃の木がフランス語では、マロニエと言うことを、日本の詩人の本で知りました。しかし、私は、栃の木を全く知りませんでした。所が、就職してから、職場の近くの並木が、栃の木であることを教えて貰いました。成る程と思いました。歳を取ってフランスに旅行しました。マロニエは沢山ありましたが、角刈りに剪定されたものが多かったようです。私の中にあった、マロニエのイメージが壊れました。もう一つの思い出は、私の子供が幼い頃、斎藤隆介と滝平二郎の「もちもちの木」という絵本を、よく読んで聞かせたものです。「もちもちの木」が栃の木なのです。この絵本の中に出て来た、栃餅を食べたのは、随分後になってからでした。

 浅間山は、武蔵野キスゲが、一番の見頃を迎えていました。花の命は短いので、今日浅間山に来て本当に良かったと思いました。浅間山には、金襴や銀欄も咲きますが、10本程の金襴が蕾を付けていただけでした。蘭の時期は、もう少し後のようでした。銀欄は、元々数が少ないので、花の時期であっても、探すのは困難を極めます。

 浅間山を下りて、府中の森公園に着きました。梅も桜も散り果てて、見るべきものは少ないのですが、山法師が満開になっていました。その周囲には、楠の鮮やかな新緑が、際立っていました。

 府中の森公園から、チューバスで府中駅に着きました。丁度、「くらやみ祭り」の山車の行列が始まる所でした。昨日の囃子比べの時の山車と同じなのですが、

今日は、昨日より更に多い山車が、大国魂神社の前の、旧甲州街道に勢揃いしました。中々壮観でした。今日というか明日というか、午前0時半頃から、万燈式があるのですが、帰るのが大変ですので、6時半には、府中駅から聖蹟桜が丘に戻りました。

 聖蹟桜が丘のスーパーの前で、九州のうまい物市が行われていて、私が大好きな、長崎のお菓子である一口香、黒棒を売っていましたので、一も二もなく買ってしまいました。

 

「大木の 無数の蝋燭 揺れている 嵐の中の 満開の栃」

「星の夜 裸の栃に 花が咲く 子供に読んだ 絵本の思い出」

「マロニエは 世界の都 パリに咲く 青年時代の 我が心にも」 

「雲間から 時々森に 日の入り 燈火に変わる キスゲの朱かな」

「満開の 山法師にも 引け取らぬ 新たな命 楠の新緑」 

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2018年5月 4日 (金)

2018年05月03日

2018年05月03日

 

 激しい雨の朝でした。風も強く、ベランダが水浸しになっていました。その雨も7時頃には止みました。

 昨日の日本の国防に関するブログに対し、関西の友人からコメントがありました。人間ですから、全く同じ意見とは言えませんが、概ね私の意見に賛同してくれました。政府は、見栄や外聞に拘らず、今後とも、国民を戦争で殺すことをしないし、他国の国民も殺さない、戦争放棄という憲法で定めた基本方針を守って欲しいと思います。安倍政権は、国を守る自衛隊員の地位を確固たるものにしたいと言っていますが、同時に、戦争への可能性を、徐々に確実に拡大しています。そして、不幸にして戦争が起き、国民が死んだら、靖国神社に祀ってやるから有難く思えと言っているように聞こえます。また戦争をやらしてくれと言っているようにも聞こえるのです。どうして、このような発想になるのか、私には良く理解が出来ません。

 昨日、入金の知らせがあった日本の銀行の、入金を確認しました。昨日入金されていました。米国の銀行が、「8日までには入金が出来るでしょう」と言った意味が分りました。日本は、今日から大型連休の後半となり、6日までは、銀行業務が行われません。米国の銀行も、そのことが分っていたのです。

 入金を確認したので、米国の銀行関係の書類を全部廃棄しました。小切手帳やデビットカードにも鋏を入れました。こうやって整理をしていると、断捨離も気分が良いものだと思いました。

米国の銀行のデビットカードを探している時に、重要書類を入れている机の引き出しから、この前から探している修正テープが出て来ました。普段修正テープを入れるペン皿の直ぐ上の引き出しです。何故、こんな所に入れたか、しかも、書類の下に入れたのか、今でも謎です。

