« 2017年4月 | トップページ | 2017年6月 »

2017年5月

2017年5月31日 (水)

2017年05月30日

2017年05月30日

 

 今日は、530の語呂合わせで、ゴミ0の日だそうです。ゴミが無くなる事はありませんから、街中、公園、公道等公共の場所のゴミを、減らそうという目的なのでしょう。良い事でしょう。

 今日は、ゆっくり出来ると思っていたのですが、金祝の残務処理に呼び出されました。午後2時に、8人が同窓会のラウンジに集まり、帳簿の整理、残った酒類の行き先の決定、使用した小物の後片付け、ゴミの廃棄などをしました。そんなに手間取る事も無く、4時には全てが済みました。私も、同窓会に渡すものは渡して、仕事が、全て完了しました。今年の初め、突然降って湧いた、金祝準備委員の仕事が終わりました。祭りの後の、ちょっと寂しい気持ちになりました。金祝に関わった人で、反省会をかねて、打ち上げの飲み会をやろうという話しが持ち上がっています。

 新宿まで、山の仲間の女性と一緒に帰りました。彼女の妹さんのご主人が、脳腫瘍になり、現在治療中だそうです。この為、妹さんは、かなりの精神的ショックを受けているそうです。妹さんとは、何回かお目に掛っていますが、私は、この妹さんは、実の妹では無く、義理の妹だと思っていました。すると、病気になったのは、山の仲間の女性の、実の弟なのでしょうか、思い切って聞けないでいます。説明されたのかも知れませんが、私の頭の中で、整理が出来ていないだけなのかも知れません。

 午後6時頃に、家に戻りました。次男が居ないので、どうしたのかなと思っていると、直ぐに次男が帰ってきました。近くのスーパーに、買い物に行っていたそうです。膝の様子を聞いてみると、腫れも痛みも驚くほどに引いたそうです。明日からの、仕事には、問題なく行けそうだと言っていました。今度の医者の治療が、良かったようです。漸く気分が晴れましたので、金祝の記念の日本酒開けて、二人で、酒盛りにしました。

 

「華やかな 祭りの後は うら哀し 更に哀しき 次ぎ無き祭」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年05月29日

2017年05月29日

 

 昨晩、10時頃、家に帰った時、次男が家に居たので、吃驚しました。まだ、仕事場に居るはずの時間だったからです。膝の痛みが再発して、仕事を休んだそうです。恐れていた事が起きてしまいました。今日は、医者に行くとの事だったので、簡単に治療を受けるだけではなく、痛みの原因、対処方法、対処方法を選んだ理由、期待される効果、今後の生活の仕方等、詳しく聞いてくるように言って、送り出しました。

 私の方は、運動会の代休の孫達と、昼食を食べに行きました。久し振りに肉を腹一杯食べたいというので、百草園駅に近い焼き肉屋に出かけました。娘も孫達も、すっかり日焼けしていました。半日以上、屋外で過ごしたのですから、当然と言えば当然です。5月は、紫外線が一番強いとも言われています。私の額は、もう皮が剥け始めています。応援団をやった孫は、流石に疲れたようです。当日も大変でしたが、運動会の前の練習は、もっと大変だったようです。白組が優勝できなかったのは、残念でしたが、「応援は良かったよ」と褒めてやると、とても嬉しそうでした。孫娘も、1等賞になったのを褒めてやると、満面の笑みで応えてくれました。この年齢の子供は、本当に素直です。

 娘は、末の孫が、午後も保育園に行くようになり、仕事を始めたそうです。コンピュータ関係の仕事のようですが、子育てだけではなく、自分の時間も出来たので、顔付きが良くなりました。この年になって、振り返ってみると、子育てをしていた時が、一番充実して楽しかったと分りました。しかし、子育てをしている最中、特に女性は、子育てはかなり負担が大きいものであり、自分の時間が欲しくなるようです。

 食事が済むと1時過ぎになりました。末の孫が、2時には帰って来るので、娘達は、車で自宅へ戻り、私は、散歩をしながら帰る事にしました。

 百草園駅から、程久保川を越え、浅川の土手へ出ました。浅川を渡る飛び石の堰を、老人が渡っていました。何時もは、新井橋を使って、浅川を渡るのですが、今日は老人に対抗して、私も飛び石の堰を渡りました。危なっかしい所もありましたが、なんとか渡り切る事が出来ました。そこから、やはり普段は行かない、浅川と多摩川の合流点である、三角州の先の方へ行ってみました。5月の初めまで、菜の花畑だった河原が、菜種畑になっていました。草藤は、盛りは過ぎましたが、まだ残っていました。何時も、土手から見ている景色とは、違った感じで新鮮でした。河原から、仙人が済んでいる小道を通って、浅川の土手に戻りました。

 飛び石の堰を渡った朝霞の土手は、多摩川の秘密の池が近いのですが、今日は、多摩川の土手には行かず、石田寺の方から石田大橋に出ました。秘密の池から石田大橋に戻る道が工事中で、遠回りをしなければならなくなっているからです。

 3時半頃、家に戻ると、次男が医者から戻っていました。右膝の水を抜き、その後に炎症止めの薬を注入したそうです。明日は、休みの日ですから、様子を見るそうです。良くなる事を祈るばかりです。

 

「孫達と 運動会の 反省会 日焼けの顔が その日を語る」

「菜の花が 菜種になるは 当たり前 河原の菜の花 菜種畑に」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年05月28日

2017年05月28日

 

 今年初め頃から準備を始めた、金祝の日がやって来ました。何故か、あまりにも早く時間が経ち過ぎて、老い先短い身としては、なんだか怖いくらいの早さでした。

 朝、7時50分頃に家を出て、9時15分くらいに大学に着きました。丁度、音響設備を設置して、マイクの音響テストをやっていました。司会補佐でもありますので、一応、音の大きさを確認しました。まだ誰も居なかったので、十分な大きさだと思い、音響テストを終了しました。

 10時近くになったので、確保しておいた車椅子を取り出し、正門へ行きました。車椅子を必要とする同期(A氏)は、既に到着していました。先ずは、大学が主催する、金祝式典会場に案内しました。それが私の、今日の役目の一つでもありました。A氏は、足だけでなく、言葉も不自由でした。それでも、ゆっくり話すと意思疎通は出来ました。

 大学の式典が終わって、祝賀会の会場へ向かいました。今日は、大学全体のお祭りでもありましたので、キャンパスは、お祭り一色で、学内のメインストリートには、学生の演技のための台が作られていて、丁度フラダンスを披露していました。模擬店の長い列の見ながら、祝賀会の会場に着きました。大学の式典は、フォーマルで静かでしたが、祝賀会は、狭い場所に溢れんばかりの人で、皆怒鳴り合うように話していました。人混みをかき分けて、A氏の学科の席に連れて行きました。A氏の学科の出席者は、A氏の他に4名でした。全部の学科を会わせると、400名以上の出席者でした。出席者の誰もが非常に元気でした。A氏の顔に戸惑いと、後悔が見て取れました。私も、辛い気持ちになりました。

 A氏を学科の席に置いて、私は司会の補佐に廻りました。今朝の音響のテストは、大失敗でした。会場の話し声に負けて、マイクの声が部屋の隅の方には、ほとんど聞こえませんでした。その為、式次第の前半部分は、多くの人には、何をやっているのか分らない状況で進行しました。

 乾杯の音頭が終わって、歓談の時間になると、話し声のボリュームは一段と上がりました。「再開と新たな出会い」が祝賀会のテーマでしたし、楽しい事が一番だと思っていましたので、その観点から見れば、大成功、最高に楽しい会になりました。私も、卒業以来の友に会ったりして、少々興奮してしまいました。学生時代、文連の会長をしていた奴が来ていました。私は、体連の会長でしたので、彼とは、随分口論もしました。当時若はげだったのですが、現在は見事な禿げっぷりでした。当時の口論も、今はただ、懐かしい思い出となりました。暫くぶりの友、何時もの友も居て、喉が嗄れるほど話しました。

 しかし、残念な事に、私が会場に案内したA氏は、途中で退席してしまいました。しかし、これは現実です。自分の病気が恨めしかったり、場の雰囲気に合わなければ、途中退席も止むを得ない事だと思います。老い先の短い老人には、そのような冷たさもあります。もう、かなりの友が、この世を去り、これまで何人も送っているのですから。

 祝賀会は、我がクラブの現役の演技をもって、終了となりました。学内の別の場所では、クラブのOB総会をやっていましたので、1時間ほど顔を出し、更に場所を移して、先日他界した後輩(S)の面倒を見てくれたO氏と、Sの思い出話をしながら、Sを偲びました。その後、総会が終わったクラブのOB達に合流し、軽く飲んだ後、今日の大学のお祭りのグランドフィナーレを飾る、現役の演技を見に行きました。例年、グランドフィナーレは、我がクラブの現役がやるのですが、今日は、現役の代表の挨拶の途中で、終業時刻を告げるアナウンスが学内に流れ、面白いハプニングとなりました。何度も、アナウンスが繰り返されたのですが、代表は、旨く、その場を凌ぎました。

 その後は、例年の通り、現役の幹部とOBの懇親会になりました。この二日間で、クラブの現役ともOBとも、良く飲み良く話しました。金祝の同期とも、本当によく話しました。久しぶりに会った、寮時代の同室の友とは、二人でしか出来ない話を、沢山しました。なんだか燃え尽き症候群になりそうです。

 

「元気なる 仲間の中に 只一人 病気持つ身の 辛さは分る」

「思い出は 会う人毎に 異なりて 湧き出る思い出 洪水となる」

「堅苦し 式典終わり 堰を切る 溜まりに溜まった 喜びの渦」

「寮時代 同室だった 友の来て 二人だけの 思い出語る」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年05月27日

2017年05月27日

 

 今日は、上の孫二人の運動会でしたので、7時45分には家を出て、孫達の小学校へ向かいました。9時15分前、娘の家の近くで、上手い具合に、娘と末の孫が、学校へ行っている所に、合流する事が出来ました。9時10分前に、学校に着き、体育館に昼食用の場所取りをして、校庭に戻ると、開会式が始まる所でした。

 校長先生の話、優勝旗・優勝杯の返還、選手宣誓、準備体操等、型どおりの開会式が終わると、紅組と白組の応援団による、自チームの応援とエール交換がありました。応援団は、4,5,6年生で構成されるのですが、4年生になったばかりの上の孫が、なんと親にも相談せず、応援団に志願したらしいのです。割と引っ込み思案の子だったのですが、どうした心境の変化で応援団を志願したのか、良く分りませんが、大学で同じような事をやっていた爺としては、嬉しい限りでした。いかなる年代であれ、自分で考えて行動する事が、一番大事だと思います。親や他の人の意見は、自分の考えに照らして尊重しても良いけど、盲従してはいけません。自分の考え無しには、自分の人生を、自分自身で作る事は出来ません。孫は、自分の人生作りに、一歩を踏み出したようです。

 孫達は、二人とも白組でした。昨年も同じで、昨年は白組が優勝しました。徒競走で、孫娘は1位になり、少しは、白組の点数に貢献したようです。上の孫は、徒競走では結果を出せませんでしたが、応援団として、一日中炎天下の中で、仲間の応援をやり、流石に疲れた様子でした。私は、運動会の間中、末の孫と一緒に居ました、肩車をして運動会を見たり、一緒にミストを浴びたり、孫のおもり役でした。運動会の間中、外に居たので、額が痛くなるほど日焼けしてしまいました。

 午後のリレーの後は、孫達が参加する競技がなかったので、明日に控えた、金祝の最後の準備に出かけました。白組が優勝したかどうか、見届ける事が出来ませんでしたので、後で娘に聞いた所、最後の最後に逆転されて、紅組が優勝したそうです。

午後3時15分、少々遅れ気味でしたが、大学に着き、金祝祝賀会の最後の準備の手伝いをする事が出来ました。一番大変だったのが、食堂から金祝祝賀会会場への、模様替えでした。今度の金祝の準備委員は、責任感と協力精神の旺盛な方ばかりで、ものの1時間で、模様替えが完了しました。今日のうちに届く、日本酒、ワイン、醤油を受け入れ、所定の場所に置いて、準備作業は、ほぼ完了しました。

 遅く来て、少し早めに失礼して、5時から始まる、我がクラブの新入部員入部式に参加しました。入部式は、午後5時から始まりました。今年の新入部員は33名で、部員の総数は、95名になったそうです。過去最大の大所帯になりました。韓国、中国、米国からの新入部員もいて、我がクラブも国際色豊かになりました。非常に素晴らしい事だと思っています。国の友好の絆を、我がクラブの人間の絆で、強めて欲しいと思います。現役の代表が、なかなか良い新入部員歓迎の挨拶をしました。つい3年前は、彼が新入部員だったのです。僅か3年で、人間が、こんなにも成長するのか、目を見張るものがあります。このような若者の成長を、7年間見続けてきました。私は、本当に幸せ者だと思います。

 入部式の後6時半頃から、顧問の先生、OB会会長、OB会総務部長、現役の代表、現役の3年生と2次会となりました。顧問の先生は、今年の4月から担当してくれる事になった教授なので、色々クラブの状況について、話をしました。我がクラブは、少々特殊なので、どの程度理解して貰えるか、心配な面がありましたが、良き理解者であり、フアンでもある事が分りました。現役の自由な活動を、温かく見守って欲しいと思います。

 9時過ぎに、腰を上げ、10時半には我が家に戻りました。忙しい1日になりました。

 

「視線会い 運動場の 何処からも 私は此処よと 手を振る孫娘」

「我が孫の 新たな挑戦 胸を打つ 世代の鎖 繋がり行きぬ」

「我が娘 運動会の 弁当に 昔の思い出 一杯詰める」

「若者の 成長見守る 嬉しさよ これに勝る 喜びは無し」

「後輩も 孫の一人に 見えにける 老いに嬉しい 大所帯かな」

「青春を 共に暮らした 仲間達 国境越えて 絆深める」

「初々し 新入部員の 緊張も 三年経てば 指導者の顔」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月26日 (金)

2017年05月26日

2017年05月26日

 

 今朝は、本降りの雨でした。雨は、午前中一杯続き、午後から、漸く曇り空に変わりました。

 加計学園の問題については、今日もテレビで特集をやっていました。加計学園に関する文書が存在していたと証言した、文科省の前事務次官は、現代版の閨閥があるようです。前川製作所の創業者の子孫であり、中曽根元総理とも縁戚だそうです。現政権に楯突くような証言をしたので、大丈夫かなと思ったのですが、少し安心すると同時に、彼が事務次官に昇進したのも、「なるほどな」と思いました。民主主義の世の中で、変ではありますが、どの省庁でも、閨閥は出世に大きな役割を果たします。また、政権への反抗の場合は、守る役目も果たします。今度の証言を、閨閥を持たない人が言ったとしたら、社会的に抹殺される危険すら在るのです。

 現在、安倍総理が、何故これほど力を持ったか、これにも閨閥が関係します。しかし、政治家の多くは、地盤看板を引き継いで、ある種の閨閥を持っています。その中で、これほど突出するには、閨閥の他にも理由がある筈です。友人から聞いた所では、現在落ち着いているように見える、安倍総理の病気は、何時再発して安倍総理の政治生命を奪うか、分らない状態らしいのです。このことは、本人も良く知っていて、ある種、命をかけて、これまで主張してきた事を、自分が政権にいる間に成し遂げたいとの決意を、周囲に漏らしているようです。日本人は、この手の話しに弱いので、今自民党の中で、安倍総理に取って代わろうとする者が、いなくなったのだろうと思います。安倍総理が、特別リーダーシップを発揮できるような人物には見えないのですが、病気を旨く利用しているのかも知れません。只、安倍総理を見ていると、戦前へ向かって、時が逆に流れ始めたような、嫌な感じになります。