午後になると、青空も見えるようになりましたので、郷土の森から、大国魂神社の「くらやみ祭り」に行って来ました。毎年、ゴールデンウィークには、フィエスタメヒカーナをやると思っていたのですが、今年は9月にやるらしく、予定がなくなりました。

2時半頃家を出て、土手から1本内側の道を歩きました。この道には、小学校が2校、中学校が1校あり、普段は日曜日であっても、子供の声が聞こえるのですが、今日は、全く子供がいませんでした。大国魂神社の祭りに駆り出されているのでしょう。2番目の西府緑地の楠が、芽吹きと共に木1杯に花を咲かせていました。まさしく木が燃えているようでした。1本しかない「むくろじゅ」の実が、強風に煽られて、山程落ちていました。小山程の実を、拾ってきました。中河原公園の棗の木は、他の木に較べると芽吹きが遅く、今が新緑の季節でした。花は夏頃咲くのでしょう、まだ蕾がありませんでした。

郷土の森公園へ行く緑道で、まるで花のような芽吹きをする木に出会いました。この木の名前は、まだ分りません。郷土の森公園には、4時少し過ぎに着きました。昨日から、リニューアルオープンしたプラネタリウムを見ようと思ったのですが、着いた時刻が遅すぎました。公園も5時には閉めるというので、駆け足で一回りしました。キスゲや睡蓮の花が綺麗でした。人出が多い時には、必ず出ている、小母さんの飴細工、小父さんの針金細工が、今日も出ていました。小母さんの飴細工を、二つ買いました。

郷土の森公園から、下川原緑道を通って、旧甲州街道出ました。例大祭の幟が両側に並んで、強風にはためいていました。境内の入口近くで、生ハムの大きなもも肉と、パルメザンチーズの大きな塊から、その場で切り売りをしていました。どちらも大好きなので、これは買わざるを得ない気持になり、買ってしまいました。「ワインは売っていないの」と聞くと、ワンカップ大関みたいな、カップ入りのワインを出してきました。ワインも買って、境内の近くの歩道の石をベンチ代わりにして、境内に入る人達を見ながら、ワインを楽しみました。私が、飲み始めると、両隣に若いカップルがやって来て、境内で買って来た焼きそばを食べ始めました。一つの焼きそばを、二人で分け合って、楽しそうに食べていました。若さが、眩しく感じました。

ワインを飲んで6時過ぎとなり、辺りが少し暗くなってきた頃、欅並木の参道に10数台の山車が、入って来ました。山車の上では、子供達がお面を被って、お囃子の踊りをやっていました。この山車は、参道にズラリと並んで、お囃子比べをやるのです。「くらやみ祭り」の中で、私が一番好きな行事です。子供等が踊る姿に勝てるものは、ないでしょう。それにしても、参道に境内、よくぞこれ程の人が集まったものだと思いました。ここにも、外国人が沢山いました。

午後7時から、馬に乗った武士が、旧甲州街道を走る行事があるのですが、それは見ないで、我が家に帰りました。久し振りに良く歩きました。

 

「可憐なる 君が野草と 思えぬが 路傍に賑やか 昼咲き月見草」

「大木が 他を圧する 萌黄色 常緑楠の木 花も満開」

「昨晩の 雨が茸の 目を醒まし 切り株糧に 傘を広げる」

「強風が ムクロジュの実 地に落とし 喜び勇んで 拾う爺さん」

「杉苔に 花が咲いたと 思いきや 米粒ツメクサ 花筵かな」

「あれれれれ マッシュルームの 行列や 今宵の肴に なれば良いのに」

「我が背越す トベラ花咲く 花の道 垣根の時とは 違う華やぎ」

「何故か 棗の様子が 気に掛かる 外国生まれの 花の木なれば」

「五月には 花菖蒲が 似合いなり すくっと背伸び 花片ふわり」

「小判草 少し前まで 緑色 漸く小判の 黄金色かな」

「春紅葉 緑の葉をば 落とすかや いやいやこれは 未来の紅葉」

「蕾から 赤き大きな 花開く そう思わせる 芽吹きもあるなり」

「水面に 牡丹の花が 浮かび出て 艶やかなりし 睡蓮の花」

「麦の穂が 風に煽られ 身を捩り 風の形に 姿を変える」

「住宅地 僅かに残った 畑には 幾重も重なる 葱坊主の列」

「祭りの日 思いもよらぬ 生ハムが 買っておくれと 我を誘えり」

「宵の口 笛や太鼓に 面踊り お囃子比べは 子供が主役」

「何年も 一度は必ず 顔を出す 府中名物 くらやみ祭り」

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2018年5月 3日 (木)

2018年05月02日

2018年04月02日

 

 雲の多い朝でしたが、時々日差しがありました。夕方から雨に変わるというので、大急ぎで選択しました。

 午前中やるべき事が終わった頃に、日本の銀行から電話があり、米国から送金を受け付けたとの連絡が入りました。米国の銀行は、8日ぐらいまでにと言っていたので、翌日に届いたので、少々驚きました。明日にでも口座を確認しようと思います。

 今日は、大学のOB会の会議が、午後6時半から都心で行われので、近場を少しだけ歩き、買い物をして、5時少し前には、家を出ました。予定通りに行けば、6時10分には会議場に着くはずでしたが、バスが15分も遅れて、その分だけ遅れて、6時25分に会場に着きました。大急ぎで、サンドイッチを食べましたが、食べ切れず半分残したまま会議に入りました。

 会議は、1時間少々で、何の問題もなく終わり、2次会として、近くの中華料理屋に行きました。そこで、最近大きな関心を呼んでいる、財務省の次官によるセクシャルハラスメントと北朝鮮問題の変化に対応した日本の国防の問題が、話題になりました。2つとも、他の人と私の考えには隔たりがあり、私が意見を述べると、皆の話が途切れてしまう結果になりました。

 セクシャルハラスメントに関しては、別の機会に書くことにして、今日は、国防の問題の一部を書くことにします。他の人の国防に関する意見は、安倍総理の考えとほぼ同じで、憲法を改正し、国防に専念する正規の国防軍を創設し、自国は自国で守るべきと言うことでした。安倍総理の考えと、ほぼ同じでした。と言うことは、日本会議が目指す所とも、ほぼ同じだと言うことです。この考え方が力を持ってきたのは、太平洋戦争の風化、日本経済の停滞、世界特に極東における国力の相対的低下が、原因だと思われます。そして、その裏には、「中国人や朝鮮人に嘗められてたまるか」という、日本の文化、歴史を特別なものとし、他を蔑視する右翼的考えがあります。社会が低迷すると、何故か自国中心の右翼的考え方が、力を持ち始めます。世界中、同じような傾向が見られます。

 所で、北朝鮮問題の今後については、予測は難しいですが、日本にとって最悪のシナリオは、北朝鮮の核を保持したまま、南北が統一され、米軍が韓国からも日本からも撤退し、自国領のグアム、サイパン辺りから極東に対応することでしょう。これは、米軍が日本を守らなくなることを意味します。このような事態をも想定して、国防軍の創設が急務だと、安倍政権が動いているのだと思います。

 確かに、弱肉強食の国際社会に於いて、力無き国は、滅びる可能性は高いと思われます。しかし、弱小国でも生きている国は沢山あります。強国に上手に追随するのです。悪く言えば、媚びへつらうのです。日本は、太平洋戦争の反省として、憲法の前文において「、、、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。、、、」と表明し、9条において、「 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と宣言しています。実は、私は、終戦後のリベラルな日本人と同じように、この憲法の規定とそれを守ろうとする国民の意思が、日本国を守ると今でも思っています。