 一昨日、中央大学で見た花の名前を教えて貰おうと、昨日の午前中に、中央大学の管財課に電話をしました。しかし、電話に出た人は、花の名前を知らず、関係先に連絡して調査した上で、返答すると約束してくれました。昨日の夕方、電話が掛ってきました。訳の分らない人間からの質問に、丁寧に答えてくれて、本当に嬉しく思いました。花の名前は、「ブタナ(豚菜)」でした。ヨーロッパ原産の外来種だそうで、タンポポモドキという別名も持っているそうです。ネットで確認して、私が見たものと同じであり、納得しました。豚菜(ブタナ)の名前の由来は、フランスで、豚のサラダと呼ばれていたのを、翻訳したものだそうです。

 この花の名前が、確定したお陰で、私がずっと名前を知りたいと思っていた花が、ジシバリ(地縛り)だと分りました。ジシバリは別名で、本名は、イワニガナ(岩苦菜)だそうです。葉っぱの色形から、まさにその通りだと、確信しました。私は、ブタナの事をずっとジシバリだと思っていたのです。両方とも、私の散歩道に、沢山咲いています。気持ちが、すっきりしました。

 昨日歩いた、大国魂神社の裏手には、さざれ石が置いてありました。まだ、苔が生えるまでには至っていませんでしたが、根を下ろした植物がありました。

 今日、先日他界した後輩(S)の会社の役員(O氏)から、電話がありました。O氏は、私の先輩でもあり、大学の100周年の際、一緒にカンボジア・ミャンマー旅行に行ったことが在ります。これまで、ずっとSの面倒を見てくれました。Sが来年72となり、定年となるため、定年のない職場を探してくれたばかりでした。O氏が、Sの奥さんに、海外にいたので、葬儀に参加できず、出来れば焼香を上げたいと申し入れた所、他人様に来て貰えるような家ではないと、断られたそうです。そんな訳で、今度の日曜日、金祝の後、二人で会って、Sのことを話しながら、Sのことを偲ぶ事にしました。

 今日は、午後本降りの雨は止んだようでしたが、相変わらず霧雨が降っていましたので、結局、一歩も外に出ないで、日記を書いたり、フェイスブックに投稿したり、金祝の準備をしたりして過ごしました。

 

 明日、27日から、29日まで、日記を休みます。朝早くから夜まで、びっしりと予定が詰まってしまいました。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年05月25日

2017年05月25日

 

 久し振りの、雨の朝でした。道路が濡れ、電線に雫が幾つも出来て、向ヶ丘の七生丘陵が霧で霞んでいました。朝一番に見る、雨の風景です。晴れも良し、雨も、また良しです。

 加計学園に関して、ニュースをやっていました。文科省の前事務次官が、政権の中枢部(安倍総理)が関係したとする文書が、現実に文科省内に存在した文書と断言しました。このような状況になっても、現文科省の事務次官、自民党の菅官房長官は、文書の存在を認めていません。

 菅長官には、個人的に知っている人ではありませんが、彼がいかなる人物か、大凡想像が付きます。彼は、武家政治時代の、主君に忠実な部下なのです。主君を守り、主君に問題が起きたら、命をかけて守る積もりでいるのです。必要ならば自殺も辞さないでしょう。自分なりに侍を集めて、場合によっては、反乱もありうると言ったタイプの武士では無いのです。主君のためであれば、平気で嘘をつけるのが、彼のような武士の特徴なのです。彼は、そのような事しか出来ないというのか、逆に、そのような事に特別の才能があるのかも知れません。

 阿部総理は、腹心の友の加計氏に対して、上手に便宜を図ったと思います。政治家の政治的主張と重ね合わせたのです。従って、最後は自分が常日頃思っていた政策を、主張したに過ぎないと言って、便宜供与と切り離すでしょう。政策がらみの便宜供与は、金銭が絡んだ事が明白にならない限り、便宜供与と断定する事は困難です。安倍総理は、そのことを良く知っていると思います。恐らく、金銭的授受はなかったでしょう。金銭授受がなかったとしても、自民党の中で、安倍総理に対抗馬が何人もいるような状況であれば、疑いだけで、党内勢力を失うという罰を受ける事になるのですが、現在は、対抗馬はいなくて、下僕だけですから、無傷で済む可能性が高いのです。

 野党は、今のような攻め方では、自民党の盤石の地盤を突き崩す事は出来ないでしょう。自民党の政治が、国民生活をどの様な危機に曝すのか、自民党に変わる政治がどの様なものなのか、幅広く、国民に分るように説明し、国民運動にするような、地道な活動をしなければなりません。まともに労働組合が機能していない現在では、労働組合は、国民の意思を代弁できる団体では無くなりました。労働組合だけが頼りでは、野党は成長できません。国会で自民党の悪い事を、言葉厳しく追及しても、次の政治が見えなければ、国民は動かないものなのです。これまでの長い間の、共産党の動きで、誰もが分ると思います。民主政治の中で国民が動く、それが政権交代です。国民は常に、政治が悪ければ、政権交代をさせるという、意思を示さなければなりません。国民をその気にさせるのが、次の政権を担える、健全なる野党だと思います。

 政治の話しにばかりになりました。今日は、天気も悪いので、一日家に籠もっていようと思ったのですが、雨は降りそうになかったので、府中に、靴のかかとを修理して貰いに行きました。以前も修理して貰った事がある、府中駅構内の同じ店に行きました。修理は、1時間あれば終わるというので、普段は行かない、大国魂神社の裏手に行って時間潰しをしました。

 大国魂神社は、千年以上の歴史を持つ神社なので、表参道の欅並木の中にも、欅の巨木がありますが、裏手の鎮守の森にも、何本もの巨木があります。巨木からは、確かにパワーを感じます。宗教に関係なくと言いたいのですが、街中で、巨木のパワーを感じられるのは、神社やお寺の森だけです。昔から、神社、やお寺の森は、田畑の開発から免れましたし、現代に於いても宅地開発から、免れています。宗教のお陰だとも言えるでしょう。

 大国魂神社には、色々な神社の社が置かれています。裏手にも、6つの社がありました。その中の3つの社に、狛犬が置かれていました。どれも古いもので、それぞれ特徴がありました。住吉神社と大鷲神社を分霊している社の狛犬は、2匹とも吽形で、右手の狛犬には、頭のてっぺんに角があり、左手の狛犬には、角がありませんでした。現代の狛犬とは、全く違ったものでした。隣の東照宮の狛犬は、阿形と吽形があり、身体の躍動感と顔つきの厳つさが、とても素晴らしいものでした。巽神社の小さな社に、小さな狛犬いました。阿形と吽形が逆でした。この吽形の滑稽とも言える顔つきは、こんな彫り物をする人がいたのかと思うほど、怖そうで面白い顔つきでした。写真を見て貰いたいのですが、私のブログを掲載しているサーバーが小さいらしく、写真が掲載できないのです。若し、大国魂神社に行く事があったら、裏手にも回って欲しいと思います。

 裏手から、今月に出来たばかりの、新西参道へ行きました。真新しい鳥居の下に、真新しい狛犬が置かれていました。この参道は、お祓いをして貰う車が入る為の参道として、建設されたようです。これまでの西参道は、人だけが通れるようにしたようです。

 大国魂神社の隣は、妙高院というお寺です。その中間に、大国魂神社に属さない、小さな神社があります。以前にも、何度か立ち寄った事がありますが、武蔵の国の総社である大国魂神社に較べれば、月とすっぽん以上の違いがある、名前もない、みすぼらしい神社です。今日は、そこから新緑に覆われた妙高院の墓、公孫樹の大木のある本殿、竹林の門を見ながら散歩しました。

 1時間過ぎたので、靴の修理屋に行った所、修理が出来て、綺麗に磨かれていました。フランスで買った靴で、皮の部分は、極めて頑丈に出来ていて、今でも何の問題もありません。今は、私の足に良く馴染んで、とても履き易いので、恐らく生涯履く事になると思います。

 靴を受け取った後は、買い物して家に帰り、毎日の日課の通り過ごしました。

 

「お笑いの 芸人達も 負けそうな 怖そで可愛い 狛犬の顔」

「あちこちに 幾つも並ぶ 狛犬が 歴史を語る 大国魂神社」

「勢誇る 武蔵総社の 裏陰に ひっそり佇む 名も無き社」

「死者眠る 墓を見守る 深き森 若葉輝き 命の宴」

「竹林に 今年生まれの 竹も立ち 一族揃って 春を楽しむ」

「癖のある 我が足型を なぞりおる 慣れ親しみし 靴の顔かな」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月25日 (木)

2017年05月24日

2017年05月24日

 

 昨日までの、快晴の空から、8割り方雲が空を覆った朝となりました。富士山を、富士山の形をした雲が、すっぽりと覆っていました。

 今日は、我が家から、光の加減によっては、十字架に見える鉄塔の在処を探しに出かけました。先日、石田大橋から、七生丘陵を見ると、私が予想した所と、全く別の所にありました。

 午後1時半に家を出て、先ず、石田大橋まで、何時もの土手の道を歩きました。我が家の前の多摩川の側道に、コンビニがあったのですが、3年ほど前、近くに西友を初めとする、ショッピングモールが出来た時に、店を閉じました。その後、ずっと店は、閉じられたままでした。その店が、この前から、何か工事をしていたのですが、今日、喫茶店としてオープンしていました。隣に、自転車と自転車用品を売る店があり、土日は自転車属で賑わっていますが、週日は閑散としています。土手の道を歩く人達が、気軽に立ち寄れる店にしないと、店を続けるのは大変では無いかと、余計な心配をしました。

 多摩川の左岸の土手は、丁度草刈り作業中でした。穂を出していた茅も、全部刈り取られ、丸坊主になっていました。むせ返るような草の香が、土手の道に立ち籠めていました。この後、新しい茅が育ち、もう一度、茅の穂が見られるかも知れません。

 石田大橋を渡り、万願寺の交差点の手前に、空き地があったのですが、此処には、新しくコンビニが出来ていました。駐車場の整備もほぼ終わったようですから、来週には開店すると思います。散歩道も、年々形を変えています。

 モノレールの万願寺駅から、多摩丘陵を一望すると、先日、十字架探しをした三沢台の給水塔の近くには、鉄塔は、全く存在しませんでした。私の予想は、全く間違っていたのです。鉄塔は、明星大学か多摩動物園の近くにありそうでした。明星大学のタワーの右側にあるのが、そうだと思いました。取り敢えず、多摩動物園まで行き、明星大学方面に歩くと、狙いの鉄塔が見えました。明星大学の学内に入り、シェークスピア劇場の裏手に在る駐車場の横の丘に、鉄塔がありました。今日は曇っていて、近くで十字架を見る事は出来ませんでしたが、鉄塔の形から、我が家から十字架に見える鉄塔に、間違いないと確信しました。

 十字架探しの、散歩は終わりましたが、この鉄塔の次の鉄塔が何処にあるのか、気になりました。送電線を見ながら歩くと、モノレールの中央大学・明星大学駅の先、丘を下った所にありました。そこから、また丘を登り、多摩センターの方まで、鉄塔の列が続いていました。七生丘陵と鉄塔の立つ位置の関係から、我が家からは、十字架の鉄塔と、その一つ前の鉄塔しか見えないのでした。

 明星大学から、モノレールの駅に行く斜面は、昼咲き月見草、コメツブツメクサ(米粒詰草)、アザミ(薊)が、乱れ咲いていました。駅を越えて、中央大学に入り、学内を歩いて桜の杜に行きました。こちらは、ニワセキショウ、白ツメクサ、花茎の長い黄色い花(ジシバリだと思っていたが、違うようなので調査中)が乱れ咲いていました。両大学とも、色々なクラブの、新入生勧誘のための立て看板が並び、新学期の活気に溢れていました。

 モノレールで高幡不動に戻り、聖蹟桜ヶ丘に出て、我が家に帰りました。4時半頃でした。相撲を見ながら、晩酌の摘まみを作りました。一つは、野蒜の炒め物を作ったのですが、野蒜の茎の固い事固い事、歯が立たないと言うのは、こういう事だと思いました。野草摘みは、早春でないと駄目な事を、改めて認識しました。一緒に炒めた豚肉は、野蒜の香りが移って、美味しく食べられました。昨日の、野蒜入りの特製オムレツは、葉の先の方を微塵切りにしたので、問題なく食べられたのだろうと思います。

 所で、横綱稀勢の里が、今日から休場しました。出たい気持ちは分りますが、横綱が無様な負け方は出来ないでしょう。怪我を完全に治して、強い横綱として、土俵に戻ってきて欲しいと思います。

 

「珍しく 背丈も伸びて 覇を競う 今は豆粒 米粒詰草」

「細長き 花茎の先に 花を乗せ 風に揺れてる 黄色き花よ」

「晩春に 摘んだ野蒜の 茎固く 歯が立たぬは このことなりき」 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月24日 (水)

2017年05月23日

2017年05月23日

 

 今朝も、良い天気だと書く事になりました。富士が見えないのは残念ですが、本当に良い天気でした。

 朝食に、野蒜、セロリ、玉葱、ハムを刻んで、山芋のおろし、卵、薄力粉少々を加えて、特製のオムレツを作りました。薬味オムレツと言えるようなオムレツとなり、最高に美味しかったです。自分が摘んできた、野蒜が入っていると思うだけで、味も良い方に変わるようです。

 ニュースに拠れば、テロ等準備罪に関わる法律案が衆議院を通過したそうです。問題なく、参議院も通過するでしょう。昨日書いた憲法もそうですが、人間が作った決まり事と言うには、それを運用する政治権力者の資質に大きく依存します。人間は、権力を持つと必然的に堕落すると言われています。人間の性のようなものです。そして、必然的に権力に反対する人々を排除しようとします。実際に犯罪を犯さなくても、犯す恐れがあると、権力側が判断すれば、それだけで、逮捕拘留が出来るようになるのが、テロ等準備罪法です。国民は、少しでも疑われないように、沈黙を守り、権力に諂うようになります。言論の自由、報道の自由等、基本的人権を享受できなくなります。戦前、同じような治安維持法があった時の、暗い時代に戻るのでは無いかと心配しています。暴言を吐いたり、事実を糊塗したり、盲従したりする現在の権力側の自民党議員を見ていると、この人達が、この法律を運用するのだと思うと、暗澹たる気持ちが募ります。

 今日は、金祝準備委員会があったので、都心の大学に行って来ました。11時集合だったので、9時半には家を出なければならなかったのですが、出る直前に対応しなければならない電話があり、10時近くに家を出る事になりました。当然のことながら、30分遅れて会場に着きました。

 金祝も今度の日曜日に迫ったので、準備も最後の段階になりました。各学科の位置を示す案内の作成、金祝の祝状の仕分け、名札の作成等、細々とした作業になりました。途中、昼食を食べに学食に行って驚きました。かなり大きな学食が、満席となり、席が空くのを待つ人の行列が出来ていました。この規模の学食が、三つもあるのです。我々の時代は、学生は4000人強、学食は1つだけでした。現在は、学生が12000人を越えるそうですから、学食が3つあるのは、当然のことでした。孫の年代の学生の中に、爺さん世代のテーブルが1つ出来ました。50年という年月が流れれば、彼等が、今の我々と同じになります。さてさて、彼等は、どんな人生を歩むのでしょうか、、、。しっかりと叡智を磨き、自分達で、未来を切り開いて貰いたいと思います。

 金祝の準備作業は、比較的早く終わり、3時には、帰途につきました。駅のパン屋でカンパーニュを買い、我が家の近くで、夜の酒の肴に刺身とアサリを買って帰りました。5時少し前に家に着きました。

 夜は、1週間ぶりに、次男と酒を飲みました。飲み始めて、30分くらいは、白く霞んだ富士が見えて、富士見酒になりました。次男の、今度の仕事は、慣れた仕事なので、仕事そのものは、何の不安も不満もないそうです。ただ、少し無理すると、膝が痛くなるのが、持病のようになってしまったと、言っていました。これは、思った以上に深刻な問題では無いかと気懸かりです。

 

「過去多き 我等と違い 若者が 今手にするは 輝く未来」

「半世紀 時の使用後 使用前 隣り合わせの 学生食堂」

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月23日 (火)

2017年05月22日

2017年05月22日

 

今朝も素晴らしい天気でした。毎日同じなので、同じ事を書いています。違う事と言ったら、湿度が高い事くらいでしょう。霞か雲か分りませんが、奥多摩の峰々が、白いベールに包まれました。

 昨夜、メキシコ時代の友人達の食事会でも話題になった事ですが、安倍総理が目指す憲法改正について、言いようのない時代の潮流を感じます。安倍総理は、憲法改正の重要な改正点は、二つだと言っています。一つは、自衛のための軍隊の合憲化です。もう一つは、教育の無償化です。教育の無償化は、本来憲法で規定するようなものでは無く、その時その時の政府が決めるべき政治課題だと思います。もう一つの、自衛軍の合憲化のためにだけ、憲法改正をする事への国民の目を眩ませる作戦なのかもしれません。

私は、自衛のための軍隊の合憲化は、そんなに悪い提案だとは思いません。国連でも認められているように、自衛権は、国家の基本的権利です。現在の国際情勢に於いては、軍以外に自衛権を行使し、国家を守る手段は無いと思います。外交で自衛するというのは、画餅に過ぎないと思います。従って、最後の最後に置いては、自衛のための戦争もやむを得ない場合があると思います。但し、問題なのは、自衛権を行使する政治家の資質です。どの様な場合に自衛権を行使するか、結局はその時の政権に委ねられます。国家を守る事に最大の関心を持つ人は、何事も国家の危機と関連づけて考える性癖があります。従って、自国の利益では無く国際正義のためなら自衛軍を外国へ派遣できる、国家防衛のための同盟国の危機には自衛軍を派遣するのは当然だ、先制攻撃しなければ国家を守る事は出来ない、等々、全ての戦争が、自衛のための戦争となってしまうのです。そして、政権を握った政治家の考えは、巧妙で止まる事を知らないものです。憲法の言葉だけで、このような政治家の考えを止める事は出来ません。考えを変えられるのは、国民の声だけですが、その声も圧殺されるでしょう。それが、太平洋戦争の歴史の教訓だと思います。森友学園や家計学園の問題で、自信たっぷりの言い逃れをやっている政治家や官僚を見ていると、歴史の教訓は、忘れ去られたのだと思ってしまいます。特に大きな対立ではないもの、話し合いで問題解決出来るものまで、戦争にしてしまいがちです。そんなわけで、憲法改正に諸手を挙げて賛成とは言えないのです。

今日は、大栗川と多摩川の合流点を廻って、聖蹟桜ヶ丘まで歩きました。午後1時半頃、一番暑い時に家を出たので、暑さが心配でしたが、風があったので、それほど強烈な暑さだとは思いませんでした。

多摩川の土手には、こんなに野蒜があったのかと思うほど、野蒜の花畑になっていました。花や蕾が付いていると、野蒜を探す必要がありません。大きそうな野蒜を探して、野蒜摘みをしました。早春の野蒜と違って、葉も茎も固くなっていました。茎が固くなったお陰で、野蒜の根も抜く事が出来るようになっていました。早春の場合は、土手の野蒜の根を抜くには、周囲を掘らざるを得ないのですが、今日は、簡単に引き抜く事が出来ました。しかし、固くなった茎や葉を、美味しく食べられるかは疑問です。ほんの10分程度で、必要なだけの野蒜を採取しました。

今、多摩川の土手は、茅の穂波が、とても綺麗でした。出始めの茅の穂は、見る角度によって、紫に見えたり、白銀に見えたりします。今日は、結構強い風があったので、穂波の縞模様が、刻々と変わって、素晴らしい自然のショーを見せて貰いました。茅の穂波を見ると、稲城市の若葉台の方へ行きたくなります。茅が、背の高い土手を埋める、綺麗な場所があるのです。

大栗川との合流点近くでは、大キンケイ菊と菜の花位の大きさの、おっ立ちカタバミのような花の、大きな花畑が出てきました。何回もこの場所に来ているのに、初めて見る花でした。誰かが、種を蒔いたのでしょうか、取り敢えず、花の名前から調べましょう。

大栗川の土手へ移ると、白く枯れ果てたカラスムギが、土手を埋めている所がありました。穂を守っていた殻が、白い花弁のように、風に揺れていました。その中に、スイバが異様に大きくなって、怪物のように見えました。

大栗川から、聖蹟桜ヶ丘の商店街へ出ました。エスニック食材店でサービスしてくれるアイスコーヒーが、一段と美味しく感じられました。デパートの食品売り場で、珍しく乾燥果物を売っていましたので、ついつい、トマト、キンカン、クランベリーを買ってしまいました。

帰りのバスは、今年の4月から運行を開始した、我が家の近くを通るバスで帰りました。1時間に1本程度しか運行しないので、常時利用する訳にはいきません。今日は、2回目でした。

夜は、鰯の丸干し、鰺天、おろしじゃこ、めかぶ、それに今日採ってきた野蒜の根と蕾を茹でて、酒の肴に加え、「これは日本酒でしょう」と、思わず独り言が出るような晩酌となりました。野蒜の蕾は、薬味にも出来るような、独特の香りと味があるのです。たった一つだけ見える星が、ベランダの正面に来ていました。今日は、星見酒となりました。

 

「五月晴れ 気温は一気に 真夏日に 野草も慌てて 真夏の準備」

「多摩の土手 野菜畑に 見えにけり 大きくなったと 野蒜が誘う」

「土手の道 茅の穂波 押し寄せる 風の強まり 土手に波飛沫」

「多摩の土手 光と風の ショータイム 白銀踊る 茅の穂波」

「烏麦 全身無垢の 白装束 白鳩麦に 変身するなり」

「野蒜茹で 自然を酒菜に 星見酒 アパート住

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月22日 (月)

2017年05月21日

2017年05月21日

 

 今朝も、素晴らしい天気でした。3日連続の快晴です。まだ、五月ですから五月晴れなのでしょうが、気温は30度を超え、真夏日になりました。この調子が続くと、本当の真夏が、どの様になるのか、心配です。まさか、連日40度越にならないことを願っています。

 午前中の仕事を終え、昼食を食べて、我がクラブの動画を送ってくれた准教授に、お礼の手紙を書きました。これで、当面気掛かりになっていたことを、全て終わらせることが出来ました。年を取ると、物忘れが激しくなるので、やるべき事は、白板に書いて、やり終わったら消すようにしています。

 今日は、5時半から、メキシコ時代、一緒に仕事をした仲間と、半年ぶりに新宿で会うことになっていました。この所歩いていないので、早めに家を出て、久し振りに新宿御苑を歩こうと思っていたのですが、30度を超える暑さだったので、止めることにしました。その代わりにはならないのですが、2時から1時間ほど、午睡を楽しみました。椅子をリクライニングにして、ベランダから玄関へ吹き抜ける風を受けながら横になっていると、ハンモックに寝ているような、とっても良い気持ちで、昼寝ができました。

 今日集まる店の地図をネットで出して、4時15分に我が家を出ました。新宿に着いたのは、5時15分でした。東口から、紀伊國屋のある通りに出て、新宿の人の多さに、魂消ました。今日は、歩行者天国らしく、普段は自動車が通る道にも、人が溢れていました。もう何年も、新宿の歌舞伎町や伊勢丹方面を歩いていませんでした。若い時は、この人混みが好きでしが、年を取ると、気後れしてしまい、怖さまで感じるようになりました。新宿は、相変わらず若者の街でした。

 15分有れば、楽に店に行けると思ったのですが、地図の見方を間違って、全く目的の店を探すことが出来ませんでした。集合時間を過ぎた頃、幹事役の友人から電話があり、漸く、目的の店に辿り着くことが出来ました。15分も遅刻してしまいました。今日の店は、京都の「おばんざい」の茶茶白雨でした。これで、「ちゃちゃゆふだち」と読むのだそうです。人気があるのか、満席でした。

 仲間は、私も入れて、男女二人ずつの4人です。この4人が、メキシコで一緒に働いていた頃から、早くも30強の月日が流れました。研修上がりの新人だった女性が、60に近づき、私ともう一人の女性は、とっくに定年退職しました。幹事役の男性は、別の会社から派遣されてきていました。彼も、定年が近づいています。「光陰矢の如し」を痛感しました。この仲間を結びつけたのは、麻雀、ゴルフ、酒といった仕事以外のことでした。今がどうなのか分りませんが、当時は、仕事も遊びも、一所懸命でしたし、両方を楽しみました。今日も、当時の思い出に花が咲き、最近の政治についても、見識の深い人達なので、穏やかに話すことが出来、美味しい酒が飲めました。

 9時頃に腰を上げ、10時過ぎに我が家に戻りました。今日も、夜空に見たのは、星一つでした。

 

「人生の ほんの短き 一場面 その連続が 人生劇場」

「人生の 或る場面の 役者達 偶に合うては 思い出分かつ」

「思い出を 分かつ友等の 多いほど 魅力溢れる 人生劇場」  

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月21日 (日)

2017年05月20日

2017年05月20日

 

昨日に続いて、快晴の朝でした。天気が崩れることも無く、一日中良い天気でした。

今日は、大学全体のOB会の代議員会の日でした。昨夜、副会長から電話があって、OB会の役員選考委員になって欲しいとの依頼がありました。あまり、表だった仕事でもないようですから、引き受けることにしました。

代議員会は、午後1時から始まるので、11時15分に家を出て、12時40分には、大学に着きました。

代議員会は、時間通り始まり、なんと4時間も会議が行われました。一番時間が掛ったのは、現役学生から徴収する、終身OB会費の値上げと徴収方法の変更でした。OB会費を、大学在学中の必要経費の如く、十分な説明もなく、毎年徴収するのは、誤解を招くとして、大学が代理徴収を拒む姿勢を打ち出したのです。現役学生から、終身OB会費を取らないと、任意の会費収入では、OB会の財政基盤が崩れてしまいます。一応、大学と協議を重ね、大学卒業年次に、本人に説明した上で、一括して大学が代理徴収することで、決着が付きました。その過程が、今日の代議員会で、報告され、質疑を終えて了承されました。

その他にも、予算決算、活動報告等の他に、会長、副会長、常任委員、及び役員選考委員の人事案件も承認されました。私も、正式に選考委員になりました。人事案件が生じなければ、特に仕事はないと思います。それにしても、大学をまともに卒業しなかった私に、色々と大学関連の仕事がやって来ます。年を取って暇ですので、有り難いことです。

5時10分前に会議が終了し、5時から懇親会が始まりました。開会宣言もないうちから、酒を飲み食事に手を出して、いきなり懇親会が始まりました。体育会系の、私の年代に近い代議員も一定人数いて、先日急死した、Sの事が話題に上りました。昨日の葬儀に来てくれた人もいました。Sは代議員ではありませんでしたが、体育会系の中では、名を知られた存在だったのです。最後に、参加者全員で肩を組んで、校歌を歌い、私がエールをやって、懇親会は、終了しました。

体育会系4人で、馴染みの居酒屋へ行き、2次会となりました。此処でも、暫くSの話題になりました。余りにも突然だったので、誰でも気持ちの整理が必要なのでしょう。9時近くになって、そろそろ帰ろうとしていた所に、OB会の新旧の会長や常任委員が現れて、また一盛り上がりして、結局、10時過ぎに居酒屋を出ることになりました。

我が家の近くの聖蹟桜ヶ丘に着いたのは、11時過ぎでした。バスは既になく、酔い覚ましに多摩川の土手を歩いて帰りました。空には月もなく、星もたった一つしか見えませんでした。なんという星か、知りません。天体の関する知識は、至って脆弱です。家に帰り着いたら、12時近くになっていて、既に次男が帰っていました。

 

「定年を 過ぎれば嬉し 同窓会 残り火燃やし 第2の人生」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月20日 (土)

2017年05月19日

2017年05月19日

 

 今日は、雲一つ無い素晴らしい朝になりました。この天気が、一日続きました。後輩(S)が、この世から旅立つ、門出のような天気でした。

 今日は、午後1時から、後輩の葬儀が、上井草のキリスト教の新教の教会(福音教会)で行われました。私は、弔辞を述べることもあり、遅れないように、かなり早めの、10時50分には家を出ました。何時ものバスで、国立の駅へ行き、ホームに上がったら、この時間には珍しい混雑でした。場内アナウンスに拠れば、人身事故の影響で、電車が遅れていたのです。結局、20分遅れで電車が来ました。まるで、ラッシュアワーのような混雑でした。30分以上早く着く予定で出てきたので、焦る気持ちも無く、荻窪駅に着きました。そこで、13分で上井草駅に着くと、案内が出ていたバスに乗りました。所が、このバスは、15分経っても、上井草駅に着かず、どうも荻窪駅に戻っているようでした。運転手に聞いた所、「このバスは、上井草駅には行かないので、次のバス停で下りて、反対側から来るバスに、乗った方が良い」と言われました。次のバス停に行くと、信号待ちしているバスが見えました。急いで下りて、信号無視して道路を渡り、滑り込みセーフ状態で、バスに乗り込みました。この時は、流石に焦りました。3つめが上井草駅で、1時10分前に尽きました。丁度その時、黒服の集団が、駅から出てきました。皆、同じクラブの後輩で、ほっとしました。ぎりぎり5分前に、教会に着きました。

 時間通り、1時から葬儀が始まりました。福音教会での葬儀は、生まれた初めてでした。賛美歌の合唱、福音書の朗読から、式が始まりました。日本の古来の文化を愛するSの葬儀としては、似つかわしくないと思いました。Sのお姉さんの意向だったようです。私の言葉も、弔辞では無く「思い出」でした。その後式は、神父の長い話、再び賛美歌、弔電披露、遺族代表の挨拶で終わりました。

 その後、お棺の蓋が開けられ、参列者による献花になりました。つい最近会った顔と再会しました。死者の顔になっていました。今後、酒を酌み交わすことは無いのだと改めて思いました。福音教会の習慣で、合掌とかは止めてくれと言われたので、そのまま、その場を去りました。落ち着いて周囲を見回すと、大学の他のクラブの人、職場の人、九州や名古屋から駆けつけた人、同じクラブでも久しく顔を合わせていない人、Sが参加していたサークルの人、様々な人達が参列していました。神父が、「こんなに男性の多い葬儀は珍しい」と言っていましたが、8割以上が男性でした。Sに、それだけ人を寄せ付ける力が有ったのだと思います。

 出棺の前の最後のお別れに、クラブの仲間で、大学の校歌とエールで、Sを送りました。指揮を執ったのは、現役の代表でした。少し変ではありますが、Sが一番喜ぶと思ったのです。全員が、教会の窓が割れるような、大声で歌い、Sの葬式らしくなりました。その後、10人くらいで、お棺を持ち、教会の階段を下りました。お棺の重たいこと、足を踏み外さないようにしながら、霊柩車に乗せました。これで本当にお別れです。

 全部が終わったのは、3時過ぎでした。気の合った仲間で、Sを偲ぶことにしました。所が、郊外の小さな町なので、飲食店の多くは準備中でした。かなり探した後、休憩に入る所だった中華料理屋に頼んで、受け入れて貰いました。献杯をして、Sの思い出を肴に、杯を酌み交わしました。本当に、突然の別れでした。しかし、誰もが皆、相応の歳になりました。ある程度、死に対する覚悟と死ぬまでの生き方について、気持ちの整理が付いてきました。今日、Sの葬式に集まった人の多くは、十分に人生を生き、比較的恵まれた老境に入っていました。次は、誰の番であっても、受け入れる容易が出来ました。次が、私の番でも、驚くことは、無くなりました。

 

「友の死後 友は何をも 語らねど 忖度するは 我等が心」

「大声で 歌を歌いて 友送る 三途の川の 向こうに届くや」

「ありがとう 友の泣き顔 目に浮かぶ 破顔で涙す 泣き虫の友」

「未信者に 神の作法を 強要す これが世界の 争い起源」

「我が友も 価値の強要 多かりし そこは許せぬ 友で有りても」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月19日 (金)

2017年05月18日

2017年05月18日

 

 以前の予報では、関東地方は、今日が、一番雨の可能性が高いと、言われていましたが、青空が見え、日差しもある朝でした。結局、多摩地方は、一旦曇りましたが、一日中雨が降らず、日差しが戻りました。