 国際的な公正の概念は、現実にあるものでもなく、将来的にも出来る可能性は少ないと思っています。それでは、前文に言う、諸国民の公正と信義に、国の生存を委ねるのは、無謀と思われます。しかし、私は、この公正というのは、哲学者が考えた概念として存在するのではなく、その時期の最強国あるいはグループの考え方だと思っています。最強国は、第2次世界大戦以降は、米国プラス英国です。弱肉強食の中で、弱小国が生きて行くには、最強国の保護下に入るのが、一番安心出来る方法です。武家社会の戦国時代を経験した日本人ならば、この主従関係については、理解出来るはずです。いかにも現実的なこじつけとの意見も多いかと思いますが、私は、これしか日本が生きて行く道はないと思っています。下手に軍を持つと、米国にも警戒心が芽生えます。主君に警戒心を持たれたら、何時か対立が起き、他の弱小国の陰謀に惑わされて、主君が部下を滅ぼす事は、歴史的にも山程ありました。忠誠は、徹底した方が良いのです。そして、得意の分野で、中々役に立つと思われるように振る舞うことです。

何より有難いことは、現在の最強国が、移住者が作った、民主主義の国だと言うことです。世襲権力もなく、個人の人権が尊重され、自由と法の下の平等を享受出来るのですから、よくぞ米国が最強国になってくれたと思います。

次に最大の課題は、今は揺るぎのないものである米国の信義を、どの様にしてつなぎ止めるか、何が米国の真義を低下させるか、最強国が変わる可能性があるか、米国以外の国との付き合い方等については、また次の機会に書きたいと思います。

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2018年5月 2日 (水)

2018年05月01日

2018年05月01日

 

 今日も、富士が見える上天気の朝でした。

 昨晩、尿意のために起きて、トイレに行こうとしたら、足が痙ってしまいました。最近、足が痙りそうな予感はありました。日中ではなく、何時も夜でした。寝ている時、足を突っ張っているのかも知れません。本来なら筋肉を休めている筈の就寝から醒めた時に痙るのは、身体の何処かに異常があるのではと、気に掛かります。癌の手術をした一昨年まで、病気とは無縁だと思っていました。最近は、自分の身体が、少しずつ壊れていくのを感じます。

足が痙ったのは、午前3時頃で、目が醒めてしまって、その後暫く眠れなくなりました。ベランダに出てみると、まだ満月が西の空に残っていました。数独パズルをしながら、ベッドの上で、ごろごろしている内に、眠ってしまったらしく、次に起きたのは、8時過ぎでした。昨日の朝の、ご飯とアサリの味噌汁、小鰺の煮付けを残しておきましたので、簡単に朝食を済ませました。

日記を書いている時に、米国の銀行から電話がありました。口座の解約と残金の日本の銀行への送金手続きが完了したそうです。米国時間の5月1日に、口座がなくなり、5月8日までには、日本の口座への送金が、完了するそうです。終活の1つが終わり、すっきりしました。

昼食の後、Gパンの補修をしました。最近、Gパンは、破れて肌が見えるのが、お洒落のようになっていますが、私は同意しかねます。アイロンだけで簡単に補修出来るデニムの布を買ってきて、補修しました。布は裏から当てて、表の綻びだけは、最近の流行に合わせて残しました。本当は、断捨離で捨てた方が良いのかも知れませんが、それが出来ないのは、幼い時期に戦後の貧しい時期を過ごしたからだと思います。

午後3時頃から、立川根川公園まで歩いて来ました。この所、予定が多くて、思うように散歩が出来ていませんでした。

最初は、土手下の道で、蓬採りをしました。この前、妻と会った時、蓬は身体に良いから、冷凍して置いて、色んな料理に混ぜると良いと言われました。蓬餅とか、蓬の入った食べ物は嫌いではありませんので、妻の勧めに従ってみることにしました。こどもの頃、蓬は、専ら血止めに使っていました。蓬は、土手下の道には山程あり、今が新芽の季節であり、僅か20分程で、スーパーの大きめのビニール袋に、1杯になる程、若芽を摘むことが出来ました。

草藤、野薔薇が、花の盛りを迎えている、土手下の道を歩いて、立川の根川と多摩川が合流する地点へ着きました。この辺りは、鬱蒼とした林で、せせらぎには、カワセミをよく見かけたものでしたが、今は、カワセミを見る機会が、殆ど無くなりました。林の木は全部切られ、せせらぎは、コンクリートで固められ、水門も建設中でした。「野生の生物は去れ」と言っているようでした。本当に、こんな工事が必要なのでしょうか、納得が出来ません。