 今日、次男は10時前に出かけました。店から、早めに来てくれと言われたそうです。まだ、二日目ではありますが、新しい職場は、慣れた仕事なので、上手く行っているようです。

 今日は、国木田独歩ではありませんが、武蔵野散歩をしてきました。かなり、頻繁に歩いている所です。

 1時近くに家を出て、先ず、リサイクルセンターに向かいました。プランターと電気の傘を引き取って貰うためです。途中、府中第4公園の手前で、尾羽打ち枯らした、アゲハ蝶に出会いました。私が近づくと、逃げようとするのですが、最早飛ぶ力も残っていませんでした。上の翅の上側の縁が、黒い線になっている他は、真っ白いアゲハでした。今まで、一度も見たことがありません。道に迷った渡り蝶かも知れません。多摩動物園の昆虫館から飛び出したのかも知れません。捕まえて、リュックに入れて持ち帰りました。ネットで名前が分れば良いですが、分らない時は、昆虫研究所か何処かに、写真を撮って送って、名前を教えて貰おうと思ったからです。

 リサイクルセンターに大ゴミを引き取って貰い、身軽になった所で、崖下(ママシタ)湧水へ行きました。近くの湿地帯にノゲシが一斉に綿毛になっていました。花の時よりは、魅力があります。その綿毛が、蜘蛛の糸に掛って、ふんわりと淡雪状になっていました。湧水を辿ると、矢川との合流点に出ました。湧水を飛び越えて、矢川の縁に出ると、その一帯が全部常磐露草の花畑でした。こんなに大きな、常磐露草の群落は、初めてでした。この地点の矢川の両脇は、身障者向けの滝野川学園になっています。滝野川学園を出て小道を歩くと、少し大きな道に出ます。その道脇に、旧家があって、数本の桐の木が淡い紫の花を付けていました。庭先の竹林には、まだ小さい筍もありました。その旧家の向かい側は、南養寺です。大黒さんが、まめな人なのでしょう、手入れの行き届いた庭があります。今は、紫蘭とショウマと苔が綺麗でした。落ち着いた寺と、その横の洗濯物とが、ふっと心を和ませる風景を作っていました。墓を越えて、裏手の「くにたち郷土文化館」に出ました。近くの農家の梅が、沢山の実を落としていました。摘果と同じになるのでしょうか、確かに残った実は、大きく育っていました。文化館を一回りして、谷保城山公園に出ました。何時もは崖下の道を歩くのですが、今日は、崖上の道を歩きました。昔の武蔵野の雰囲気を残していた畑の一部が、庭も持っていない、新興の住宅地に変わっていました。城山公園から谷保天神への道に出ると、此処でも畑の一部が、住宅地に変わっていました。どんどん武蔵野の面影が消えていきます。今日は、谷保天神には寄らないで、水田用の水が流れ始めた、むかし道を辿って、三屋通りに出ました。この通りを、一直線に多摩川に向けて歩けば、我が家に着きます。むかし道には、小さな実が付いた梨畑があり、道端には、ゲンノショウコ(現の証拠、本当はアメリカフウロ?)等、春の花々が咲いていました。ヘビイチゴも、赤い実になっていました。盛りは過ぎましたが、烏の豌豆と雀の豌豆が、一緒に実を付けていました。雀の豌豆の実の可愛いこと可愛いこと、小さいが故に、その頑張りが胸にじんと熱いものが湧きました。よく見かけるのに、名前の分らない花もありました。葉っぱは小さな蕗の葉のようで、ロゼット状に道に広がっています。花は、ゲンノショウコに似ています。それにしても、花一杯の武蔵野散歩でした。

 4時近くに家に戻り、明日の葬儀の弔辞を書きました。何やかやと思い出が湧き出して、筆がなかなか進みませんでした。相撲を見て、夕食を食べてから、再度弔辞を書き始め、10時近くになって、漸く書き上げました。弔辞を読むのは、これで最後にしたいと思いました。しかし、私の後輩は、あっけなく、あの世へ去りましたが、長く苦しむこと無く、PPK状態でしたから、ある意味では、幸せだったと思います。私が願っている死に方でした。

 

「白アゲハ 固き歩道の 道脇に 尾羽打ち枯れ 息も絶え絶え」

「蜘蛛の網 野芥子の綿毛 降り積もり 蜘蛛には贅沢 綿毛の布団」

「湧水が 流れとなりし 矢川かな 水辺を覆う 常磐露草」

「武蔵野の 旧家の庭に 桐の花 春の日の中 淡き紫」

「竹林に 晩生の筍 顔を出し 竹となりにし 兄貴を仰ぐ」

「南養寺 働き者の 大黒さん 厳な寺に 洗濯物かな」

「木下を 埋めるが如き 梅の実は 残りし梅の 育ち助ける」

「武蔵野の 面影残す 畑地には 庭も持たない 新興住宅」

「点々と 残りし田畑 縫うように 水音高き 府中用水」

「あぜ道に 蛇苺の 赤き実の 二つ寄り添い 甘き語らい」

「可愛げな 雀の豌豆 実の形 豆は二つの 犬陰嚢似」

「来る年へ 命を繋ぐ 小さき実 頑張りましたね 雀の豌豆」  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月18日 (木)

2017年05月17日

2017年05月17日

 

 まるで梅雨入りしたような、重苦しい曇り空が、何日も続いています。今朝も、曇り空で夜が明け、1日中曇りでした。

 ベランダのブライダルベールの花が、常磐露草と同じように、3弁の花だと気づきました。沢山の花を見ていますが、3弁の花は、本当に少ないです。

 朝、日記を書いていると、昨日訃報が届いた後輩(S)の奥さんから、電話がありました。私に、後輩の死を知らせようとしてくれたのです。お陰で、Sが死に至る経過がある程度分りました。気持ちが悪くなった時点で、救急車を呼んでいれば、恐らく命を落とすことは無かったようです。

Sとは、メキシコ時代、家族ぐるみで付き合っていたので、奥さんも良く知っています。メキシコ時代、Sが、一方通行の道を逆走し、警察に捕まったことがあります。素直に謝って、メキシコでは当たり前の、10ドルくらいの裏金を渡せば済んだことなのですが、Sは、自分が一方通行を逆走したとは思っておらず、警察に暴言を吐き、殴り掛ったようです。その為、Sは留置所に入れられてしまいました。その時の奥さんの、途方に暮れた顔と涙を思い出しました。警官に暴力を振るった人間を、留置所から出すのは、難しかったのですが、当時の警察の長官が日系人だったので、特別の配慮で留置所から出して貰いました。色々な、Sとの思い出が、走馬燈のように頭を回りました。

奥さんからは、夜にもう一度電話があり、19日の葬儀の際、弔辞を述べるように頼まれました。Sに対する弔辞は、若しかすると私が一番適任かも知れません。受けることにしました。

 朝の仕事が終わり、今日から仕事に出る次男を見送って、午後2時頃から、家の周りを軽く散歩して、近くのスーパーで買い物をしました。野菜や果物類が、ほとんど無くなっていたので、結構な量の買い物になりました。今日、外に出たのは、この時だけでした。

 午後、3時過ぎから、大学の我々のクラブの事を研究している准教授から、昨日送られてきた、クラブに関する録画を見ました。私は、このクラブのOB会長を、2009年から2016年まで、約7年間やって来ましたので、この間の現役や、その活動については、良く知っています。そんなわけで録画の内容は、記憶に新しいものばかりでした。私が、登場するものもありました。准教授の研究内容については、著書が送られて来ませんでしたので、詳細を承知していませんが、大まかに言えば、スポーツ文化とバンカラ文化の係わりから、日本の若者とスポーツ、我が国の体育教育について研究しているようでした。我がクラブが、我が国のスポーツ、体育教育の役に立っていることが、何等かの形で証明されるのであれば、こんなに嬉しいことはありません。但し、我がクラブの目標とする所は、もう少し高く、大学の発展を推し進め、気骨のある有能な人物を育て、日本社会、引いては世界の未来に貢献することを目指しています。「少年よ大志を抱け」です。

 録画を見終わると、5時になってしまいました。大相撲を見る時間です。今日、稀勢の里が、また負けてしまいました。どう考えても、体調不良です。久し振りの日本人横綱として、怪我を押して土俵に出ているのでしょう、気持ちは分りますが、結果が付いてきていません。

 夜は、久し振りに、一人での晩酌になりました。海老と蛸のアヒージョを作り、チョリソを焼いて、野球を見ながら、ワインで晩酌にしました。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月17日 (水)

2017年05月16日

2017年05月16日

 

 この所、重たい空が続いています。今朝も、洗濯が躊躇われる、どんよりとした空でした。

 今日は、胃癌の摘出手術後1年目の、内視鏡検査の日でした。8時42分発のバスで、国立に向かっていたら、電話が鳴りました。バスの中だったので、詳しい話しは出来ませんでしたが、我が家にもよく遊びに来ていた、大学時代のクラブの2年後輩が、昨日、急死したとのことです。バスを降りて、こちらから電話して、詳しいことを聞いた所、心臓の動脈破裂だったそうです。夜間の仕事中に、気分が悪くなり、一緒に働いている同僚がいなかったので、仕事が明けてから一旦家に戻り、近くの病院に行き、応急の手当てをして貰ったそうです。その病院の先生から、検査機械が充実している大きな病院で、きちんと検査した方が良いと言われ、大きな病院へ行った所で、動脈が破裂し、手の施しようが無く、死に至ったとのことでした。

 その後輩は、酒を飲んで良く議論をする後輩でした。彼は、右翼的考えの持ち主で、私は、左翼的考えの持ち主ですから、考え方が一致することは無かったのです。しかしながら、彼は、メキシコ時代や日本に於いて、常に私の側にいて、「先輩の為だったら、何時でも死ねる」と言ってくれていました。私の海外赴任の歓送会や、この前の手術の快気祝いをやってくれたのも、彼でした。私の日記も毎日読んでくれました。高校時代から、柔道をやっていて、頑健な身体を持っていました。誰彼と無く、自分の腹を殴らせて、鍛えているからなんとも無いと言うのが、彼の自慢でした。一見、我が儘で強引な人間に見えますが、信に篤く、情に脆い所がありました。何かというと、良く泣きました。

 後輩の訃報を聞くのは、辛いことでした。せめて、年の順を守って、この世を去って欲しいと思いました。人生で、親交の深い友人は、そう沢山居る者ではなりません。その友人達の訃報を、ぽつぽつと聞くようになりました。これが、年を取ったと言うことなのでしょう。

 私の方の、消化器系の内視鏡検査の結果は、極めて良好でした。次の検査は1年後となりました。1年間の命を保証されたような感じでした。大腸検査の方は一月後6月13日、CT検査は、昨年の手術日と同じ日、6月27日に行います。これらの検査で、全部OKが出たら、本当の意味で、1年間の命の保証が出揃うことになります。

 午後2時から、金祝の準備委員会がありました。金祝も今月の28日、間近に

迫りました。この金祝に、関西方面から参加する友人と、電話で話すことが出来ました。彼は、このような行事を通じて、普段合えない友人と会えることを、非常に楽しみにしていました。このように、人を集めるという意味では、金祝も良いことだと思います。

 夕方、家に帰ると、我々のクラブの現役を通じて、我々のクラブのことを研究していた、大学の准教授より、研究成果のDVD版と、現在、准教授が教鞭を執っている、鳥取の名物が送られてきていました。DVDの作成に、随分迷惑を掛けてしまいましたが、私の勝手な要求に応えてくれて、感謝しています。

 夜は、明日から仕事を始める次男と、何時も通りの晩酌となりました。今後は、月に1,2度しか一緒に酒を飲むことが出来なくなります。晩酌中に、後輩の死を知らせてくれた、別の後輩より電話があり、死んだ後輩の葬儀の日時を知らせてくれました。19日になったそうです。後輩の死の儀式が始まり、彼を現実の存在から、思い出へと、どんどん変えていきます。浮き世の定めです。

 

「長生きは 友の訃報を 多く聞き 悲しみ多く 喜び少なし」

「電話して 今夜飲もうと 誘うても 応えてくれぬ それが友の死」

「涙顔 時には憎き あの友も 死したる後は 思い出の中」

「長生きし 思い出ばかり 増え行くも 語る相手は 減る行くばかり」

「老い先は 花鳥風月 友として 訃報知らずに 生きて行きたし」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月16日 (火)

2017年05月15日

2017年05月15日

 

 今朝もすっきりしない朝でした。雲が低く垂れ込み、奥多摩の峰々も、姿を見せませんでした。

 ベランダの、ブライダルベールが、山ほど花を付けました。大規模修理以来、どの様な花をベランダで育てるか、悩んでいたのですが、4つだけは、鉢から垂れ下がる感じの、蔓性の植物を育てることにしました。その内の一つとして、一月ほど前に、ブライダルベールを買ってきました。これまでも、少しずつ花が咲いていたのですが、今日は一斉に花が咲きました。我が家のベランダにも、漸く、花らしい花が咲きました。

 今日も午後から、高幡不動まで歩いて来ました。万願寺の交差点までは、昨日と同じ所を歩きました。

 午後1時半頃に家を出て、四谷桜公園で、準備体操をしてから、散歩を始めました。公園の前の土手には、ニワセキショウ(庭石菖)が、花をばらまいたように咲いていました。おっ立ちカタバミと変わらない大きさの可愛い花です。それから、土手下の道に下りました。昨日気になった、大きな綿毛の元の花を見たかったのですが、残念ながら蕾のままでした。ハルジオンの白い花に、紅シジミが戯れていました。

 石田大橋を渡り、万願寺の交差点から、石田2丁目の住宅地に入りました。土方歳三の生家が或る所です。他にも何軒も土方姓の家があります。普段は、此処から浅川の土手に出るのですが、今日は、土手から見るだけだった神社に寄るために、暫く住宅地を歩きました。お陰で、旧家に平姓も多いことが分りました。土方歳三も、子供の頃には遊んだであろう神社は、石明神社で、石大明神とも呼ばれていたようです。その昔は、堰大明神と呼ばれていたらしく、近くに浅川の堰があったようです。今も取水堰があり、用水路に水が流れていました。また、この神社は、どうしたわけか、狛犬がいませんでした。この辺りは、多摩川と浅川の合流点の近くであり、昔は、何度も洪水の被害を受けたそうです。狛犬も洪水で流されて、その後、奉納する人がいなかったのかも知れません。

 石明神社から、浅川の土手に出ました。土手には、毎年、花は見るものの、まだ、花の名前が分らない花が咲いていました。地面から、土色の花が直接出ている、少し変わった花なのです。河原には、花ウドが咲いていました。

 ふれあい橋を渡り、高幡不動駅の北口に着きました。駅前に小さな神社があるのですが、何時もは素通りしていました。名前さえ知らなかったのです。若宮愛宕神社でした。小さな神社の割に、2本の欅の大木が見事でした。これまでに、多くの村人を守ってきたのかも知れません。

  高幡不動駅の南口に出て、高幡不動行きました。鎮守の森が若葉で覆われ、緑の滝のようでした。高幡不動の名物の一つである、山紫陽花の蕾が、大分大きくなっていました。花の時期はもうすぐです。白いシャクヤク(芍薬)の花が、大きくなり過ぎて、頭が地面に付きそうでした。

 高幡不動から聖蹟桜ヶ丘に戻りました。何時もコーヒーをサービスする店のコーヒーは、昨日まではアイスでしたが、今日はホットでした。曇り空で、風が冷たかったのです。ちょっとした気遣いですが、とても嬉しく思いました。でも、何も買わずに、コーヒーだけご馳走になりました。

 昨日と同じ時間、4時過ぎに我が家に戻り、相撲が終わった6時過ぎから、何時ものように次男と晩酌になりました。今日、次男の採用の通知が来たそうです。明後日から、仕事に出ると言っていました。今度は、料理関係の慣れた職場ですから、仕事には問題は無いと思いますが、痛めた膝が、通勤や仕事に、差し障りがないか、それだけが心配です。

 明日は、1年振りに、内視鏡の検査をします。悪い結果が出たとしても、一応の覚悟が出来ていますが、もう暫くは生きていたいと思いますので、良い結果が出ることを願っています。

 

「ベランダの ブライダルベール 花一杯 やがて季節は ジューンブライド」「庭石菖 乾いた土手に 零れ咲く 背丈伸びぬも それがまた良し」

「今盛り 五月中半の 春紫苑 白い頭に 紅の簪」

「毎年の 出会いはあれど 名を知らず 冷たき我を 許しておくれ」

「新緑の 紅葉の枝の 重なりて 鎮守の森は 緑の滝かな」

「頭垂れ 仏崇める 芍薬に 寺の雨戸も 開いているなり」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月15日 (月)

2017年05月14日

2017年05月14日

 

 今朝は、雨は降っていませんでしたが、かなり厚い雲が張り詰めていました。沖縄と奄美は梅雨入りしたようですし、雨の季節が、近づいているようです。

 今朝一番に、北朝鮮がミサイルを発射したとのニュースが流れました。安倍総理も、6時半には記者会見をしていましたが、朝早く叩き起こされたせいで、眠気が覚めていないのか、何時もの快調な話し振りではありませんでした。

 私は、民主主義の政治制度は、人類の政治制度の進化の表れだと思っています。長い歴史の過程で、人権を守ることの重要性を、学んだ結果だと思っています。現代の世の中に、政治権力を世襲する王政は、時代遅れだと思っています。北朝鮮が、朝鮮民主主義人民共和国と称しながら、何故、世襲王政と同じような政治体制に移行したのか、全く理解が出来ません。国民を守らず、国家を守るという論理があり得るのでしょうか、民主主義の中で生きてきた私にとって、全く不可解です。イスラム圏に、世襲王政が多いのも、実のところ良く分りません。王政の方が、訳の分らない人間が政治を行うより、良い政治が出来るという人もいますが、私は、そうとは思えません。

今朝のミサイルの発射は、ニュース解説では、米国に対抗できる、あるいは容易に米国が北朝鮮を攻撃できない様な軍事力を誇示していると、これまでに、何度も言っていたことを繰り返していました。それは、そうかも知れませんが、北朝鮮国民に、どの様な利益をもたらすのでしょうか、それが何も見えないのです。戦前の日本の軍国主義と同様、狂気としか思えません。一旦戦争が始まれば、何百万の国民が犠牲となり、戦争責任者は、自殺して終わりになってしまうのです。なんとか、我々も戦争に巻き込まれず、北朝鮮の国民を、戦争の犠牲にしない方法は無いのでしょうか、北朝鮮のニュースを聞く度に、本当に憂鬱になります。

今日は、午後から、遠回りをして、聖蹟桜ヶ丘に行って来ました。スマホの電話が使えなくなったので、AUのサービス店で、修復して貰う必要が生じたのです。自分では、全く対応できません。

午後1時に家を出ました。アパートの脇の生け垣の下に、とても珍しい花を見つけました。何のことは無い、シロツメクサの花でした。盛りを過ぎた花が、頭の部分だけ花弁を落とし、花弁の多い小型のデージー(雛菊)のように見えたのです。シロツメクサの花が、このような状態になるとは、思っていませんでした。

それから、この前歩いた土手下の道を歩きました。もう一度、ピラカンサスを確認してみようと思ったのです。注意してみると、ピラカンサスは、以前2本だと書きましたが、我が家の前から、石田大橋までの土手下の道に、7本もありました。枝から上向きに蕾を付けている木が2本、まだ蕾を付けていない木が3本、満開の花をつけている木が1本ありました。そして、問題の枝から下がった蕾を付けている木が、1本ありました。最後の1本を、慎重に見たのですが、まだなんとも言えません。ピラカンサス特有のハチャメチャな枝振りでもありませんし、花も枝の下に綺麗に並んでいます。しかし、葉っぱとかを見ていると、このような種類のピラカンサスも、あるのでは無いかと思ってしまうのです。ネットのピラカンサスの写真に、ブドウのように下がったピラカンサスの実もありました。秋に、もう一度確かめてみましょう。

道脇に、大きな綿毛がありました。タンポポより背も高く、綿毛も大きかったのです。残念ながら、蕾と綿毛はあったのに、花が咲いていなかったのです。これでは、図鑑で調べることが出来ません。明日、花の咲きそうな蕾があったので、明日も歩かなければなりませんかね、、、。

道脇の草に、沢山の泡が付いていました。子供の頃は、この泡の中にいるのは、蛍の幼虫だと思っていました。少し大きくなって、蛍の幼虫では無い事を知り、今日ネットで、アワフキムシ(泡吹き虫)だと知りました。ネットは、本当に便利だと思います。

石田大橋、新井橋を渡り、浅川の右岸に出ました。野薔薇や草藤の花は、浅川の方が多いような気がしました。アカシアの花は終わりを迎え、栴檀の花が咲き始めていました。大キンケイ菊、野蒜の花も咲き始めました。春紫苑も山ほど咲いていました。これは、ヒメジョオンに違いないと思って、茎を折ってみましたが、どれも空洞でしたから、ヒメジョオンではありませんでした。

程久保川を渡って、多摩川の右岸に出ました。何時もの場所に、ナワシロイチゴ(苗代苺)が紫色の花を付けていました。浅川と多摩川が合流する、三角州の中に、栃の木の花のような白い花が見えました。遠いので、確かめることが出来ませんでした。

四谷橋を越えて、聖蹟桜ヶ丘に、3時半くらいに着きました。直ぐに、AUのサービス店に行き、番号札をとりました。既に、3人の客が待っていました。少し待つ必要があるかなと思ったのですが、直ぐに若い店員がやって来て、「今日は、どの様なご用件でしょうか」というので、電話が使えなくなった旨告げると、私のスマホを色々調べていましたが、良く原因が分らなかったらしく、一旦電源を切り、再度電源を入れ、システムを初期状態にした所、通常に電話が使えるようになりました。ものの10分程度でした。

今日は、相撲の5月場所が始まるので、酒の摘まみに焼売を買って、3時53分のバスで我が家に戻りました。バス停の前のアパートの爺さんのことが気になっていたので、アパートの庭に入ってみました。沢山並んでいた鉢に、花はありませんでした。庭に面したアパートの部屋には、爺さんの子供らしい人達が住んでいたのですが、空き部屋になっていました。どうやら、このアパートを引き払ったようでした。手入れがされなくなった庭に蔓延った、姫蔓蕎麦、キキョウソウ(桔梗草)を貰って帰りました。爺さんから貰った日々草は、大規模修理の際、全て枯れ果てました。実は、キキョウソウの花の名前を聞いたのが、爺さんとの縁の始まりでした。我が家に戻って、爺さんとの思い出のキキョウソウを、我が家のプランターに植えました。毎年、思い出の花を付けてくれると嬉しいです。

大相撲の方は、皆の期待の横綱稀勢の里は、左肩の傷が完治していないらしく、先行き不安の幕開けとなりました。解説者が言っていたように、途中休場になるのではないかと、心配になりました。

 

「春呼びし 白詰草も 盛り過ぎ 最後の装い 雛菊もどき」

「枝振りも 実の付き方も 品の無し 花もうるさい ピラカンサスかな」

「草むらに すくっと大きな 綿帽子 さぞ艶やかな 花でありなん」

「同じ時期 同じ姿で 花咲かし 我を待つかな 苗代苺」 

「バス停の 花咲か爺 今は無し 我との思い出 桔梗草かな」

「桔梗草 我が家の庭に 根を下ろし 毎年咲かせよ 思い出の花」

「年老いて 出会いし人との 縁とは かくも短い ものであるとは」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月14日 (日)

2017年05月13日

2017年05月13日

 

 朝から雨で、最初は霧雨程度でしたが、午前9時を過ぎる頃から、最近にない本降りの雨となりました。一日中雨だったので、今日は、散歩を止めました。

 午前中は、何時もの通り過ごしましたが、午後は、家の中でテレビを見て過ごしました。野球の巨人―広島戦の中継があったので、なんとか時間を潰すことが出来ましたが、散歩をして外の空気に触れないと、時間の経つのが随分遅いものだと感じました。晴耕雨読のように、本が読めれば、何の苦労もないのですが、本を読むのは、30分が限度です。老眼鏡をかけようと何しようと、目の霞は強くなって、全く文字を認識できなくなります。私の部屋にある、沢山の本が、飾り物になってしまいました。

 所で、最近数件の、介護中の家族による、被介護者の殺人のニュースが報じられました。自分の力で生きていく事の出来ない人(金銭では無く体力として)を、どの様に処遇するかに付いては、前にも何度か書きました。端的に言うと、70歳を過ぎて、回復の見込みがない人については、病院の責任ある医者が家族の了解を得て、引導を渡しても良いと考えます。家族の了解が得られない場合は、家族が、家族の責任で介護するようにすれば良いと思います。自宅介護中の人を、家族が介護を放棄したり、殺したりしたとしても、情状酌量してやるべきだと思います。出来たら、公的な病院の一角に、終末医療の区域を設け、そこに移動する時には、医者が引導を渡す場所であることを、家族も、社会全体も納得するべきだと思います。医者は、いかなる病人も治すことが使命だという、一方的な考えは、好きではありません。老衰で死ぬのは、命ある者の定めです。医者には、合理的診療を求めるべきで、奇跡を起こすように求めるべきではありません。奇跡は、通常起きないものだから奇跡であることを認識すべきです。宝籤よりも確率の悪い奇跡を信じて、医者や家族や社会が犠牲になるのは、良いことだとは思いません。回復の見込みが無い人に対しても、犠牲をしなければ、社会から後ろ指を指されるような社会通念を、変更する必要があると思います。家族愛は、未来があり、自分で生きる力のある者が、協力し合える時の、協力の姿だと思った方が良いと思います。ただ、「人を殺してはいけない」というのが、古今東西の倫理観の基礎ですから、大きな反発があると思いますが、何時かは、乗り越える必要があると思います。

 

三日前、韓国の保守と革新について少しだけ触れました。一般的な保守と革新について、私の稚拙な考え方は、次の通りです。

300年ほど前迄は、世界のどの国も、人間社会は、農牧漁鉱商業が人間の生きる手段でした。政治体制も、新世界を除いて、王政がほとんどでした。多くの人は、昨日と違った明日が来ること想像できなかったと思います。所が、徐々に進んでいた工業技術の発展は、蒸気機関が産業や交通に利用されるようになり、イギリスに産業革命と呼ばれる技術革新の時代が生まれました。人間の生きる手段が、自然の恵み中心から、工場勤務(織物工場等)が、大きな手段として出現しました。農奴として、貧困に苦しんでいた人達は、以前よりは、良い収入を得ることが出来るようになり、イギリス社会は、豊かさを享受できるようになりました。しかし、産業革命を社会の発展と結びつけた国と、そうでない国との間にかなりの格差が生まれました。隣のフランスは、産業革命に出遅れ、イギリスとの格差を見せつけられました。フランス国民は、この格差の原因が、旧態依然とした王政にあると考え、結果としてフランス革命が起こりました。この時の革命は、ある種暴発的でしたが、その後の革命は、共産主義思想に裏付けをされた革命になりました。

イギリスは、王の権利は少なくしましたが、王家は存続させました。この頃から、保守と革新の違いは、保守は政治体制の急激な変革を望まず徐々に社会発展を望む考えとなり、革新は政治体制を根本から変える事も辞さない考えを差すようになったと思います。特に、共産主義革命が、思想を前面に押し出したため、保守派には理念が無く、革新派には理念があるようにも言われた時期がありました。

所が、時代は徐々に変化し、世界中の多くの国が民主主義の政治体制に変わりました。保守的な国家も、国民年金等、国民の社会的救済を政策に掲げるようになりました。革新系も政治体制そのものの変革は言わなくなり、経済に関しては、保守系の制度を取り入れるようになりました。人間の生き方は、保守系がどんなに頑張ったとしても、時代に合わせて変動します。革新系も、以前の革新を守ることだけに専念したら、それは保守そのものです。現代に於いては、保守も革新も、左程の違いは無くなりました。

しかし、どの考え方にも極端な考え方をする人は、必ずいます。極右、極左と言われる人達です。この人達は、社会を時代に合わせて、如何に合理的に変革していくかに関心は無く、好き嫌い自分の生活基盤を守ることを基調とした、感情的主張を吠えるだけです。そして、その主張に同意しない人を敵視し、自分達の主張を押しつけようとします。極右、極左は、合理性が無く、従って話し合いの余地が無く、歩み寄りがありませんから、最後は決裂、国と国の場合は、戦争になります。今、極右、極左に近い人が増え、国際社会までもが、その人達の影響を受けるようになっています。これは、国家間の経済格差、国内の経済格差の拡大が、原因だと思われます。なんだか、怖いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月13日 (土)

2017年05月12日

2017年05月12日

 

 良く晴れた朝でしたが、霞が強くて、富士は見えませんでした。今日は、一日晴だと思っていたのですが、午後から雲が多くなり、3時過ぎには、薄雲が空を覆ってしまいました。

 今日は、午後から神代植物園と深大寺に行って来ました。もう少し早めに行きたかったのですが、時機を逸してしまいました。

 午後1時半頃に家を出ました。我が家から、バス停に行くまでの道に、ピラカンサスを植えている家があります。そこのピラカンサスは、今、満開の花を付けていました。秋に、あの夥しい赤い実を付けるのが、一目で分るような花の咲き方でした。ネットで見た花とも同じでした。私が、河原でピラカンサスの花だと思ったのは、全くの間違いでした。葉は、ピラカンサスに似ていましたし、秋には、赤い実を付けていたような気がしたのですが、矢張り間違いでした。

 バス停の前に、古い2階建てのアパートがあり、去年私が手術をする前までは、アパートの持ち主と思われる爺さんが、毎日、庭の手入れをし、花を育てていました。私も、その爺さんから、花を2鉢貰いました。しかし、今年になって、その爺さんの姿を一度も見ていません。近い親族の所に引っ越したか、養護施設に入ったか、あるいはこの世を去ったのか、非常に気になります。

 午後2時半に、神代植物園に着きました。最初に植物多様性センターに行き、その後、植物園に入りました。梅も桜も、ツツジも藤も、皆散り果てていました。今日、植物園を埋めていたのは、ハルジオンでした。花ウドやアカバナやクサノオウも咲いていました。ドクダミや韮も白い蕾を付けていました。まるで野草を見に来たようでした。私にとっては、それも一興でした。

梅の時期には、裸身を曝していた、落葉樹の木々達が、枝の先々まで、若葉で覆われていました。「むかしの仲間」という中学時代の卒業アルバムに、島崎藤村の次の様な詩が載っています。この他にも、幾つかの詩が載っていて、そのどれもが、心を打つ、素晴らしい詩です。

「ああいつかまたあひあうてもとのちぎりをあたためん

 うめもさくらもちりはててすでにやなぎはふかみどり

 ひとはあかねどゆくはるをいつまでここにとどむべき」

この詩を選んでくれた、当時の国語の先生は、本当に素晴らしい先生でした。今でも尊敬しています。大学には行って、最初の夏に帰郷した時、昔の仲間と先生とで、海水浴に行きました。その時の先生の姿が、赤褌だったのを覚えています。この先生は、作詞作曲もする人で、この先生の歌が載っていた、中学校の愛唱歌集が、現在、我が家で行方不明になっています。ところで、この詩は、今日の神代植物園の様でもありました。

野草以外の花は、ほとんど見られませんでしたが、神代植物園自慢の薔薇は、今が満開でした。初めて神代植物園の薔薇を見た時は、夢中で薔薇の花の写真を撮ったものでしたが、今は全く興味を失いました。なんだか、造花を見ているような気になってしまうのです。それでも、この植物園以外では、見たことのない、山椒薔薇だけ写真を撮りました。

 その後、深大寺から水生園の方へ回りました。深大寺のナンジャモンジャの木も花は散り、逆に、水生園の方は、花の時期には間がありそうでした。どうせなら、もう少し来るのを遅らせて、紫陽花の時期に来れば良かったと思いました。