根川公園に入ると、新緑の桜並木の下に、山吹の花の跡が、星を乗せたように枝垂れていました。桜の木の下に、桜の花片と見紛うような、薄紫の絨毯が見えたので、近づいてみるとサギゴケでした。白ツメクサ、春紫苑が、何処にでも咲いて、我が世の春を謳歌していました。黄花ツメクサとも言うそうですが、米粒ツメクサも随分増えていました。池には、コウホネの花が咲き始めました。根川の源流である噴水の池では、魚達がジャンプを繰り返していました。空中の虫を狙っているのですかねー、私には虫は見えませんでした。

残堀川に突き当たってから、崖上の道に出て、住宅地を歩きました。どの家の庭にも、花が咲いていました。春ですねー、紫蘭の紫が、目立ちました。近くに、まるで雪に埋もれたような、白花の木があったので、近寄ってみるとピラカンサスでした。この花を見ると、秋の溢れんばかりの赤い実が納得でしました。一軒の住宅に、とても不思議な木があります。花も凄く変わっていますが、花の跡は、更に変わっていて、ふんわりとした胡麻塩頭のようになります。何度も写真を撮っているのですが、未だに名前が分っていません。

箱崎体育館からモノレールで高幡不動、京王線で聖蹟桜が丘に出て、我が家に戻りました。一風呂浴びて、早速、蓬の処理に掛かりました。良く洗ってから、大きな鉢に入れて、電子レンジで温めました。煮るよりも、電子レンジの方が、養分が残ると聞いたことがあったからです。沢山取り過ぎました。3回に分けて電子レンジで温め、使いやすいように、ラップで小分けにして、ビニール袋に入れて冷凍しました。結構手間が掛かりました。

 

「明日のため 春の野に出で 蓬摘む 我が衣手に 夏の日そそぐ」

「多摩河原 夏も近づく 晩春に 草藤野薔薇の 競い咲くかな」  

「花も良し 花の終わりは 更に良し 星を並べて 枝垂れる山吹」

「今こそが 我が世の春と 咲き誇る 路傍に続く 春紫苑の花」

「新緑の 桜の下の 花筵 桜思わす サギゴケの花」

「大柄の 葉陰に身を寄す 赤ん坊 黄色き帽子の コウホネの花」

「小魚が 盛んに水面 飛び跳ねる 誰が教えた 空中ショーか」

「新緑の 草木の上に 顔を出し 私が分ると 問うシャガの花」

「枝も葉も 真白き花に 覆われて 溢れんばかりの ピラカンサスの花」 

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2018年5月 1日 (火)

2018年04月30日

2018年04月30日

 

 今日は、孫達が泊まっているので、カーテンを引いたのは、10時近くでした。幽かではありましたが、富士も見えて良い天気でした。

 今日は、孫達と遊びに行くので、9時半頃から、大急ぎで朝食を用意しました。アサリの味噌汁を作り、鰺の開きを焼き、昨晩の残りで、10時半頃から、朝食にしました。アサリの味噌汁は、好評でした。11時には、朝食を終え、今日、仕事が休みで、遊びに付き合ってくれる次男を起こして、11時半には、出発しました。色々迷っていたのですが、甲府市の「愛宕山こどもの国」に行くことになりました。

 我が家の近くの、国立府中インターから、中央高速に入り、甲府で下りて、ガソリンを入れ、コンビニで昼食を買って、1時半過ぎに「こどもの国」に着きました。孫達は、直ぐに遊びたがりましたが、取り敢えずは、昼食にしました。ものの15分位で、昼食は終わり、孫達は、遊具の方に駈けて行きました。大型のシーソー、様々な仕掛けのある巨大なジャングルジム、迷路、ターザンロープ、塔からの脱出、綱渡り、竹馬で約1時間遊びました。私は、今日も写真班でした。ターザンロープのように、スピードのあるものは、ピントを合わせるのが大変でした。末の孫が、上の二人の孫に着いていくのが、非常に大変そうでしたが、それでも必死に付いて行くのが、「怖い、でも付いて行きたい」そんな気持が、良く顔に表れていました。