 

「夥し 花は秋には 赤い実に 君は確かに ピラカンサス」

「常日頃 花を育てて 笑み零る 君の姿の 無きは寂しき」

「晩春に 藤も水木も 散り果てて 既に林は 深緑かな」

「植物園 草地を埋める 春紫苑 君を見に来た 訳ではないが」

「ドクダミも 韮も小さな 蕾付け もうすぐ君等の 花の時期かな」

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月12日 (金)

2017年05月11日

2017年05月11日

 

 雨模様の空は去り、素晴らしい天気の朝でした。富士が綺麗に見えました。我が家から見える富士の頂上付近にも、細いながらも黒い筋が見えるようになりました。天気予報に依れば、今日のような天気のことを、雨過天晴と言うらしいです。読んで字の如く、雨が去り、晴れた天気になる事だそうです。雨の後、天気が晴れ、青空の下に富士が見えると、心も晴れ晴れします。

 今日は、午後、府中の法務局に行って来ました。実は、2ヶ月ほど前に、ヴェネズエラで働いていた時の友人から、彼の知人の国籍問題に関し、相談を受けていました。ヴェネズエラデ働いていたのは、かれこれ45年ほど前のことです。問題の本人であるHさんとは、一月ほど前に電話で話をし、連休前に、詳細な資料を送って貰いました。また、一昨日の朝も電話で話し、法務局の感触を聞いてくる約束をしたのです。

 12時半に家を出て、チューバスで府中駅に行き、そこから更にバスで、法務局に行き、2時近くに法務局に着きました。私が、仕事を辞めた時、個人で会社を設立しようと思って、相談に行った所だったので、懐かしく思いました。国籍の相談等、法務局で相談を受ける場合は、予約を取る必要があるらしかったのですが、偶々空いていたので、飛び込みでしたが、相談を受けて貰いました。

 他人の個人的問題なので、詳細を書くことは出来ませんが、良識的な回答を得たと思います。要約すると、「元々日本人なのだから、海外で生活する上で、その国の国籍を取ったため、仮に日本国籍を喪失したとしても、今後日本に戻って住むと言うのであれば、日本国籍に戻ることは、難しいことではない。外国籍を持っている間に、外国で処理すべき事を済ませ、日本で住居を定めてから、帰化申請をすれば、そんなに時間をかけずに日本国籍を取得できるし、帰化申請中の日本での生活にも、大きな支障は出ないでしょう。」とのことでした。私も納得しましたので、そのことをH さんに連絡して、本件は終わりにしたいと思います。

 法務局の近くにカトリック墓地がありました。4年前、大学の創立100周年のため来日していた、大学時代の恩師A氏と共に、同じく大学の教授であったS氏の墓参りをした所です。A 氏は、2年前に他界し、先月三回忌を行ったばかりです。A氏とS氏は、半世紀前の大学紛争時代、大学の学生部に所属していて、紛争解決の最前線にいました。その後、国民は、左翼的運動に、冷めた目を向けるようになり、大学紛争は急速に終演しました。時代が変わったのです。今はもう何もかもが、歴史になってしまいました。

 カトリック墓地から、学園通り、農工大のキャンパスを抜けて、以前6年間住んでいた所へ行きました。ほとんど変わっていませんでした。この地での6年間は、私の人生で、最も大変な時期だったと思います。20年間忘れていた前妻の病気が再発し、病院からは治療の方法がないと言って入院を拒否され、在宅療養となりました。結局、前妻はこの地で他界しました。それから、現在の地に引っ越しましたが、そろそろ15年になります。私の人生もそろそろ終わりです。思いがけない、センチメンタルジャーニーになりました。

 家に帰ったのは、5時過ぎでした。何処かに出かけていたらしい次男も、帰って来ました。今宵は、手製のピザ、昨日作っておいた玉葱の丸煮、鶏の軟骨を焼いたもの、次男が買ってきたタコ焼きで飲みました。次男は、面接の結果を待っているようでした。就職が決まれば、一緒に住んでいても、次男が休みの時しか、飲む機会が無くなります。しかし、それが普通の状態なのだと思います。

 

「刻一刻 時の移ろい 休み無し 生きてるからこそ 時を感じる」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月11日 (木)

2017年05月10日

2017年05月10日

 

 朝から、霧雨が降っていました。連休中から、雨が降っていなかったので、久し振りの雨でした。しかし、午後には霧雨も止み、結局、お湿り程度の雨でした。

 昨晩には、韓国大統領選の投票結果は分っていたのですが、今朝確定しました。革新系の山在寅氏が、大統領に選出されました。テレビでも、韓国の保守と革新の違いは、非常に分かりにくいと言っていましたが、私にも良く分りません。単純に言えば、文化だとか伝統だとか政治体制だとか、旧来の物を守っていこうとするのが保守であり、必要であれば文化や伝統や政治体制を変革していくのが革新だと思います。所が、韓国の場合は、保守と革新の間で、文化や伝統や政治体制に関する考え方には、大きな差が無いようです。大きな違いは、北朝鮮問題への対応の仕方のようです。つまり強硬手段による朝鮮統一か、穏健な融和政策による統一かが、分かれ道のようです。今度の大統領は、革新系ですから基本的には、融和政策をとると思われます。従って、北朝鮮も様子を見でしょうから、直ちに朝鮮半島の危機が現実化することは、避けられたようです。しかし、革新と思われた大統領が、保守的な政策に変わることがあります。この時は、保守系が保守的な政策をすることよりも、相手側に与える裏切り感は大きいものとなり、危機が現実化する危険性は、逆に強くなります。何れにせよ、暫くは様子見です。

 午前中は、霧雨が降っていたので、今日は散歩を止めようかと思っていたのですが、午後には、雨も収まったので、我が家の前の河原を、歩いて来ました。

 午後2時過ぎに、家を出て土手の道を、石田大橋の方まで歩きました。石田大橋の橋の裏には、例年、数多くの燕の巣が作られ、多くの燕が巣を行き来する様子が見られたものでした。所が、今年は何処に巣があるのか、見つけることさえ困難でした。どうしたのでしょうか、どの様な環境の変化があったのでしょうか、非常に気になりました。

 石田大橋の近くのスーパーで、軽く買い物をして、帰りは、土手下の道を歩きました。何日か前、ヒメジオンとハルジオンの違いについて、書きましたが、名前そのものが間違っていました。ヒメジョオン(姫女)とハルジオン(春紫菀

)でした。二つの花の違いについては、以前の書いた通りです。今日、土手上の道にも土手下の道にも、ヒメジョオンとハルジオンが、沢山咲いていました。

 今の時期、土手下の道は、草藤の花畑です。枯れた荻の原にも、鬼胡桃の木下にも、野草の仲間の間にも、紫色の花畑が広がっていました。何年か前、この花畑の一箇所に、白花の草藤が咲いている所を見つけました。今年も、白花の草藤が咲いているか、確かめに行きました。期待に違わず、ちゃんと咲いていました。今年は、三箇所に増えていました。その中には、真っ白ではなく、ピンクの草藤もありました。

 今年は、白花のカラスノエンドウも見つけました。土手下のカラスノエンドウは、花の時期を過ぎて、真っ黒い鞘を付けていました。中の豆を見るのを忘れました。今土手下の道は、草藤の紫の中で、アカシア(ニセアカシア)と野バラが、白さを競っていました。また、ある木には、キブシの小型版のような白い花の蕾が、幾つも下がっていました。私は、土手下の道に2本だけある、ピラカンサスの花の蕾だと思ったのですが、ネットで調べると違うような気もしました。もう一度、確かめて見る必要が、ありそうです。秋の赤い実は、間違いなくピラカンサスですから、、、。

 

「姫紫菀 姫は姫でも 姫女 思い込みは 間違いの元」

「アカシアの 白き花弁 舞い降りて 草藤の花 白く変えしや」

白くにも 紫色にも 成り切れず 薄桃色の 草藤の花」 

「時移り 烏の豌豆 実の時期に 烏食べるや 黒き鞘の実」

「紫の 草藤畑に 野薔薇かな 河原に際立つ 山盛りの白」

「白枯れし 荻の原には 荻若葉 親の背越える 日は間近なり」 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月10日 (水)

2017年05月09日

2017年05月09日

 

 雲の多い朝でした。天気予報に依れば、夜には、雨になるとのことでしたが、私が都心から帰宅する時までは、持ち堪えていました。

 今朝、今日の会議の資料を、ホッチキスで止めていると、ホッチキスの玉がなくなりました。また、会議に持って行った、ボールペンのインクが無くなり、紙に凹みだけが出来るようになりました。私は、何故か分かりませんが、或る物が終わる瞬間が、とても好きです。感動すら覚えるのです。何故なのかを、無理に考えて見ると、一つは、それらの物が、私のために頑張ってくれた事への、感謝の気持ちです。もう一つは、私が、それらの物を必要とするように、生きていることへの感謝の気持ちです。歳を取って、今生との別れが近くなると、感謝の気持ちが、強くなって来たように感じます。ホッチキスの玉とか、ボールペンの芯は、取り替えれば済むことですが、人間の人生は、そうも行きません。

 今年の2月くらいから、大学卒業50周年の金祝のための、準備委員をやっています。今月の最後の日曜日に、金祝の行事が行われます。お陰で、やることが少し増えました。準備委員会には、各学科の代表が最低二人参加していますので、準備委員の数は、50名を超えます。大学が行う正規の祝典は、大学が行うため、準備委員が行うのは、式典の後の祝賀会の準備です。3ヶ月程、一緒にやって来て思うのは、大学卒業後、人生を夫々に生きてきて、人格も夫々ですが、誰もが、与えられた役目を間違いなくやろうと一生懸命なのです。自分は、まだ、仕事がやれるということを、見せたいようでもあります。また、同期なので、遠慮が無く、勝手なことを言ったりして、会議が思うように進まないことも、ままありました。しかし、準備委員会そのものが楽しい集まりになりました。金祝が終わると、急にやることが無くなり、気落ちするのではないかと、心配しています。同期会という名前に変えて、準備委員をやった人だけでも、年に1回くらい会う機会を作ったらどうかと思います。

 今日の、準備委員会は、私が用意した資料に基づいて、当日の祝賀会の式次第、進め方、準備する物等の再確認をして、1時間程度で終わりました。その後、私が、現役と連絡を取っている間に、準備委員は三々五々いなくなってしまいましたので、私もそのまま帰りました。

 家に着いたのは、5時過ぎで、6時過ぎから、奥多摩で買ってきたわさび漬けや肉じゃが、それに奥多摩の老人が勧めた、わさび風味の岩のりで食べる、冷や奴を肴にして、次男と晩酌にしました。次男に、やんわりと今後のことについて、聞いてみた所、自分なりに仕事を探しているようでした。明日、一つ面接を受けると言っていました。面接が、上手く行くかどうかは分りませんが、新たな職を探しているようでしたので、少し安心しました。

「遠慮無く 物が言えるは 同期だけ 年は取れども 元気な笑顔」

「半世紀 皆夫々に 生きてきた 生きた証の 顔に現る」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 9日 (火)

2017年05月08日

2017年05月08日

 

 今朝は、素晴らしい天気だったにも拘わらず、富士が見えませんでした。湿度は、冬のように乾燥しているらしいのですが、何故こんなに視界が悪いのか、良く理解が出来ません。

 朝のニュースで、フランスの大統領の選挙の結果、極右ではない、マクロン氏が、勝利したと報じていました。ほっとするニュースでした。人類が多くの過ちを犯し、特に第2次世界大戦の反省の中から、戦争の無い国際社会を目指す動きが、戦後から続いていました。この動きは、中近東の一部を除き、比較的成功裏に進展していました。しかし、今年、国際社会のリーダー的存在である米国に、自国優先主義(愛国主義、白人主義ではないかとも思われる)を政策の基本とする政権が誕生し、英国がEUから離脱するなど、戦前の状態に回帰するような傾向が、見え始めていました。この状況の中で、フランスに於いて、極右政党が勝利すれば、戦前への回帰が加速するのではないかと心配されていただけに、そうならなかったことは、今後の国際社会の動きを見守る余裕が生まれ、一安心しました。

 今日は、明日の金祝準備委員会の準備など、やらなければならないことが多く、散歩は、聖蹟桜ヶ丘まで歩いただけでした。

2時過ぎに家を出て、歩き始めると真夏のような暑さでした。テレビでは、30度を超す所も出ると言っていましたが、私が歩いている所が、そうではないかと思いました。聖蹟桜ヶ丘に着いたら、先ず、カルディというエスニック食材店に入りました。この店は、コーヒーのサービスがあるので、買う物がなくても、良く入ります。今日、入ったら、アイスコーヒーのサービスがありました。つい数日前に来た時は、ホットコーヒーのサービスだったのですが、この暑さでは、アイスコーヒーでしょう。嬉しくなって、ベルギーの缶ビールを、半ダース買ってしまいました。

聖蹟桜ヶ丘での用を済ませて、デパートの食品売り場を歩いていると、タカノフルーツパーラーに、色の綺麗なマンゴが売っていました。このマンゴ一個の値段が、なんと6,800円でした。このマンゴを自宅用に買って食べる人がいるのでしょうか。マスクメロンと同じように、病院のお見舞いか、贈答用としか思えませんでした。メキシコで完熟した美味しいマンゴは、高いもので、1ドル程度で、安い物は、20セントくらいでした。日本は、果物が異常に高いような気がします。

 我が家の近くにある、ショッピングモールの中の散髪屋で、夏用に散髪しました。ショッピングモールへ歩いている時が、小学校の帰宅時間のようでした。この小学生より、早く散髪屋に行けば、待たずに散髪が出来ると思ったのです。この予想は大当たりで、待ち時間を入れても、20分で散髪が終わりました。

 家に帰って、暫くすると、次男が帰ってきました。実は、次男の足は、ほぼ完治したようなのですが、再発する恐れが高いので、給食センターの仕事は、辞めることにしたようです。今日は、その手続きに行っていました。無事、退職の手続きは済んだようですが、次の仕事をどうするか、更に大きな問題が待っています。前にも書きましたが、歳を取ってからの外食産業への就職は、非情に難しいものがあります。しかし、次男は、デスクワークや、土木関係などの力仕事は無理ですから、結局、なんとしてでも外食産業の職を見つけざるを得ないでしょう。自分で店をやるための、お金の蓄えもないようですから、心配の種は尽きません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 8日 (月)

2017年05月07日

2017年05月07日

 

 結局、昨日は、夜になっても雨が降ることはなく、夏になったような暑さでした。今朝は、雲は多いものの、良い天気でした。ただ、黄砂が飛んで来ているらしく、霞と相俟って、視界不良でした。勿論、富士も見えませんでした。

 ベランダから、双眼鏡で十字架の鉄橋を確かめましたが、昨日、どうして鉄塔が見つからなかったか、本当に謎です。近々、もう一度謎解きに出かけたいと思っています。

 今日で、5月の連休も終わりました。私のように、毎日が休みの人間にとっては、連休中は、色んな所が混雑するので、少々迷惑な感じがします。少しでも名のある場所は、予定したものとは違って、人を見に行く状態になります。

 今日は、日記を早く書き上げ、10時から奥多摩に行って来ました。昨年の胃癌の手術もあり、ここ2年ほど、奥多摩に行っていませんでした。

 電車とバスを乗り継ぎ、奥多摩湖に着いたのが、午後1時過ぎになってしまいました。今日は、太陽の光がなくて、新緑の輝きが今ひとつでしたが、それでも、新緑の若葉が、山肌を多い素晴らしい自然に包まれました。新緑の山と、水を満々と湛えた奥多摩湖の湖面を見ながら、昼食にしました。コンビニで買ってきたお握りが、とても美味しく感じられました。後ろの、木造の休憩所は、燕達のアパートのようになっていて、燕が出入りを繰り返していました。多摩の里の燕が少なくなっていたので、心配していましたが、ほっとしました。

 以前は、奥多摩湖から「むかし道」を歩いて、奥多摩駅へ戻ったものでしたが、明るい内に戻れるか心配でしたので、バスで戻ることにしました。2時半には奥多摩駅に着きました。氷川渓谷の新緑を楽しんだ後、時間がたっぷりあるので、氷川神社の川向こうの、愛宕山に登ることにしました。

 愛宕山は、山裾に出来た突起状の丘でした。急な斜面ですが、高さは、大したことないと、高を括っていました。所が、歩き始めから急な坂が続き、休み休み登っていると、後ろから来た若者の団体に追い抜かれました。その若者達が、直ぐ先で、休憩に入りました。近づいてみると、そこは、急な階段の下の小さな  広場になっていました。長くて急な階段が目の前に見えました。引き返そうかと思ったほど、心が萎えました。しかし、ここで止める訳にはいかず、若者達を置いて、階段を上りました。胸が苦しく、足も震えましたが、それほど時間をかけないで登ることが出来ました。階段が終わって、更に少しだけ坂を登ると、五重塔が見えてきました。神社に五重塔は変ですが、神仏合祀の名残かも知れません。しかし、五重塔は、コンクリート製で、何かを祀ってある気配はありませんでした。五重塔の上の頂きに、愛宕神社がありました。奥多摩の町を見下ろし、奥多摩の山や谷を見ることが出来ました。2年ほど前、仲間と登った本仁田山も見えました。この愛宕神社の狛犬は、阿形と吽形が逆でした。この置き方に、何か意味があるのか、未だに分りません。単なる置き間違いかも知れません。私が、愛宕神社にお参りを済ませた所に、若者達が登って来ました。山に慣れていない人もいるようでしたから、会社の新人研修かも知れません。

 帰りの道で、3段階に分かれた階段の数を数えると、40,56,92段、合計188段でした。それにしても、急な階段でした。階段の下にある愛宕公園の彫像を見て、わさび漬けの山城屋の裏手に下りました。奥多摩に来ると、7割り方此処で、わさび漬けを買って帰ります。伊豆のわさび漬けより歴史が古いと言われています。山城屋には、江戸時代の味を残したわさび漬けを売っています。今日は、その大江戸わさび、もろみわさびを買いました。

 奥多摩に来ると、必ず一杯飲んでいた、居酒屋「むら㐂」に寄ってみました。5人で満席の小さな居酒屋です。3時半だったので、営業しているか不安でしたが、やっていました。引き戸を開けると、私の顔を見たママさんが、「あら、久し振りねー、どうしていたの」と懐かしそうでした。少し腰が曲がった感じでしたが、元気でした。それから、生ビールを飲みながら、暫く胃癌の手術の話になりました。先客に80を過ぎた地元の老人がいました。その老人から、戦後の奥多摩の話を聞きました。老人が、わさび味の岩のりを取り出して、「これで豆腐を食べると旨い」と言って、小さなパック入りの岩のりをくれました。それから、奥多摩の地酒「沢ノ井」に替え、冷や奴、ウドのきんぴら、山菜の天ぷらを頼み、老人から貰った岩のりで、冷や奴を楽しみました。暫くすると、三頭山に登ったと言う40代くらいの若者と、御嶽山、大岳、鋸山を縦走してきたという30代後半の夫婦が来て、居酒屋は満席になりました。老人は、この二組にも、岩のりを上げましたので、全員私と同じ酒の摘まみとなりました。

 山の話しが盛り上がって、楽しい酒でしたが、4時25分に居酒屋を出て、4時34分の電車で帰りました。この時間帯を逃すと、極端に電車の数が減るのです。我が家に着いたのは、6時半過ぎでした。次男と飲み直しましたが、眠くて眠くて、ほとんど居眠りをしていました。心地よい疲れでした。

 

「今生に この風景を あと何回 思えば愛し 若葉の奥多摩」

「瑠璃色の 水に映りし 若葉色 春の華やぎ 奥多摩渓谷」  

「奥多摩の 高き頂き 憧れて 横目で見ていた 愛宕山かな」

「愛宕山 この階段を 登らずば 神の御利益 なき物と知れ」

「新緑の 鎮守の森に 非情なる 心新たに 天への階段」

「愛宕山 登りし後は 先ず1杯 暖簾を分けて 馴染みの酒場」

「山の後 狭きが故に 寛げる 肩の触れ合う 奥多摩酒場」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 7日 (日)

2017年05月06日

2017年05月06日

 

 今朝も良く晴れていましたが、今日の富士は、笠雲を被っていました。富士が笠雲を被ると、天気は下り坂だそうです。しかし、関東の天気が雨模様になるのは、夜からだそうです。

 所で、昨日書いたハルジオンとヒメジオンですが、非常に良く似ています。その見分け方は、ウィキペディアによれば、標準的には、ヒメジョオンの方が背が高く、花は小さくて数が多く、根本がすっきりしている。これに対して、ハルジオンは背が低く、花は大きくて少なく、根本に葉がある。また、ハルジオンのは下を向いて項垂れているような特徴がある。従って、しっかりと比べて見れば、はっきりと見分けがつく。分かりにくい場合は、を折ってみるとよい。ヒメジョオンの茎には空洞がないが、ハルジオンの茎には真ん中に空洞がある。葉の付き方も違い、ヒメジョオンの葉は茎を抱かないが、ハルジオンは茎を抱くように付くとのことでした。そして、ハルジオンは、春という接頭語が付くように、夏以降は、見たことがありません。反対にヒメジオンは、初冬まで咲いています。

 また、私がアカシアと書いているのは、全てニセアカシア(ハリエンジュ)のことです。私は、本当のアカシアを見たことがないのです。ニセアカシアとアカシアの違いは、これもウィキペディアに拠れば、次の通りです。

ニセアカシアとアカシア: 明治期に日本に輸入された当初は、このニセアカシアをアカシアと呼んでいた。後に本来のアカシア(ネムノキ亜科アカシア属)の仲間が日本に輸入されるようになり、区別するためにニセアカシアと呼ぶようになった。しかし、今でも混同されることが多い。本来のアカシアの花は放射相称の形状で黄色く、ニセアカシアの白い蝶形花とは全く異なる。次のは全てニセアカシアとされる。(札幌のアカシア並木、アカシア蜂蜜として売られているもの、西田佐知子のヒット曲「アカシアの雨がやむとき」に歌われる「アカシア」、石原裕次郎のヒット曲「赤いハンカチ」に歌われる「アカシアの花」)

 今日は、午後2時頃から、十字架に見える鉄塔の正体を見るために、七生丘陵の三沢配水所の所まで歩いて来ました。我が家から見ると、配水所の塔の右側に、鉄塔が見えるのです。送電線用の鉄塔です。所が、配水所の所で、周囲を見回しましたが、何処にも鉄塔が見当たりませんでした。鉄塔は、背が高いので、直ぐに見つかると思っていたのですが、とても不思議でした。また、良く研究して、再挑戦しようと思います。しかし、丘の上の花一杯の家の庭で、ジャスミンの花とアオスジアゲハ(青条揚羽)を見ました。アオスジアゲハは、ここ数年、我が家の近くの多摩川では、見かけたことがありませんでした。それにしても、アゲハチョウの模様の綺麗さには、何時も驚かされます。

 5時近くに、家に戻りました。以前摘んできた野蒜が、まだ残っていましたので、もう1回餃子を作りました。韮も大蒜もたっぷり入れて、強烈な臭いの餃子になりました。大判の餃子で、次男と10個ずつ、食べました。餃子だけで、結構、腹一杯になりました。

「丘の上 花の館を 飛び回る 久し振りだね 青条揚羽」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 6日 (土)

2017年05月05日

2017年05月05日

 

 昨日に較べると、霞の強い朝でしたが、富士は見えました。我が家から見る富士は、頂上付近なので、まだ、真っ白です。

 今日は、子供の日で、古くから、端午の節句あるいは菖蒲の節句と呼ばれ、男の子の節句とされています。ウィキペディアによれば、元々は、男の子だけの節句ではなかったようですが、菖蒲が尚武と同じ読みであること、菖蒲の葉が剣に似ていることから、鎌倉時代に男の子の節句になったようです。そもそも、何故菖蒲の節句と呼ばれたのかは、定かではありませんが、端午の節句(中国由来)の際、宮中では、菖蒲の髪飾りを付けた人が、武徳殿に集まり、天皇から薬玉を賜った行事から、菖蒲の節句と呼ばれるようになったのではないかと思われます。端午の節句は、鎧兜を飾り、鯉幟を上げる習慣がありましたが、最近は、団地住まいや、広い庭を持たない一軒家に住む人が増えて、個人の家に鯉幟を見るのは、珍しくなってしまいました。

 午後1時頃から、西府緑地、中川原公園、第3都市緑道、郷土の森公園、下川原緑道、高安寺を渡り歩いて、大国魂神社に行って来ました。

西府緑地の花水木は、花の時期が終わり、代わりにアカシアの。花が咲き始めました。道端でも、ハルジオンからヒメジオンに替わって来ました。赤花や常磐露草も咲いていました。私は、常磐露草意外に、3弁の花を知りません。中川原公園の棗の木は、漸く芽吹きを始めた所でした。棗の花の時期までは、もう暫く掛りそうでした。郷土の森に近い緑道では、今が紅葉真っ盛りのモミジと、新緑真っ盛りのモミジが、並んでいました。栃の木並木もあるのですが、何故か花が咲いていませんでした。

郷土の森公園の中には、ひとつばたご、別名ナンジャモンジャノキの大木が2本、木全体が、雪に覆われたように、白い花を付けていました。郷土の森公園には、何度も来ているのに、ナンジャモンジャノキの花を見たのは初めてでした。ナンジャモンジャノキは、深大寺にもありますが、郷土の森公園のは、何処でも見たことがないような大木で、壮観でした。また、日本庭園の中では、黄色い花の石楠花が、赤い花の石楠花と共に、花を咲かせていました。八重桜も、数輪残っていました。カルガモが、天下を取ったように、睡蓮の花をかき分けて、泳いでいました。公園中が、新緑で覆われ、この公園が一番美しい時だと思いました。

下川原緑道は、花の道でもあります。栽培種の花も沢山植えられていました。生け垣は、早春の雪柳から、今は小手毬の真っ白い花が、枝垂れていました。ポピーの畑もありました。草藤が、紫陽花の上まで背を伸ばして、「こんな紫陽花の花もあるんだ」状態になっていました。

高安寺の新緑も見事でした。山門の脇の竹林には、今、筍から竹になったばかりの、若い竹が、何本か混じっていました。塔婆と墓石も新緑に囲まれ、初夏の日を浴びて、なんとなく晴れやかでした。

高安寺から10分足らず、大国魂神社に入ると、毎年のことながら、数え切れないほどの屋台が、何列も並んでいて、どの道も歩けないほど大混雑でした。この屋台の規模は、日本でも上位にランクされるのではないでしょうか、少なくとも私は、これ以上の屋台の規模を、経験したことがありません。大国魂神社の「くらやみ祭」は、名前の通り、暗くなり始める、夕方6時頃から、山車や太鼓の行列などの行事が始まります。それは、何度も見ているので、今日は、今晩の酒の魚にするために、タコ焼き、イカ焼き、ケバブを買って帰りました。

夜、次男と、屋台で買ってきた肴で、酒を飲みましたが、屋台の料理というのは、その場で食べてこそ旨いので、持ち帰って家で食べたのでは、旨い物ではないことが分りました。

 

「新緑の 並木の中に 際立ちぬ 青空背にした アカシアの花」

「ハルジオン ヒメジオンに 席譲り 季節は変わる 春から夏に」

「初夏の陽に 若葉が赤く 燃えている 秋さながらの 春紅葉かな」

「公園の 二本の木だけ 冬景色 ナンジャモンジャの 白き花かな」

「新緑の 葉陰に数輪 八重桜 忍が如く 咲いているなり」

「夥し 白き手鞠を ぶちまけて 小道に過ぎたる 山盛りの白」

「卒塔婆も 静かに並ぶ 墓石も 初夏の陽浴びて 晴れやか気分」

「紫陽花の 若葉の上まで 背を伸ばし 草藤演じる 紫陽花の花」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 5日 (金)

2017年05月04日

2017年05月04日

 

 この数日、毎日富士を見ることが出来ました。今日は、空気が乾燥しているのか、冬に見られる富士のように、くっきりと白く輝いていました。

 山歩きの翌日には、山歩きの様子を紀行文に纏めるようにしています。何処をどの様に歩いたかは、出来るだけ写真に撮ってはいるのですが、歳を取ったので、早めに纏めないと、色々なことを忘れてしまうのです。また、昨日は山歩きの打ち上げの後、同じ方向の仲間と、一杯飲んで帰りましたので、家に着いたのは、10時近くになってしまいました。そんなわけで、昨日の山歩きの75調の紀行文を纏めるのに、午前中一杯掛ってしまいました。山歩きの仲間も歳を取ってきて、あと何年、山歩きを続けられるか分りませんが、今は、良い仲間がいて、とても幸せだと思います。

午後2時から、浅間山公園(せんげんやま)に行って来ました。通常は、多磨霊園駅からバスに乗って、多磨霊園に行き、そこから「きすげ橋」を渡って、浅間山に行くのですが、今日は、多磨霊園駅から歩きました。旧甲州街道を越えた所に、小さな公園がありました。「えーこんな所に」と思えるような、立派な裸婦像が立っていました。甲州街道を越えた所には、上染屋八幡神社がありました。旧甲州街道の所から、参道が続くのですが、小さな神社でした。

この神社は、別の地から、この地へ遷座したとのことです。遷座したこの地は、昔、上染屋村と言ったようで、その村の守り神となったのが、神社の名前の由来だそうです。そもそも染屋という地名は、租税として納められた武蔵国特産の調布(てづくり布)を染めたことから、名付けられたと、伝えられているそうです。良い勉強になりました。

神社から真っ直ぐ北に歩くと、多磨霊園から浅間山に行く「きすげ橋」の下に出ました。「きすげ橋」を下から見上げるのは、初めてでした。堂山の頂上(80m)の浅間神社から、前山に行く丘の斜面には、金襴の群落がありました。林の下が、金襴で埋まっている感じなのです。昨日、半日かけて山歩きをしても、たった1本の金襴に出会っただけでした。私が歩く、多摩丘陵も、ぽつんぽつんと咲いている程度なのです。それに較べ、浅間山の金襴は凄いです。しかし、1本の銀欄も見かけませんでした。以前は、数本銀欄の咲く場所が、在ったのですが、どうしたのでしょう、心配です。

浅間山は、武蔵野きすげの自生地としても有名です。既に「きすげフェスティバル」は始まっていましたが、きすげは、咲き始めたばかりで、見頃を迎えるのは、4,5日先だと思いました。

浅間山から、府中の森公園まで歩いて、チューバスに乗りました。バスのドアが閉まらないほどの大混雑でした。浅間山は、人が少なかったのですが、府中の森公園は、家族連れで混雑していました。連休中は、子供連れで行ける所が、混雑するようです。

チューバスが着いた府中駅は、更に混雑していました。そう言えば、3日から5日まで、府中は、大国魂神社の「くらやみ祭」でした。丁度、大太鼓の競演の時間でしたので、競演を見て、我が家に戻りました。6時を過ぎていました。

その後、次男と酒を飲みながら、「黒部の太陽」を見ました。懐かしい顔が何人も出てきました。40数年前、この映画と「伊豆の踊子」をジープに積んで、中南米のペルーの町や村で、映画界をやったことを思い出しました。そして、「黒部の太陽」を映画館で映写した際、現地の映写技師が、フィルムの順番を間違えたこと、帰る前にジープを止めていた駐車場で、映画のフィルムを全部盗まれたことも思い出しました。色々、失敗の多い人生でした。

 

「違う道 歩けば新たな 発見が 武蔵府中は 知ること多し」

「五月晴れ 浅間山の 森の下 金襴群れ咲き 金の花筵」

「薄暗き 森に差し込む 木漏れ日の 金襴照らし 金色の花」

「ちらほらと 武蔵野きすげ 咲き始め 浅間山は 花の季節に」

「府中駅 驚くばかりの 人の波 大国魂神社 くらやみ祭」 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 4日 (木)