 次の遊び場、変形自転車へ行くには、森の中の道を歩く必要がありました。愛宕山は、今が新緑の最中でした。道には、コナラやクヌギの雄花が沢山落ちていました。上の孫が、空中を舞う小さな虫を見つけました。細い蜘蛛の糸のようなものに下がっていました。蜘蛛の糸を利用しているとは思えず、自分が出した糸だろうと思いました。そんな虫が、結構沢山いて、林の下の低木に落ちたり、地面に落ちたりしていました。また、蝶の幼虫である芋虫が、道を這っていました。保護色で道と見分けにくいので、孫達が、道の端に寄せてやりました。生き物が蠢く、春の森を楽しみました。

 変形自転車の遊び場には、様々な変形自転車がありました。全部は紹介出来ませんが、一度の5,6人乗れるような馬車型タイプだけでも、10種類位ありました。バッタやイルカのように跳ねながら漕ぐもの、足を開いたり閉じたりしながら漕ぐもの等々、本当に沢山ありました。家族全員が、1つの自転車に乗ったり、次男が上の孫と、バッタ漕ぎの自転車に挑戦したりしました。次男は、体重が80キロを超すので、スクワットのようなバッタ漕ぎは、ハードな運動になり、途中で止めました。上の孫がスピードを出しすぎて、係員に注意され、めげてしまう等のハプニングもありましたが、ここでも1時間、目一杯遊びました。元の遊び場に帰る途中で、道の端に寄せて置いた芋虫が、踏みつぶされていました。意図的に踏んだような気がしました。孫達の顔に、悲しさと怒りが表れました。

 最後は、ライオンの池で水遊びをしましたが、孫娘が長めのキュロットスカートだったため、濡れないように、お尻の所までスカートを巻き揚げて、髪を縛っていたゴムで、束ねました。これが、可愛い尻尾のようになりました。孫娘が、これを上手にお尻で振りながら、水遊びを楽しんでいました。母親の機転、機転を楽しむ孫娘、最後まで「こどもの国」をエンジョイしました。

 4時15分には、池の噴水は止められ、水遊びは終わりました。次男が7時には府中で、約束があるため、甲府発5時8分の電車に乗る必要がありました。それで、4時40分には、「こどもの国」を出て、5時少し過ぎに甲府駅に着きました。ギリギリでしたが、どうやら間に合ったようです。

 その後私達は、甲府城趾を訪れました。末の孫は、次男がいると次男が肩車をしてくれるのですが、次男がいなくなったので、父親に肩車を頼みました。それを見て、上の孫が、自分は絶対に肩車を頼めない歳になった事もあり、強い調子で末の孫をからかい、末の孫は、肩車から下りて喧嘩となりました。孫娘が、疲れて気分が悪そうだったので、私が孫娘を肩車しました。不安定な感じで、私が会談を登ると、孫娘が緊張し、私の体力を心配してくれて、肩車から下りました。一時、天守閣の所から富士を眺め、芝生に寝転んだり、2B弾を探したりして、甲府城趾を後にしました。帰りは、私が末の孫を肩車し、上の孫を母親(私の娘)が負んぶしましたので、喧嘩も終わりました。

 帰りの中央高速は、強烈な渋滞で、本来8時前には、我が家に帰れるはずが、9時半頃になってしまいました。ずっと満月を見ながらの車の旅となりました。

 

「啓蟄の 甲斐の森での 小虫達 細い糸にて 空中遊泳」

「注意され 悔し涙の 上の孫 超のろのろの 自転車遊び」

「孫達が 蝶になれよと 助けたに 踏み潰されし 憐れ芋虫」

 「スカートが ポニーの尻尾に 早変わり 孫娘の 水遊びかな」

「兄なれど 甘える弟 妬ましい 兄の虐めに 弟対抗」 

 

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