2017年05月03日

2017年05月03日

 

 今日は、秩父の方の天覧山、多峯主山(とのすやま)に山の仲間と登りました。登ったと言うより、歩いたという方が正確かも知れません。何時ものように、75調の紀行文から、今日の様子を推測してください。

 

展覧山・多峯主山紀行

 

「連休中 秩父へ向かう 西武線 身動き出来ぬ 大混雑」

「五月晴れ 笑顔が揃う 高麗の駅 今日の仲間は 11人」

「人波の 後に続いて 歩き出す 最初に目指す 高麗峠へ」

「庭先に 木香薔薇が 山盛りに 五月の里の 見慣れた風景」

「北の地に 似合いの花の ライラック 高麗の里にて 我等迎える」

「高麗川の 河原を埋める テント村 遊牧民の 大移動かな」

「彼岸には 林を埋める 曼珠沙華 巾着田は 滋養蓄積中」

「新緑の 林を抜けて あいあい橋 長閑な里山 峠への道」

「里山を 過ぎて漸く 森の道 冷気を残す 風の流れる」

「突然に 見晴らし開く 萩の峰 程よく霞む 多摩の峰々」

「蒼霞む 大岳見つつ 昼餉かな 皆で分け合う 持参の品々」

「あれ此処が 天覧山の 頂上か コンクリートの 見晴台なり」

「萩の峰 昼餉にしたは 大正解 天覧山は 座る場所無き」

「頂上で 記念撮影 頼みしは 話し大好き 陽気な爺さん」

「道筋に 次々花咲く 山ツツジ 多峯主山へ 花の道かな」

「今日の山 最後に程よい 上り坂 登った山頂 271メートル」

「東京の ビルの林を 遠望し 近くの奥多摩 秩父を楽しむ」

「緑濃き 丘の連なる 山間に 墓場のような 新興住宅」

「頂上に トイレマークは 或るものの トイレのなくて 林で放尿」

「久し振り 横須賀の人 参加して 背中向けての 関東連れション」

「帰り道 新緑萌える 吾妻峡 飛び石トントン ドレミファ橋」

「渓谷の 林の木々に 藤下がり 萌葱に紫 初夏のカーテン」

「岸辺には 一輪草に シャガの花 藪ニンジンも 咲き誇るなり」

「伏見の人 岸辺の道で 野球かな 両手広げて 滑り込みセーフ」

「何時もなら 元気が売りの 逗子の人 宴の店が 遠いと嘆く」

「11人 揃って座った 円卓で 宴始まり ビールで乾杯」

「瞬く間 追加のピッチャー 二つ空け 宴いきなり 佳境に入る」

「変則な 料理の注文 分りかね 中国人の ママさん苦労」

「隣席の 老人我等に もの申す 苦情と思えば 礼賛しきり」

「宴終え 今日も登場 救い主 気楽に酔える この人のいて」

「円卓が 突然あしたば 直売所 作り主から 只で受け取る」

「飯能に 夜の帳の 下りてきて 思い思いの 家路へ向かう」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 3日 (水)

2017年05月02日

2017年05月02日

 

 昨晩の月が綺麗でしたから、ある程度予想していたのですが、これを五月晴れというのでしょうか、素晴らしい朝でした。富士も思いの外くっきりと見えました。

 今日は、この前行くのを止めた、昭和記念公園に行って来ました。午後2時近くに家を出て、公園に着いたのは、2時45分くらいでした。ゴールデンウィークの性でしょうか、大変な混雑でした。西立川口から入ると、目の前が大きな池になっています。通常週日は、ボートを貸し出さないのですが、今日は沢山出ていました。右の方のボートが入らない池の方に降りて、「この池もカルガモだけになってしまったなー」と思いながら、池を見ていると、カイツブリと思われる小さな水鳥が、私と目を合わせて、水に潜ってしまいました。10分以上水面を見ていましたが、再び水面に顔を出す場所を確認できませんでした。写真も撮れなかったので、後ろ髪を引かれましたが、園内を散歩に出かけました。

 この時期には、大規模なチューリップの花畑が作られるのですが、一番見頃の時期は過ぎていました。それでも、強い日差しを受けて、色鮮やかなチューリップを楽しむことが出来ました。隣の広場には、名前は分りませんが、オオイヌノフグリより更に大きな青い花が、一面に咲いていました。昭和記念公園には、沢山の花が咲いているのですが、花畑は全て人間が作ったものなので、多摩川の土手を歩く時のように、野草の花を見つける感じとは、随分違った感じになりました。

 その昭和公園の中で、銀欄を見つけました。道脇の生け垣の下で、ひっそりと咲いていました。何時もなら、森の貴族のように見えるものなのですが、今日は、なんだか、いじけた少年のように見えました。他の花々が、余りにも豪華だからでしょう。

 森の道を越え、更に北の大滝を超えて、ポピーの丘に出ました。ここも盛りは過ぎていました。それでも、遅咲きのポピーが最後の時を演じているようで、満開の時よりも愛おしく感じました。傾いた西日が、ポピーの薄い花弁を突き抜け、茎の毛まで光らせて、これが芥子の美しさだと言えるような、とっても良い写真が撮れました。大きな広場の横の道で、サギゴケの花に蜜蜂が、来ていました。サギゴケの花は、地面にへばり付いているので、蜜蜂が羽蟻に見えました。

 ポピーの丘を出ると、4時過ぎてしまいました。園内の放送で、5時には全ての門を閉めると言っていました。今日は、遅く着いたので、十分に回れませんでしたが、それなりに楽しんだので、西立川口の方に戻りました。そして、来た時の池を見ると、小さな水鳥が泳いでいました。急いでカメラを向け、今度は、写真を撮ることが出来ました。「かいつぶり」に間違いないと思います。五月晴れの日の下に、カイツブリを見るとは思いませんでした。留鳥になってしまったのでしょうか、珍しい光景に出会いました。

 家に帰りったのは、6時過ぎていました。7時過ぎから、小仏街道を歩いた時に買ってきた、するはしの寄せ豆腐等で、次男と晩酌をし、10時過ぎには、テレビを止めて、大急ぎで日記を書きました。明日は、山の仲間と天覧山に登るので、朝早く家を出なければならないからです。 

 

「公園の 目玉商品 チューリップ 人群がりて 役目を果たす」

「銀欄が ここで咲くのは 嫌だよと 言っているよな 昭和公園」

「丘埋める 盛りを過ぎた 芥子の花 頭を垂れて 客を迎える」

「サギゴケに 仕事熱心 蜜蜂の 止まり蜜吸う 春は爛漫」

「あの鳥は カイツブリでは あるまいか 五月の池に 冬の渡り鳥」 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 2日 (火)

2017年05月01日

2017年05月01日

 

 今朝も、非常に良い天気でしたが、富士は、霞の奥に姿を隠しました。昼頃から、俄に空が暗くなり、雷の音が聞こえるようになりました。

 朝10時頃から、次男は病院に行きました。膝の回復具合、職業と膝の関係等を、詳しく聞いてくるように言いました。そして、私の朝の作業が、まだ終わっていない、12時過ぎには、帰って来ました。膝の回復具合に関しては、かなり良くなってきているが、まだ仕事に復帰できる状態までは、回復していない模様でした。そして、今後仕事が続けられるかどうかに関しては、医者は、明確な意見を言うのを避けたようです。結局は、次男自身が決めなければ、ならないようです。

 妻と待ち合わせの為、3時15分頃に家を出ました。丁度その頃、激しくはないものの雨が降っていました。携帯用の小さい傘にするか、普通の傘にするか迷いましたが、ステッキ代わりに普通の傘にしました。雨は、家を出て、僅か2-3分で終わりました。家の戻っておいてこようかと思ったくらいでした。しかし、バスに乗り遅れそうなので、そのまま傘を持っていきました。バスを待っていると、西の空の端に見えていた青空が、急速に広がり、バス停にも日差しが届くようになりました。僅か12,3分の出来事でした。その後は、雨の後の晴れやかな天気に変わり、待ち合わせの場所の赤坂見附も、何時になく街が輝いて見えました。

 5時少し前に、妻が現れました。夕食には、早かったので、喫茶店に入り、少し話をしました。二人には、何時も何処かにわだかまりがあります。お互いが歩いてきた人生が違うので、価値観や常識等々が違うのです。人間、十人十色、百人百様ですから、違うのが当然であり、違うからこそ人生は楽しいと思います。所が、夫婦という特別の形で、身近にいると、お互いが相手に対する要求が強まり、我慢が出来なくなる時が増えてきます。我々のように歳を取っても、悠々自適というわけには、行かないのです。友達とであれば、水に流せることが多いのですが、夫婦だと、そうも行かないのが困ったものです。結局、話しはこれまでに話したことと、大差ありませんでしたが、今後はもう少し、夫婦としてではなく、友達として付き合うと言うことで、今日の話し合いを終わりました。

 宵闇が迫り、赤坂のビルの谷間にも、三日月が出ましたので、夕食にすることにしました。焼き肉を食べることにしたのですが、赤坂の再開発は、途切れることなく続いていて、昔の店が見つからなかったり、入った店の何軒かは混んだりしていて、店を決めるのに、30分以上掛ってしまいました。漸く入れた店は、最近開店したような、小綺麗な店でした。メニューは豊富ではありませんでしたが、そこそこ美味しい店でした。歩き回って、お腹が空いていたせいかもしれません。食事中は、お互いの話を止めて、世間話をしながら、久し振りの夕食を楽しみました。

 赤坂見附で妻と別れて、聖蹟桜ヶ丘から最終バスで、我が家に戻りました。赤坂のビルの谷間に出ていた月が、多摩川の直ぐ上まで降りてきていて、赤坂の時よりは、大分大きく見えました。月は、ほぼ毎日出ているのでしょうが、夜出歩くことが少ないので、私にとっては、ほぼ一月振りの月でした。

 

「五月晴れ 俄に曇り 雷鳴も それも一瞬 青空戻る」

「お互いの 要求強きが 夫婦の縁 我慢できぬも 夫婦の縁かな」

「赤坂の 高層ビルの 谷の上 赤い灯見下ろす 五月の三日月」

「都心から 多摩の我が家に 付いてきて 七生が丘に 沈む三日月」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 1日 (月)

2017年04月30日

2017年04月30日

 

 今日は、素晴らしい天気でした。朝の内は、何時もより霞も弱く、十字架も富士も見えました。

 年が明けたのは、つい最近だと思っていたのですが、4月も今日で終わりです。残り少ない人生が、猛スピードで消化されているような気がしました。別に長生きしたいと思っているわけではありませんが、森羅万象、千変万化の多様性豊かな宇宙を感じることが出来なくなり、知人、友人達との心の触れ合いも出来なくなり、私という人間の存在が、精神的にも肉体的にも消滅してしまうことは、やはり残念なことであり、恐怖も感じずにはいられません。しかし、歳を取ることにより、この残念な気持ちと恐怖が小さくなっていくのだと思っていました。私は、父よりも既に一回り長く生き、十分長く生きたと思っていましたし、老後は、やることも無く、時間が有り余り、時間がゆっくり過ぎると思っていたのですが、どうもそうではないようです。

 明日、久し振りに妻と会います。この前、友人が持ってきた梅干しを持って行こうと思っていたのですが、妻から宅急便で送って欲しいと言われました。そこで、11時過ぎには家を出て、宅急便の会社の集配所に行って、箱詰めをして貰い、送付の手続きを済ませました。

 集配所から、真明寺を抜け、一の宮の小野神社を通り、聖蹟桜ヶ丘に出ました。神社の周辺には、立派な庭と屋敷を持った旧家が何件かありました。どの家の庭にも、藤が咲き誇っていました。小野神社の紀元は、8世紀と言われ、近隣の神社では筆頭の、武蔵一の宮だったそうです。この神社には、東京都の有形文化財「木造随身倚像」が保管されているそうです。残念ながら、限定的に公開されるらしく、私は見たことがありません。

今日は何処を歩くか、少々迷いましたが、小仏街道を歩くことにしました。聖蹟桜ヶ丘のコンビニで弁当と水を買い、高尾に出ました。小仏行きのバスが、20分後の1時14分に出るので、バスを待つベンチで弁当を食べました。恥ずかしげもなく、こんなことが出来るようになってしまいました。

バスには、ほとんど乗客はいなかったのですが、小仏から戻るバスとは、何台も擦れ違いました。臨時便が何台も出ているようでした。連休の初めの、好天に恵まれた日曜日なので、恐らく高尾の方から、多くの登山客が回ってきたのだろうと思いました。

小仏の一つ前の、日影で降りて、軽く日影沢を歩きました。日影沢には、二輪草の大きな群落があるのですが、花の盛りは終わったようでした。数は少ないものの、一輪草、立浪草も咲いていました。

 日影沢から、小仏街道に戻り、ツツジ、藤、花水木、蔓薔薇、芝桜、ペラペラヨメナ等々街道を飾る艶やかな花を見ながら歩きました。ある家の石垣で、写真を撮っている人がいたので、「何を撮っているんですか」と聞いた所、「ほら、ここに姫菫が咲いているんだよ、あっちのは翁草だよ」と教えてくれました。教えて貰わないと、絶対見過ごしただろうと思います。それほど小さな、紫の濃い菫でした。逆に、翁草は大きな花でした。二つの花は、初めての出会いでした。

写真を撮りながら、ぶらぶら歩いていたら、小母さんが「山に登って来たの」と声をかけてきました。「今日は、小仏街道を歩くのが目的なんですよ」と応えたら、「小仏街道は、今が一番綺麗だからね、この道をバスで行くのは損だよね、私は、何度もこの道を歩いているのよ」と、我が意を得たりと言わんばかりの喜びようでした。ある家の庭に、平屋の屋根を越えそうな、真っ赤なツツジが山盛りに咲いていました。庭には、チューリップの他に、白花碇草、狐のボタン、デージーが咲いていました。写真を撮っていると、別の小母さんグループがやって来て、「これって碇草よね」「あのツツジ凄いね」等と大騒ぎでした。

更に歩いていると、栽培種の花のような芹葉飛燕草や、白い菜の花のような花、白花花ズオウ、ナズナの弟分のような花、等々に出会いました。或る家の庭に、ヒヤシンスに似た、紫の花が何本も立っていました。庭に出ていたお婆さんに花の名前を聞いてみたら、「わたしゃー 十二単だと聞いているんだけどねー」と言われて驚きました。私が、多摩丘陵で見ている十二単は、白い花ばかりでした。ネットで調べたら、家庭で育てているのは紫の方が主流でした。今日は、実り多き、一日となりました。

高尾野駅の改札の横で、野蒜と筍を売っていました。或る夫婦の奥さんが、野蒜のことをご主人に「これって、ラッキョウよね」と言っていたので、私が知ったか振りをして、「これは野蒜ですよ」と言うと、ご主人が「こいつはラッキョウが好きで、この手のものは全部ラッキョウに見えるんですよ」と笑っていました。野蒜が売り物になるのですねー。まさか栽培はしていませんよねー。一束160円でした。この前、私が採った野蒜は、1000円を軽く超しそうでした。摘んだ後の整理の必要がないので、有り難いとは思いますが、野蒜は、摘むことも楽しみの大きな要素だと思います。

 

「家々を 飾る花々 盛り沢山 花の街道 小仏街道」

「石垣の 継ぎ目に小さな 姫菫 守ってあげたい 可愛い君を」

「すわ火事か 屋根超す真っ赤な 炎かな 紅蓮に輝く ツツジの大木」

「小母さん等 見つめる先の 碇草 色を失い 白花となる」

「今日の君 花も大きく 美しき せせらぎの縁 芹葉飛燕草」

「小母さんが 手に取り顔寄せ 香り聞く 咲いて良かった 藤の花かな」

「晩冬に 小仏街道 埋めていた 花は実となる 梅郷の梅」

「庭先に 紅白ズオウ 並び立つ 紅白揃えば お祭り気分」

「高尾駅 旬の山菜 野蒜かな 買って食べたい 気にはならざり」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年4月 | トップページ | 2017年6月 »